第3話 小望月優幻の約束

 定時制とは


 通常は教育上の用語として,夜間その他特別の時間または時期に授業を行う制度ないし課程をいう。全日制,通信制などに対していう言葉。第二次世界大戦前の実業補習学校,青年学校の多くは定時制であった。


 定時制の大きな特徴の一つとして、定時制には制服がない。ない理由はいたって単純で制服を購入できる家庭環境の生徒が少ないからである。だから生徒は全員私服で登校することになっている。


 都立第三久須師高等学校は、秋葉原駅から電車で数駅の場所にあり、高校で歴史のある古い学校である。全都でも四十二校しかない全日制と定時制の両方が存在する全・定併置校だ。


 全日制とは朝八時四十分からショートホームルームがはじまり、九時から一時間目、二時間目と続き、お昼休みを挟んで六時間目が終わり放課後は、友人とカラオケに行ったり、部活で汗を流し、時にはぶつかり合い、時には助け合ったりとTHE青春といった流れの世間一般な普通の高校生活が行える学校のことである。


 定時制とは午後十七時から給食が始まり、午後十七時四十五分から一時間目、五分の休憩を挟みながら四時間目まで授業があり、その後一時間の放課後があり二十二時まで勉学に励む。世間一般的には、夜間学校と呼ばれ、ヤンキーなど少し荒れているイメージで認識されているものだ。


 全日制と定時制の大きな違いは、時間だけは無い、授業内容、教える教師、部活動などすべてが違う、一緒なのは校長と学び舎だけである。


 赤石一は都立第三久須師高等学校の定時制課程の社会科の教員である。


 多くの定時制では様々な制約の上一つの教科に教員は一人が基本であり、都立第三久須師高等学校定時制の社会科も彼一人で担っている。


 しかし定時制に限って言えば一人であるほうがメリットが多い。高校は各課程ごとに大きな職員室と各教科ごとに一つ職員室を与えられる、よって彼は一人で学校内に定時制社会科職員室という名の自室を持っている。


 赤石はセーブデータを人質に取った、テロリスト小望月優幻のために学校へ急いでいるはずだった。


「あいつマジで消すかなぁ」


 時刻は午後十五時二十五分、赤石は学校の最寄り駅の近くのコンビニで、今日の間食と彼女への貢物を物色している最中であった。結局時間に間に合っても機嫌は治らないだろうという読みをしてお菓子を用意する事にしたのだ。


「いやぁー…………おっ新作じゃん」


 今までの付き合いで得た優幻の性格と、今回のチャットアプリの文面を思索すると、半々ってところだろう。彼女は幼い、しかし唯一のオタク仲間である俺のセーブデータを消して、今後の空気を悪くするほど、空気が読めないわけじゃない。


「でもなー……最初に約束を破ったのは俺だしなー……ワンチャンあるな」


 赤石は彼女と学校の生活について、いくつかの約束をしている。その一つに『その参赤石一が学校に来ない時、もしくは遅れるときは優幻に連絡する』としている。


 書類を交わしている約束ではないが、彼女にとってその約束は、学校生活を送る上では、とても大切なものであり、何事よりもこの約束が優先される事を彼は知っていた。2,3個のセーブデータくらいは覚悟の上だ。


「でもセーブデータとお菓子で済むのなら、安いものか」


 彼女が登校してから、俺が居ないことを知った時の絶望は俺には想像できない。最悪そのまま5カ月前の状態に逆戻りなんてこともありえた。だから所詮ゲームデータとお菓子なんかで彼女の気が済むなら安い。


 それにしても5カ月前の彼女から考えれば実に成長をした。大成長とも言っていいだろう。あのままであれば、高校進学なんてものは考えられなかったし、今回のように学校に頼る人がいない状況でも学校に居ることができるのだから。


 赤石はコンビニを出てスマホを取り出し、タイムリミットとヘルプコールが来ていないか確認する。現在の時刻は午後十五時二十七分


「せめて、ここからは急がないとな」


 赤石は彼女の安心した学校生活とセーブデータのために、学校までの道を走ることにした。


 時刻は午後十五時三十七分、息を切らしながら赤石は第三久須師高等学校の4階、定時制社会科の職員室に到着した。本来であれば全体の定時制職員室に寄ってから来るべきであったが、他の教員に話しかけられ捕まったりでもしたら、直ぐにここに来れないから真っ先に訪れた。


