第1話 兆し①

 時刻は午前七時十分、赤石一はスマートフォンの二度目のアラームで目を覚ます。


「そろそろ全日制が来る時間か」


 寝不足と、筋肉痛と、慣れないところで寝たせか体めっちゃくちゃ痛いのだが。


「くっそぉ、めんでー」


 彼は悪態をつきながら畳から体を起こす。そうここは現像室、彼は学校に泊まったのだった。


 昨日の部活動後夜も更けて、彼女達の帰宅をどうしようか迷っていた、最悪自腹で全員分のタクシーもありえた。しかし元々迎えに来る予定だった優幻のお母さんと、御伽噺が再び大将を呼んでくれたお陰で彼女達は無事安全に家に届けることができた。


 問題だったのは彼自身が帰れなくなったしまったことだった。


 優幻のお母さんの車には優幻と桜葉が乗り、大将の車には楓ちゃんと問題児コンビが乗車した。流石に学校の連中に楓ちゃんと同じ屋根の下に住んでいる事を、明かすことはできなかったので、『俺はまだ後片付けがあるのでと』学校に残ることにした。そこまではよかった。


 ちょっと残るならと翌日に予定していた、屋上の片付け始めたのが行けなかった。


 あのショートホームルームのために最終的に用意した物は、天体望遠鏡が一台、机は六台、アルコールランプが三個だ。準備もそうだったが机の移動は一人では非常に時間がかかる。二台同時に運んでも三往復、その後理科室へアルコールランプ三台を返却、天体望遠鏡は組み立てたまま社会科職員室に持っていくのは、故障してしまうかもしれないので、そのまま屋上へ出る踊り場に放置。


 気づいたときにはあれよあれよと終電の時間を過ぎていた。


「あー、報告か」


 基本的に徹夜で学校に残ることは許されていない。それはブラック企業、労働うんぬんよりも防犯面でのことだ。本来であれば鍵が締まっているのになぜか鍵が空いてる、もしかしたら学校に侵入者かもしれない、そんな疑惑を晴らすために、昼間の教員のボスである、全日制の副校長に残った経緯を説明しなくてはならないのだ。


「しゃーなし」


 赤石は痛む体に鞭を打ち、全日制の職員室へ向かった。


「なるほど、そうですか。お疲れ様です赤石教諭」


「昨日は屋上への出入りなど、ご配慮ありがとうございました、また今後は学校に泊まる事がない様に計画性を持って部活動に臨みたいと思います」


「はい、わかりました」


 全日制の副校長への報告は滞りなく終了した。部活動の発足理由とか、夜中ラーメンを食べたとかめんどくさい報告は一切しなかったお陰だもともと全日制の教諭が徹夜で残ることが稀にありうるので、あまり大きい問題と捉えなかったのだろう。


 副校長も、そんな日もあるでしょう。程度の認識でしかない。


 赤石だってそんなことはわかってはいるが、一応は東京都の管理下の施設で、その施設が夜中から始業にかけての約六時間鍵がかかっていなかったという問題の原因である彼には説明する義務があった。


 全日制の副校長への報告が終わったのちに彼は、屋上で天体望遠鏡の解体作業を行い、再び現像室で定時制の始業時間まで仮眠を取るのであった。




 感動的なショートホームルームを行い、大団円を迎えたはずだった第三久須師高等学校定時制一年一組、しかし現実はそんなにうまくはいかなかった。


「……なんだこの状況は、おい」


 時刻は午後十七時四十分、赤石一はショートホームルームの最中であった。


「おい、昨日の今日でこれかよ。……はぁ」


 誰にも聞こえないほど小さい声でつぶやき、片手で頭を抱えた。


 一年一組の教室には生徒が三人しか居なかった。


 出席番号三番、桜葉成見。出席番号四番、御伽噺楓。出席番号五番、小望月優幻しか学校に登校をしていなかったのである。


「はぁ、全員は……居ないんだった」


 いつもと同じ全員居るな以上解散と言うところだった、あぶない、あぶない。


 出席簿を開き、居ない彼女達の名前の欄に欠席のマークのスラッシュを付ける。


「せんせー」


「ん? なんだ桜葉」


「美羽達からメッセ来たー」


「……はぁ」


 休む時の連絡は学校に電話を掛けろと、入学時に説明しただろう。まあ今まで欠席の連絡が来たことが無いから少しはよくはなったのか? いや休む時点でアウトか。


「でぇ、何だってあの問題児コンビは」


「今日は、休むってさー」


「そんなことは、知ってんだよ!」


「そんな、私にキレられてもー、あっ 写真来たよ、ほら」


 そう言って彼女は、自分のスマートフォンの画面を見せてくる。


 どれどれと彼女のスマートフォンをのぞき込んでみると、そこには、写真加工アプリで撮影された楽しそうにタピオカを飲む二人の姿が映し出されていた。


「はぁー、あいつら昨日の今日でこれかぁ? せめて学校くらいは来いよ」


「まぁ、まぁ。この二人が今に始まったわけじゃないっしょ、それに今日休めば3連休だし」


 唯一担任の授業のある金曜日の学校を休んで、自主的に三連休を作るとはいい度胸だ。


「はぁ……蹟大はまだいいけどよぉ、いやよくは無いけど。龍頼は成績がこのままだと不安だよ」


 居ない奴の話をしても仕方ない。自業自得になればいい。


「よし、じゃあ今日は連絡事項は無い。以上、解散」


 そう言って赤石は教室を出て行った。




 一年一組の金曜日の二時間目は、赤石の担当する科目、世界史Aだ。


 学校で行われている授業の内容は、すべてが文部科学省から発行されている学習指導要領というものに沿って行われる。つまりは理論上はどの高校でも同じレベルの教育が受けられるという事が理想である。だが現実はそうではない。


