(6)

 ご飯が終わったらすぐお休みなさいってのも、なんだかなあだよね。それで、みゆきちゃんと遊んでみようと思ったんだ。でも、さっきお風呂場で歌を聴かせても反応鈍かったし。字はわからなさそうだし。コミュニケーションの手段が限られてるって、しんどいんだね。自分がどんなに恵まれてるか、思い知らされちゃう。


 しばらくうんうん考えて、ぴんと閃いた。


「篠田先輩にもらったキーボード。あれ、使えるんちゃう?」


 キーボードなら、ただ鍵盤を押すだけだ。難しいことは何も考えなくていい。好きな音を、好きなように鳴らして遊べばいいよね。

 電源を入れて音が出るのを確かめる。鍵盤を押したら、先輩と音探しした時のブラスの音がぷあぷあと象の鳴き声みたいに響いた。電池の替えを用意しとかないとなー。


「よしっ!」


 どだだだだっと階段を降りて、ぼんやりテレビを見てたみゆきちゃんに声をかけた。


「ねえ、みゆきちゃん。おねえちゃんといっしょに遊ぼー。二階おいでー」


 お母さんは台所片付けてるし、弟たちはおこもりさんで降りてこない。リビングに一人ぽつんといて。でも、それがずっとみゆきちゃんの日常だったんだろう。遊ぶってなに? そんな感じでゆらっと立ち上がったみゆきちゃんが、ひょこひょことわたしの後ろについて階段を上がった。


「どうぞー」


 これでもかといろいろデコってあるわたしの部屋。おずおずと部屋を見回していたみゆきちゃんの前にキーボードを置いて、電源を入れた。


「これねー、押すといろんな音が出るのー」


 どれみふぁそらしどー。音色をピアノにセットしてあったから、ぽろろろんと軽やかな音が鳴った。


「どこでも、好きなとこ押していいよー」


 触っていいんだろうか。そんな風に、みゆきちゃんが少し震えながらキーボードの鍵盤を押した。

 ぽん。小さな音が出て。最初無表情だったみゆきちゃんの顔が少しだけほころんだ。みゆきちゃんの笑顔を見たわたしには、その小さな音が心の水面にしずくが落ちて響いたみたいに聞こえたんだ。


「今度は、音、変えてみよー」


 音色ボタンを押して、音をいろいろ変えてあげる。ピアノからストリングスへ、クラリネットへ、尺八へ……。変な音も、おもしろい音も、いろいろ。最初おっかなびっくりだったみゆきちゃんが、今度は自制の壁が崩れたみたいに夢中になって鍵盤を押し始めた。無表情だった顔がきらきら輝いてる。でも……言葉にはならない。いや、それを表す言葉を知らないんだろう。

 めちゃくちゃに鍵盤を押す音に合わせて、その音階を言葉にする。どーとかみーとかそーとか。それなら歌詞を知らなくても歌えるもん。


 夕飯の時ご飯を全力でがっついたみたいに、みゆきちゃんは全力でキーボードを弾き倒した。声は出さないけど、ものすごく明るい笑顔で。ずっと。


◇ ◇ ◇


 母親から放り出されて、知らない大人に引っ張り回されて、みゆきちゃんは疲れたんじゃないかと思う。キーボードからは離れなかったけど、さすがに眠そうな顔をしだした。


「さあ、そろそろおねむだね。歯を磨いて寝ようかー」


 眠いけどキーボードから離れたくない。そんな顔をしてたから、くすっと笑ってみゆきちゃんの耳元でささやく。


「みゆきちゃん。それ、あげる。みゆきちゃんのだよ。好きな時に、いっぱい遊んでいいから」


 わたしは。その時のみゆきちゃんの顔を一生忘れないと思う。

 嬉しいとか、そういう次元の表情じゃなかった。自分の欲しかったものが生まれて初めて手に入った……そんな悲しい充足感。目を涙で潤ませたみゆきちゃんが、キーボードをぎゅうっと抱きしめたんだ。まるで、母親の代わりにキーボードにすがるかのように。


◇ ◇ ◇


 膝の上で歯を磨いてあげた時に、ぼろぼろの歯に驚いた。そりゃあ……お菓子しか食べてなかったらそうなるよね。うちにいる間に、床屋さんと歯医者さんには連れていってあげたいなあと。そう思いながら二階に上がろうとしたら、みゆきちゃんがわたしのパジャマの裾を掴んで離さない。あはは。お母さんもこうやって捕まっちゃったってことか。


「いっしょに寝る?」


 無言でこくっとうなずいたみゆきちゃんは、わたしより先にシングルベッドに上がると、壁側にころっと寝転んですぐ寝息を立てはじめた。こんな小さな女の子に、何も与えないで孤独だけを押し付ける鬼畜が実際にいるってこと。それは悪夢じゃない。紛れもなく現実なんだ……。

 毛布をかけて、背中をぽんぽんと叩く。それから、おやすみというつもりでみゆきちゃんの小さな手をきゅっと握った。


「っ!!」


 次の瞬間、視界が暗黒で塗り潰されて……わたしは床に崩れ落ちた。

 なだれ込んできたのは、わたしの意識を根こそぎ刈り取るくらい強烈なみゆきちゃんの悪夢。それは夢だ。間違いなく夢なんだ。それなのに。ただ一面暗闇が広がっているだけで、何もなかった。何も。何一つとして。


◇ ◇ ◇


 おばさんはやさしい。おねえちゃんはもっとやさしい。おじさんとおにいさんはわかんない。


 おふろにはいって、ごはんいっぱいたべて、きーぼーどっていうのであそんだ。すっごいたのしい。いろんなとこおしたらいろんなおとがでて、そしたらどーみーそーっておねえちゃんがいうの。どーみーそーどーみーそー。



【第十一話 夢の暗闇  了】

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