 定時制社会科職員室の扉を開けた音で、奥にいる優幻は俺のことに気づいただろう。


「はぁ……はぁ……スゥー……はぁ……はぁ……」


 一段飛ばしで階段を四階まで駆け上がったおかげで息が切れる。


「はぁ……はぁ……、くっそ。無駄な体力使わせやがって。筋肉痛が痛えよ」


 赤石は電車を乗り過ごした、2時間前の自分を殴りたい衝動に駆られながら、息を整え定時制社会科職員室の奥にある目的の扉の前にたどり着く。


 彼女が居るのは厳密には定時制社会科の職員室ではない。社会科職員室に併設されている現像室である。現像室とは通称であり正確には写真現像用暗室が正確な名称だ。


 学校現場では終戦後、理科教育振興法、産業教育振興法が施工されたことにより学校内部に現像室が作られることが多かった。しかしこの現代社会において、よっぽど写真にこだわりがある理科教員でもいない限り、現像室を使用した理科教育は行われておらず、全国で見ても殆どの学校では物置になっている。八十年以上の歴史のある第三久須師高等学校も、例にもれず現像室が作られた。この学校ではさらに状況は複雑で、学校が校舎を増築に増築を繰り返した結果、学校の見取り図からも抜け落ちた秘密の部屋になっている状態である。彼の前任者である定時制社会科教員は学校内での権威が強く、部屋の存在を自分の趣味の為に握りつぶしていた。なので校内でこの部屋を知っている人間は、俺や校長、副校長を含めて、ごく僅かだ。


 そのため彼は彼女を登校ために、去年からこの部屋を掃除、改築、改造をして彼女が学校で安心して時間を過ごせる秘密の部屋を作った。


「……はぁ、しかたなし」


 覚悟を決め現像室の扉を開ける。


「動くな、そこまでだテロリスト! 我が国日本は、刑事国際法にてテロリズムには屈しないぞ!」


 アニメとネットでかじった適当なセリフと共に、少し芝居かかって彼女の待つ現像室に入る。


 現像室はいつもと変わらない様子だ。床は全面畳、中央に4人掛けのちゃぶ台があり、ゲーム専用のモニターが少し離れた机の上に載っている。あとは様々なゲーム機や雑貨がスチールラックに無秩序に置かれているが、何も壊されているなど無かった。


 肝心の彼女は赤石の入室にも気付いているが、敢えて振り向かずちゃぶ台に突っ伏しながら、ゲームをプレイしている様子であった。


「遅いハジメ!」


 部屋に入るなり、お叱りを受ける。いつものクラスメイトと話す彼女のか細い声からは想像できない棘のある声で、ある意味安心をする。俺にとってはいつもの彼女のままであると。


「ごめん、ごめんって」


 赤石は軽いノリで謝罪をしながら彼女の右隣に座る。彼が着席しても、視線はモニターからずらさずゲームをしている。


 どうやら絶賛お怒りモードだな、下らないバレる様な言い訳をして通じる相手ではないし、そんなこともする必要がないので真実を話すか。


「今日は行きにゲー〇ーズに寄ったから遅れたんだよ」


 実は休む予定だったとか、桜葉と会ったとか、全てを話す必要はない。証拠であるかのように机の上に『ゲー〇ーズ』の袋を置く。


「ほら、この前に発売日だった『ワンハンドレッドワン』の二十九巻と、『ぱいなっぷるっ!』の六巻を買ってたんだよ」


 彼女にも見えるようにわかりやすく表紙を向けながらシュリンクを破いていく。


「お前も後で読みたいだろ?」


 彼女とは非常にオタクの趣味がよく合う。似たようなゲームジャンル、アニメ、ラノベを好み、グッツなどに対しての考え方も同じである。


 『ワンハンドレッドワン』はともかく、『ぱいなっぷる!』に関しては現在絶賛アニメが放映中の人気作だ。この部屋でよく彼女と熱く語り合ったこともある作品だ。流石のお怒りモードの優幻様も興味があるご様子だ。あと一押しってところだろう。


