第8話 序曲①

 突然自分の体が、落下したような独特の浮遊感に襲われ、赤石一はベットから飛び起きる。


「はぁ!………はぁ、はぁ」


 部屋を見渡してみるが、今朝帰ってきた自分の部屋と何一つも記憶と同じままだ。しかし体からは大量の汗が噴き出している。

 な、なんだ、なにか変な夢を………。

 夢とは掴んだその手を放してしまえば、するすると自分から抜け落ちていくもの。もうすでに何を見ていたのか、何を体験したのか、何もかもが解けていった。


 「なんか………奇妙な夢を見た気がする」


 思い出そうとしても、何も思い出せないので、寝ている時に見ている夢なんてものは、所詮そんなものだと割り切り、スマホで時間を確認する。時刻は午前11時00分そろそろ仕事に行く準備の時間だ。

 赤石は今日もやりたくない仕事のためにベットから降りるのだった。




    1   


 クリーニングからおろしたワイシャツを、クローゼットから取り出し、スーツに着替える準備をする。5年間もスーツを着ていれば、今なら寝ぼけまなこでもスーツを着ることはできるし、ネクタイだって鏡を見なくても正確に閉めることができる。

 ふと、先ほど時刻を確認した際にLINEの通知が着ていたのを思い出し、着替えながらスマホを確認する。


 「ふっ」


 よっぽど昨日のが応えているな優幻。

 小望月優幻こもちづき ゆめからのLINEからは「とつげきー!っ」とかわいらしいアニメのスタンプが張られていた。赤石もそれに「相分かった」とアニメのスタンプを返した。するとすぐに既読がついて今度は「ほんどうにぃ~?」と同じアニメのラインスタンプが返ってきた。


 「あいつスタンプ押したいだけじゃねぇかよ」


 きっと優幻のことだから、好きなアニメのラインスタンプを買ったのに、そもそも使う相手が居なくて困っていたんだろ、俺もそうだよ。

 赤石も買ったアニメのラインスタンプを交互に連打し合いたかったが、さすがにこれから仕事が始まるので、これ以上続くのはさすがに支障が出ると思い断腸の思いで「今から家出る」と短いラインを返した。「GO!GO!」というスタンプが返ってきたが無視をした。

 もう一件のLINE通知はは御伽噺楓おとぎかえでからであった。一言「今日はお昼はお食べになりますか」と通知が来ていた。


 「…………はぁ」


 今日一番目のため息が出る。今まで彼女からこんな通知は来たことが無かったからだ。


 「こいつに、こんなこと言わせた自分が嫌になる」


 昨日の流れを引きずらないためにも赤石はあえていつも通りに振舞うことにし、「焼肉定食1つお願いします」と返信をするのだった。

 都立の教員に制服は存在しない。究極的なことを言えばどんな服装でも授業に出ることができる。つるし売りの安いスーツであろうと、100万円の高級スーツでも、スポーツウエアだってなんだっていいし、白衣を纏っていてもいい。一応、仕事をする上で一般的な服装であればの話だが。保護者や外部から指摘が入ればもちろん上からの指導が行われるが基本的には存在しない。理由はいたって単純で、突拍子もない服装をする人が居ないからだ。それに東京都の教員だけで約6万5000人も居る、その全員に今から制服を配るお金は東京都には無いのだ。

 赤石はクズ教師になった今でもスーツを着続けている。それはやはり赤石蒔菜、妹の存在が大きい。


 「おにいちゃんに、スーツとか似合わなすぎるよ」


 「はい、これ!合格祝い」


 赤石はスーツに身を通すときには、必ずと言っていいほど、蒔菜のことを思い出す。初めてスーツを着た日、教員採用試験合格の時にお祝いにネクタイをもらった時、いろいろな思い出が赤石を駆け巡る。あふれ出る感情を抑え、歯を食いしばって赤石は今日も仕事に出発をする。


 「行ってくる、蒔菜」


 赤石は、誰も居ない自宅に声をかけ部屋を出た。



 

 第二和田ビルの階段を駆け下りる足もいつもよりか駆け足になる。彼女とのやり取りが心残りであるからだ。1階までたどり着いた赤石は入り口の前で息を整える。


 「おし!」


 そして彼女にとってのであることを今一度意識しのれんを潜る。


 「おう!はじめぇ!!元気しとうや!!」

 

 幸来軒に入ると大将の元気のいいしゃがれた声が聞こえてくる。店内は相変わらずの繁盛具合で、昼休みのサラリーマンなどでほぼ満席の様子だ。厨房の奥には奥さんと、御伽噺の姿も見える。


 「おはようございます、


 挨拶をしながら赤石は、定位置あるカウンター前の右端の席に座る。厨房から料理を作りながら大将が話しかけてくる。


 「おはよって!お前もうお昼時だぜ、はじめ」


 「俺にとっては、おはようなんです」


 「んでぇ、昨日はだいぶ遅いお帰りだったじゃねぇかよ、はじめ」


 「ええ、少し残業がありまして、楓ちゃんには悪いことをしました。というか大将も昨日は大盛り上がりだったんじゃないんですか?」


 「だぁあああああったー、そうなんだよ、昨日は町内会の連中も来てなぁ!」


 大将の楽しそうに話す雰囲気から昨日の大盛り上がり具合がわかる。


 「いいんですけど、昨日みたいに俺が遅いときは、普通に店閉めてくださいよ」


 「おう、すまねぇなぁ。でもよぉ楓がよぉ、昨日はお前を待つってぇ」


 「先生」

 