 学校へ入学する生徒の質、教員の質、設備その他諸々が現代版の優生思想にのっとり進行されている。優秀な生徒は優秀な教員のいる有名な学校へ、優秀でない生徒は、優秀でない教員のいる無名の学校へ、上の物はさらに上へ、下の物は上の物に悪影響を及ぼさないように隔離する。昔とある有名な学園ドラマで『腐ったミカン』という表現が使われ話題になったが、まったくもってそのとおりである。


 そしてそのどちらでもない中間層が7割ほどいる。


 実際問題に定時制高校に入学をしてくる生徒たちの半分以上は、数学を例に挙げると、分数の計算ができないし、最悪九九も怪しい。もはやさんすうの領域である。


 果たして、九九が出来ない生徒が数学Ⅰを勉強できるだろうか、七の段が言えない生徒が一次関数のグラフを書くことができるだろうか、そんなことは天地がひっくり返っても出来はしない。


 彼はそのことを理解している。本来であれば学問は金太郎あめ方式に教えてはいけないのだ。個別個別にその能力に合って教えるのが必要なのである。しかしその思想は国の理想とは乖離しているのだった。


「えーっと、桜葉にはこれ、御伽噺、小望月はこれだ」


 彼女達それぞれの机に直接プリントを配布していが、その枚数がそれぞれ異なっている。


 彼の授業は完全個別制、生徒それぞれの学力・意欲に合わせた、プリントの授業を行う。


能力的に考えれば蹟大が最上のレベルなのだが、彼女は一切授業に参加する気が無い、よって龍頼と同じ、最低限のレベルまで難易度が低い作業量の少ないプリントを配り、小望月には、少し本来の高校よりもレベルを落とした難易度のプリント、御伽噺、渡邉には普通の昼間の高校レベルのプリントを配布している。


「えー、なんですかこれ」


 桜庭は自身に配布されたA3のプリントの束に対し早速疑問を投げつける。


 彼女だけ他の二人や、今まで彼女が授業で行ってきたプリントとあからさまに毛色が異なっていたからだ。


「ああ、お前は今週からそれだ」


「いやー、ほぼ私のプリント英語まみれ、というか英字新聞のコピー?」


「そうだ、それは第二次世界大戦が終戦したとされる翌日の、1945年8月15日のアメリカの新聞だ」


「で?」


「それを読め」


「本気で言ってる?」


「ああ、本気だ。入学選抜時のテストの結果と今までの授業の仕上がりを見るに、お前はもう世界史Aをやらなくいい、教科書だって役に立たん。今日からはお前は完全別メニューだ」


「え、まあ先生がそれでいいならそれでいいけど、私はどうすればいいの?」


「読め、そして疑問に思ったところを俺に質問しろ時間と場所はいつでもいい、今この場でもいいし、お前の時間の空いているところで解説をしてやる」


 桜庭は一度受け取った、プリントの束を再び見つめ返す。


「それっていつまで? というか期限はあるの?」


「期限は無い。正直やらなくてもいい、今年度いっぱいは俺の授業で休みさえしなければ、授業で寝ていてもかまわない。お前はもうすでに、俺の世界史Aの成績3は確定だ」


「なにそれ、マジィ?」


「ああ、成績に限りこれは嘘ではない」


「3以上は? どうすればいいのよ」


「それ以上伸ばしたいのであれば、定期考査で満点に近い点数を取るか、その課題を進めろ。流石に定期考査のテストは御伽噺達と同じ物を受けてもらうがな」


「なに、もう完全にあたしだけ別枠ってこと?」


「そうだ」


 本来であれば単一の教科に複数の評価基準を作ることはご法度だ。なぜなら平等ではないから。


「そうだ、1足す1が2と知っている奴に、1足す1を懇切丁寧に説明する必要があるか? 俺は無いと思う。お前に貴重な時間を無駄にしないために、もっと勉強したいのであればその課題をやってくれ、何度も言うがやらなくてもいい」


「ふーん」


 桜庭は再びプリントに視線を移す。


「なんでもいいの? 質問内容は」


「ああ、別にその資料の中なら何でも構わない。終戦に際しての内容がほとんどだからな、歴史的な質問であれば何でもだ」


「じゃあ、ここの新聞広告でも?」


「そんなの聞いて何になるんだ? まあ別にお前がそのことについて知りたいなら解説してやる。すぐにわからなかったら時間をくれ、解説してやる」


「はーい、わかっかりましたー」


「この1年間が終わるまでの世界史Aの授業の時間をどう使うかはお前に任せる」


 納得した様子で、彼女はプリントを読み始めた様子だ。


「じゃあ、ほかには……ってあれか」


 今日は龍頼が居ないから授業はほとんど、何もしなくていいのか。


 この世界史Aの授業で彼の仕事の七割は龍頼陽十美の相手と言ってもいい。クラスの6人の授業中の内訳は、勉強をしない奴1名、勉強をする奴4名、勉強という言葉の意味さえも理解できな奴1名なのだ。


 龍頼陽十美彼女こそ現代版優生思想の被害者なのだ。勉強ができない、理解できないから、小中では不真面目な生徒と、指導もされずに放置をされてきたのだろう。


「まあ、いいか暇で」


 流石に俺の授業をサボるアイツのことなんぞ知らん。来ない奴が悪い。


 その後彼は、適当に机間巡視をしながら、3人の指導を行い、空いた時間は、暇つぶしに持ってきた小説を読んでいた。


 これが彼の普通の授業である。

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