「約束」


 彼女はぶっきらぼうにそう言った。


「……あぁ。うん、今回は俺が悪かったよ。ごめんな」


 よっぽど俺が居なかったことが、彼女に堪えたのだろう。


 小望月優幻はこの特殊な学校でもかなり特例的な存在である。彼女は保健室登校ならぬ職員室登校を許されている。さらには本来週五日の登校が求められるが、彼女は週三の登校で認められ通常授業の欠席もある程度まではプリント課題を行うことで認められている。それは彼女の中学時代にあった事件が大きく起因している。


 事件としては、このご時世にはよくある問題いじめであった。日本教育の悲しいことに見えないだけで、一つの学校に一つは必ずと言っていいほど起きている問題である。


 彼女も偶然にもその標的に選ばれてしまった。そして心を閉ざしてしまっただけの話である。ただ少し普通の問題と違ったのは、彼女の父親が教育業界へ強い影響力を持つ人であるということ。そして偶然メディアやSNSで大きく報道されてしまったこと。するとたちまち根も葉もない噂は蔓延し被害者、加害者ともにメディア、SNSの被害者になってしまった。


  当時はまだ熱血教員だった赤石一は偶然にも、その問題に関わることがあり、彼女と接点を持った。周りには理解されない趣味という、共通の趣味を持っていたこともあり、彼女が心を開くのもそんなに時間はかからなかった。


 そこから赤石は彼女の保護者とも相談し、彼女の将来のために高校進学の手配や、安心して学校生活を送れるような環境を整備したのである。上の連中はいじめが大きく報道されてしまった手前、赤石が面倒を見るということで問題を収束させたかったし、彼女の父親もそれを望んだ。つまりは彼女の高校生活については、かなりの無茶な条件を通すことができた。彼女が言う『約束』というのは彼女が高校進学するために赤石一と結んだ絶対のルール、心の拠り所であった。


「……怖かった」


 今度は聞き取れないほどか細い声でつぶやく。


「うん、そうだな。よく頑張った」


 赤石は彼女の頭をやさしく撫でた。


 学校でもいまだに俺以外の教員とは話すこともままならない。少しは話せるクラスメイトはまだ登校していないし、学校内には全日制の生徒がいまだに授業を受けている。こんな敵だけしかいない中で彼女は2時間も居ることできた。やはり彼女は成長しているそう思った。


「そんな頑張った優幻にご褒美を買ってきたぞ」


「ん?」


「ほら、湖地屋の新作激辛ポテトチップスだ」


 彼女にもお怒りモードだった少しのプライドがあるのだろう。視線は動かさず、ゲームを続けているが、表情はお菓子の登場に心が揺れ動いているのがわかる。恐らく食べたいが、今の態度を取ってしまったので引っ込みがつかないといったところ。


「ん! ん!」


 彼女は大きく口を開けて視線を一瞬だけこっちに向ける。


「そう来たか」


 恐らく、ゲームで忙しい、今は機嫌が悪いからお前が食べさせろというてい、ということにしたいのだろう。でも内心はもうすでに怒っておらず、ゲームのコントローラーがポテトチップスの油で汚れるのが嫌なだけなんだと分かったので内心ほっとした。


「ハイハイ、今お開けして食べさせてあげますよ。お姫様」


 こんなことで機嫌が直るなら安い。赤石は立ち上がり流し向かう。いつも優幻が使用している箸を取り出すためだ。


 ポテトチップスひとつで機嫌がよくなってよかった。偶然優幻が好きな激辛系のものだったのもいいポイントだっただろう。それにしても一時はどうなることかとおもったよ。俺のセーブデータが人質に……。


「てっおぉい!」


 赤石はセーブデータのことを思い出し上半身だけゲームをしている優幻の方へ振り替える。


「ゆ、優幻さん……今なんのゲームをやっておられるのでしょうか?」


「ダ〇ソⅢ」


「それって……もしや?」


「ハジメのレベル一縛りのやつ」


「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」


 膝から崩れ落ち、跪き頭を垂れるオーアールゼットのポーズになる赤石。


「ははふー」


 お嬢様からポテトチップスの催促があるが、そんな事よりあまりの絶望に立ち上がることが出来ない赤石。それは彼が今年の4月から1人の力で縛りプレイをしながらゲームクリア直前まで進めていたゲームを彼女が攻略しまっているからである。