 「うぉ!」


 突然の背後の声に、素っ頓狂な声をあげてしまう。赤石が振り返るとそこには、御伽噺楓が笑顔で焼肉定食を持って来てくれていた。

 

 「お待たせいたしました。焼肉定食です」


 「お、おう。ありがとう、楓ちゃん。いただきます」


 いつから背後に居たのだろうと恐ろしくなったが、赤石は考えないことにした。


 「はい!、それにお父さん!余計なこと言わないでいいから、手っ動かして!7卓の蟹炒飯がまだ…………」


 料理を持ってきてくれた彼女は昨日のわだかまりを感じさせない、いつもと変わらない笑顔だった。変わらないいつもの日常が返ってきた赤石はそう感じる。

 このひだまりのような日常もいつかは、自分が壊してしまう日が来ると思うと胸がきつく締め付けられる。せめて、せめて去り際には、この人たちに迷惑がかからない様にしよう。そう心に誓って箸を取るのだった。


 「いただきます」




 赤石は今日は寝ないと、不退転の覚悟をもって電車に乗り込んだ。昨日の反省を踏まえて椅子には座らないことにした。

 今思えばなんで昨日は座ったんだ俺?最寄りから乗り継ぎの秋葉原までは数駅だ。いつもは座っていないのになぜ座ったのだろう。思い出せない。前前日の遠征で疲れ果ててたかか?

 昨日の一日で俺のいつもの日常ダイヤが全て狂った。原因を考えてみるとやはり始まりは、この電車なのかもしれない。なんで俺の心のホームにはホームドアが設置されていなかったのだろう、昨日の自分を殴りたい。

 スーツ越しのポケットから、かすかに自分のスマートフォンが振動するのを感じる。


 「ん。誰からだ」


 確認すると優幻からのようだった。「今日は15時頃に到着」とチャットが来ている。


 「じゃあ、1休(1時間休暇)取れたじゃねぇかよ、おい…………はぁ」


 なんだかなー、昨日からうまく行かねぇなぁ………

 落胆をした赤石は今日は優幻が来る約2時間をどうサボるかを思案する。

 いや、そうか。放課後にやる予定だった、桜葉の件を、先に話を通してしまうか、いやしかしだなぁ。チッ…………あいつと昨日LINE交換しとくんだった。

 都立学校で教員と生徒・保護者の携帯電話、メールアドレス、LINEなどをやり取りするのを禁止している。理由は単純明快でそれは生徒の個人情報であるからだ。生徒・保護者の情報はS1(エスワン)と呼ばれ、学校という組織の中で最重要機密として扱っている。もし個人の情報端末にいづれかの情報を保存している場合に、紛失が起きたらそれは服務事故と呼ばれ、それ相応の処分が下る。

 しかしこれを守っている教員は非常に少ない。特に運動系の部活動の顧問をしている先生や、若い先生にこれを守らない先生は多い。理由は簡単で利便性だ。LINEでワンタップで連絡が取れるのと、鍵付きのロッカーから生徒名標を取り出して、学校の備え付けの固定電話で生徒に電話をかける。ちかも電話だから出ない時もある。どっちが楽だろうか10:0で前者だ。

 管理職もその事実をわかっているので、それを黙認していたりする場合も多いし、入学時保護者に配るプリントに、自分のLINEアカウントを載せる教員までいるのは、日本の臭い物に蓋をする嫌な習慣のせいだろう。もう1つ付け加えるとしたら、副次的に発生する教員という立場を利用して、女子生徒にいやらしい行動をとる男性教員をけん制するためである。

 一度、桜葉と打ち合わせをしたいところだが、あいつのことだから打ち合わせゼロで大丈夫だろう。それにタバコを吸うためならなんでもしそうだしな。

 ある程度の方向性が脳内でまとめることができた赤石は、今日はしっかりと秋葉原駅で下車をした。




 「こんにちはー」

 時刻は午後13時00分、赤石は定時制職員室に到着する。広い職員室に赤石の声だけが響く。昨日の様に各箇所から声は上がってこない。その理由はいまだに、ほかの先生が出勤してないからである。定時制教職員の定時は午後13時30分だ、30分くらい前に来ることが社会的には普通なのだろうが、ここにそんな常識を持った人はほとんどいない。ほとんどの先生が25分~30分ぎりぎりにに来る。昨日の赤石の様に自分の教科の職員室に引きこもってほとんど全体の職員室に顔を出さない人も稀にいるくらいだ。

 赤石はそんなことは気にしない、もとより挨拶を返してほしくて挨拶をしているわけではないからだ。最低限社外人のマナーとして入退室に挨拶をしているだけだからだ。赤石は自分の席に荷物を置き、さらに職員室の奥へ進む。そして立ち止まる、一番奥の席の前で。


 「副校長、お話があります」


 作業をしている最中であった初老の男性が顔を上げる。


 「おお、赤石君こんにちは。いったなんだね」


 副校長はノート開く。彼は教員と話すときには必ずノートで記録を取る。現場の声を一つも逃さないために。


 「彼女ゆめの事です」


 そんな副校長がその言葉で


 「場所を変えようか、赤石くん」


 「ええ、そうしましょう」


 「どこか空いてる場所はあるかな?」


 学校だから教室はたくさんあるが、時間帯的には全日制の授業の真っ最中、授業や特別指導で様々な教室を使用している、誰かが入ってくる確率の場所では情報漏洩の危険が伴う。


 「定時制社会科職員室ウチに行きましょう。あそこは僕しか使う教員はいないですから」


 「ではそうしましょうか」


 そうして副校長と赤石は二人そろって職員室を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る