お前は誰だ

 こつん、という小さな音で男は目を覚ました。


 ベッドの中で伸びをしてから上体を起こし、窓へと目をやる。白いカーテンの隙間から、朝の日差しが漏れていた。

 男は床へ足をつき、窓際へ向かう。手を伸ばし、半分ほどカーテンを開けた。

空を見れば、雲一つない晴天。気分が晴れやかになり、寝起きの怠さが吹き飛んだ。


「ヴィー、朝だ」


 ベッドへ戻り、固く目を閉じ眠っている黒髪の女を揺り起こす。長い睫毛が震えたが、覚醒を拒否して、日光から顔を背けた。


「眩しい、閉めて」


 小さな声で訴える。そして、寝たまま男にすがり付いた。


「寒い」


 肩をむき出しにして眠っていたからだろう。男は苦笑して、寝具をかけ直してやった。

 掛布に残る男の体温を感じ安心したのか、女は再び眠りについたようだ。男は柔らかく微笑み、女の頬にかかる黒髪をそっと退けてやった。


 そのとき、またこつんと音がした。窓になにか当たったようだ。

 鳥や小動物ではなさそうだ。足音を殺して確認に向かう。


 控えめにカーテンを開けて見下ろすと、裏庭にシェリルが立っていた。二階こちらを見上げて、尋常ではない形相でなんらかのジェスチャーをしている。

 どうやら、早くここまで下りて来いということらしい。


 了解を示すため、親指を立てる。

 そして女を起こさぬよう、静かに寝台から離れようとしたが――。


「どこへ行くの」


 腕を掴まれ振り返ると、女が薄目を開けていた。

 気怠げで無防備な女は、普段の冷たい姿とのギャップもあって、たまらなく可愛く見えた。


「シェリルが呼んでいる」

「……そう、だったら、行ってちょうだい」


 女はシェリルに優しい。シェリルが必要としているならばと、あっさり解放される。


「私も、すぐに起きるわ」


 女はそう言うが、彼女の『すぐ』は果たしてどれほどのちに訪れることか。


「風呂を用意しておくよ」

「ええ」


 女は満足そうに頷くと、一度は放した男の腕を、再度引っ張る。

 彼女が何を求めているか理解した男は、その望み通り、顔を寄せてくちびるを重ねた。女は当たり前のように舌を入れてきたので、男は軽く噛み返す。


 『彼ら』にとって、くちびると舌と歯での接触は、親しい者の間でごく自然に行われるコミュニケーションなのだという。最初はどぎまぎしたが、今はこちらも自然と返すことができる。


 その口づけが終わると、女は男を追い払うように背中を向け、二度寝へと落ちていった。今のキスはさしずめ、『おはよう』と『いってらっしゃい』の入り混じった挨拶といったところだろう。


 男は伸びをしながら部屋の出入り口へ向かう。胸の中には、穏やかな幸福感。

精緻な彫刻の施されたドアノブを握り、軽やかな心情のままに力いっぱい扉を押し開く。


 途端、ごつんという衝撃。


「ぎゃっ!」


 続く悲鳴。

 やっちまった、と慌てて廊下へ顔を出し、被害者が何者かを確認する。聞いたことのない声だった。


「酷いじゃないか、ヴィー!」


 自分と同じ歳くらいの黒衣の青年が、頭を抱えて蹲っていた。髪の色は珍しい銀色で、中央で左右に分けて、白い額を出している。

 初めて見る顔だったが、自分と女を間違えて親しげに話しかけている様子から、不審者ではないのだろうと推察した。


「あの、ごめん、大丈夫か?」


 話しかけると、銀髪の青年は凄まじい勢いで顔を上げた。目が合う。これまた珍しい、金色の瞳だ。


 美形だ、と素直に思っていると、青年は秀麗な顔を歪め、大音量で絶叫した。


「お前は誰だぁっ!!」

「あー、その、俺は……」

「お前、いや、貴様ッ、ヴィーの部屋からなぜ一体どういうっ!」


 青年は支離滅裂なことを口走る。怒りと混乱で頭と舌が回らないようだ。

 なんと説明しようか迷っていると、痺れを切らしたように室内へ侵入しようとする。


「ヴィー! 起きているのかい? この男は一体……」


 青年の顔面に、白い枕がぶつかった。人外の剛力による投擲。その威力は尋常ではなかっただろう。

 それを証明するかのように、青年はひどく醜い悲鳴を上げ、ひっくり返る。


「ああ、うるさいッ!!」


 屋敷の主はベッドから身を起こし、不機嫌極まりない様子で髪をかき乱していた。

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