 よりにもよってダ◯ソⅢかよ、マジかよ、あれはあまりアクションゲームの得意じゃ無い俺が何か実績を作ろうと攻略サイトを見ながらコツコツと一人でやってたんだぞ! 他にもいろいろゲームがあたっただろう。それを今一番大切にされているゲームデータを進めるなんて、たとえ優幻であっても許せない。このままでは、レベル一でクリアしましたが最終ダンジョンは自分でクリアしてませんとかいう羽目になってしまう。なんとしてでも、今目の前で行われているセーブデータの公開処刑を止めなくては。


「優幻ぇ!」考えと決意を固めた赤石が抗議の声を上げる。


「なぁに!?」


赤石の決意はドスのきいた優幻の声によって粉砕され、再び赤石は下を向く。


「……はぁい」


 まぁいいか、いやよくは無いけど、今日は約束を破った俺が悪い。最悪セーブデータは、オンラインストレージから呼び出せばいい問題である。あえて縛りを課しているゲームだからこそ、そういった機能は利用したくはなかったが、ここまでせっかく自分の力で進めたのだ仕方ないが使おう。今日はもう優幻のご機嫌取りに徹するとしよう。


「はーやーくー」


「はいはい」


 彼は箸を用意して先ほどと同じ位置、彼女の隣に座った。


「お嬢様、こちら本日のお菓子『ピリッとした辛さがあとをひく!湖地屋ポテトチップス ピリ辛のり塩』でございます。」


 箸を使いポテトチップスを一枚だけ掴み、彼女の目の前に持ってくる。


「うむ。くるしゅうない……はむっ」


 彼女の表情から既に怒りの感情はなく、お菓子に舌鼓を打つ十五歳の少女の物になっていた。


「なぁ、優幻」


「んー?」


「俺が食べさせといて言うものなんなんだけど、あと一時間半くらいで給食始まるんだよな」


 一瞬沈黙が二人を包む。


「じゃあ、これはここまで」


 彼はポテチの袋の口を丸めて立ち上がる。


「あっ…………ちょっぉ!」


 彼女に手を伸ばされるが座っているので、手は俺には届かず空を切る。


「ちょっと、ひどいよハジメ! 一口だけ食べさせて辞めるだなんてひどいよ。横暴だよ」


 んー……確かにコイツのご機嫌取りのために提案したのは俺である。いやしかし……まぁいいか。


「しゃーないな、俺が言い出したことだ。でもしっかり給食も食べるんだぞ」


 赤石は再び座り直し、今度は自分も食べるためにポテチの袋を口から縦に裂きパーティ開けする。


「だって給食おいしくないんだもん……はむっ」


「いやでもなー……はむっ」


 それは否定しない。


「しっかりと計算された栄養をとらないと健康に悪いし、大きくなれないからな」


「えー、ハジメだって、たまに食べない時あるじゃん……はむっ」


「……そういう日は仕事があるんだよ」


「えー、うっそだー。ハジメは定番メニューの時にしか食堂来ないじゃん」


「だ、だからそういう日は仕事があるんだよ」


「ふーん」


 一ミリも信用していない様子が声のトーンでよくわかる。


 確かに俺はメニューの内容が献立表から読み取れるときにしか食堂に行かない。それをこの約一カ月で看破したとは流石といえよう。だが俺としては、優幻が俺とはしゃべらず、学友との交流をして欲しいというのも食堂に行かない理由の一つとしてある。


 この後、彼は彼女専用ポテチ食べさせマシーンになりながら約三十分間自分のデータの公開処刑を眺めることとなった。


「優幻、俺は一回職員室戻るな」


 時刻は午後十六時二十五分、流石の赤石も学校にいるのであれば、そろそろ仕事をしなくてはならない時間である。仕事と言っても授業開始まであと約一時間、給食の時間まではあと三十分、大したことは出来ないだろうが仕事を休むと言った手、ほかの教員に前顔見せくらいは、必要だと思い定時制の全体の職員室へ向かう。


「はーい」


 赤石への復讐も終わり、ポテチも食べ終え、心身ともに満足した彼女は、現像室の畳の床に寝っ転がってお気に入りのクッションを抱えて、赤石の買ってきたライトノベルを読んでいた。


「今日の給食カレーらしいぞ、一応向かいに来るから、もうほかにお菓子開けたりするなよ」


 そう言い残し、赤石は現像室を出て行った。


「はーい」


 優幻のヤツ完全に生返事だったな。さすがにもう一袋お菓子を食べるようなことはしないだろうが、給食は不安が残る。優幻のお母さんすいません。今度からしっかりとお菓子の時間も管理します。しかし最近のラノベって15歳の少女には刺激的な内容が多すぎないかと思う、もうだいぶ肌色も多いしバイーンって感じのイラストも絶対あるし、いやしかし少女漫画はもっとモロって言うし……


 そんなことを考えている間に、定時制職員室の扉の前までたどり着き、扉を開け中に入る。


「こんにちはー」


 定時制の挨拶はこんにちはで始まる。始業時間も午後十三時三十分であることや、あまり教員同士の上下関係について深く考えない人が多いからであろう。


 おはようございます、なんて目上のやつが威張りたいだけのクソな挨拶をしなくていいのは俺の中で非常に評価が高い。


「おっ 大丈夫かー」


「そんな無理しないで休めばよかったのに」


「こんにちはー」


 職員室の自席に着くまでの間、同僚先生と挨拶を交わす。自席につき、パソコンを立ち上げている最中に、向かいの席から顔を出し1人の先生が話しかけてくる。


「なんだ、赤石さん体調悪いなら休んでも大丈夫だよ、生徒も少ないんだし」


 この男はラグビー、無類のラグビー好きで土日はラグビー教室などに顔を出す五十代半ばの男性教員である。自分の息子が俺と同い年の様で、俺の事をよく気にかけてくれる、先ほどの問いも十割善意である。


「いえ、思ったより大丈夫でした。優幻の事もありますし」


 この職員室でも優幻のことは公然の秘密であり皆知っている。だいたい無茶なことでも彼女の事ならと理由をつければ、曲がり通ってしまう。


「そっか、あんまり無理しないで頼れよ」


 定時制学校では全日制に比べ非常に教員の数が少ない。これはその学校の生徒数、学科数によって定められているからである。生徒数が多い学校は教員の数も多く、生徒が少ない学校は教員も少ない。しかし極端なことを言うと、入学生徒が0人であったとしても生徒が編入学してくることを見越して最低限の人数は、教員のスケジュールを抑える。


 職員室の人数が少ないと、回ってくる仕事の量も多いが、メリットもある。教員同士の距離も近いし、生徒一人あたりの対応できる教員の数も多くなる。優幻のような特別な生徒が居る場合には非常に助けられることもある。赤石がラグビーと会話をしている間に別の先生が近づいてきた。


「まぁ、彼女の対応となると赤石先生頼りになってしまうのは、実際問題かなり難し問題ですよ」


 この男は副校長、実質定時制のボスである。しかしその実態は現場と校長の間に挟まれる中間管理職である。常に働いていて仕事の量は、休日返上するほど激務であり、現場とも円滑な関係を築いているただの仕事のできるスーパーオジサンである。


「いや、頼りだなんて俺一人で仕事してるなんて俺は思ってないですよ。結局俺が彼女と接している分、他の方に仕事を任せてしまっているだけですから、ただ窓口が俺なだけです。あっそれと何度も電話連絡すいませんでした。」


 適当な言い訳程よく口が回る。しかし事実だ。実際に優幻を見るということで、確実に仕事量は少なくなっている。


「いえいえ、そんなことは、大したことじゃないのでお気になさらず。彼女の件は学校全体で対応していきましょう」


「はい」


 そう言って副校長はコーヒーを入れにキッチンに向かっていった。


 先生方とも会話が途切れ席につき、舞い込んできた雑務をこなしていく。


「くっそ……めんどくさい調査のメールが来てるぞ、おい」


 いつも通り、独り言をボヤキながら上から回ってきた、くだらない仕事をこなしていく。


「……マジ、出張あるんかよ……はぁーめんど」


 雑務をこなしている赤石の隣の机に1人の男が着席する。


「あれ?赤石さん今日休みじゃなかったの?」


 この男はガイコク、ウチで科学を担当している50代半ばの先生だ。海外旅行が趣味で夏休みは30日以上海外にいることがあるらしい。そして彼が俺のクラスの副担任である。


「いや、優幻の事もありますし、まだクラスも始まったばかりなので」


「あーそう、無理しない様にね。それとね今………」


 赤石はその後ガイコクと今日のスケジュールについて打ち合わせを十七時まで行った。


時刻は午後十七時、定時制を開始するチャイムが鳴る


「あっ、時間だね。まあ細かいところは任せるよ」


「はい、わかりました。では後ほど」


 ガイコクとの打ち合わせを中断し、赤石は優幻を迎えに行くために現像室へ向かう。


「ゆーめー、飯だぞー」


 赤石は社会科職員室の入り口から開けたドアをノックして奥にいる優幻に呼びかける。


 声は聞き取れなかったが、かすかになにか反応があるように聞こえる。


「あいつ、まだ読んでんな」


 彼女の空返事から、まだ空想の世界に居ることを確信した赤石は、連れ戻すべく社会科職員室の中を進んでいく。


「こ、これは……です!」


「ん?」


 現像室の扉の向こう側から、微かに彼女の独り言が聞こえるが、声が小さくてよく聞こえない。


「はわ、はわっ、これは!」


 ノックをするのも考えたが、給食の時間が始まっていて、時間も惜しいので赤石は、現像室の扉を勢いよく開けた。


「優幻、飯だぞ」


「ひゃぁぁぁい!」 開けた音が大きかったせいか、優幻は飛び上がるように返事をした。


「お、おいどした優幻」


 どうやら俺の買ってきたライトノベル『ぱいなっぷるっ!』の六巻を読んでいたらしい。ちゃぶ台の上に置かれている、彼女の手の下に置いてある本の表紙には見覚えのある。


「は、ハジメ。ど、どしたの?」


 どうやら読書に夢中で周りが見えていなかったんであろう。オタクならよくあることである。


「いや、だから給食いくぞ、きゅ・う・しょ・く」


「あ、あーきゅうしょくね!きゅうしょく、きゅうしょく」


 彼女に落ち着きがない、心ここにあらずといった感じだ。


「おう、早くいくぞ。ただでさえお前は食べるのが遅いんだ」


 踵を返し赤石は現像室を出ていく。


「あ、ちょっと待って、ハジメー」


 彼女は今読んでいたライトノベルページに栞を挟み急いで立ち上がる。まだ午後十七時、廊下には全日制の生徒がまだ残っている場合もある、赤石に付いていかなくては心細くて食堂までたどり着けないからだ。


「ん? どした優幻。顔赤いぞ」


 彼も彼女が一人では食堂へ行けないことは知っている。職員室の扉を出たところで待っていたが、追いついてきた顔が少し赤い事に気付いた。


「な、ないんでもないんだよ。なんでもないのだよ」


 何か緊張なのか、体調が悪いのか、優幻が少し意味不明な口調になっている。


「本当に大丈夫か? 無理してるなら電話してお母さんに迎えに……」


「大丈夫、大丈夫だから、早く給食行こうよ先生」


 何か慌てているようだが、そんなにもカレーが食べたいのか、カレーは逃げないだろうに。


「そうだな行こうか、小望月」


 今度は何故か少し不満そうな優幻だが、何か気になる事があったのだろうか。


『その五学校で誰かが見ている状況では、要らぬ誤解を生まない為お互いを苗字で呼ぶ』


 赤石と優幻は並んで不自然でない距離で一緒に食堂への階段を降りる。


「そういえば、先生」


「ん?」


「あの本、今日借りて先に読んでいい?」


「ああ、いいぞ。俺はまだ読まないし、元々お前に貸すために2冊買ってきたんだ」


「……ありがと」


「ん? なんだ? 聞き取れなかった、なんか言ったか?」


彼女は階段を下りる速度を速める。


「カレー楽しみだね、って言ったの!」


彼女は結局そのままズンズンと階段を一人で降りて行ってしまった。


「お、おう」


彼には見えなかったが、彼女は今日一番の笑顔であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る