U.
U.
――クライマックス、かあ。
と盈進予備校のテキストを前にして昇は思う。
――このゲームも終わりに近くなる、ということはだな。
英語のテキストの、進行形受動態の項を読みながら昇の思いは一つになる。
――夏目さんとも会う機会がなくなる、ってことなのよね。
シグノのペンで演習問題を解きながら、昇は一寸ドキドキする。
――あと、夏目さんと会えるのは、後期日程で同じ教室になる時だけなのよね。
早大の過去問題を解くが、昇の頭の出来がお粗末な所為か、問題が難し過ぎるのか、なかなか答えが出ない。
――ここは脱兎の如くコクっちゃった方が早くねえかな?
うんうん、と昇は頷いた。問題も解けた。良し、後一題解けば予習は取り敢えず済む。
――頑張ろうっと。
「スビタスよ」タジューク王は、自らの足下にうずくまる灰色の猫に向かって声を掛けた。「起きているか?」
スビタスは目を開き、耳をぴくぴく動かし、むっくりと身体を起こした。
「はい、起きております、王さま」
「実はな」タジューク王は口髭をひねりながら言った。「先代のオビータ王の、追悼祭を開こうと思うのだ。そなたも知っての如く、オビータ王はもう亡くなられて久しいが、未だ国民の中にはその政治手腕を高く評価する者が多くてな。ここで追悼祭を開けば、わたしの取ろうとしている政道も明確に示されることになると思うのだ」
「それは、非常に良いお考えだと思います」スビタスは直ぐに答えた。「出来るだけ多くの予算を注ぎ込んで、盛大に挙行されると宜しいでしょう」
タジューク王はそれを聞いて、御前会議を開くことにした。
直ぐに各大臣に召集が掛かり、アバスとカイムも姿を見せた。
「スビタスはこのように言うので、わたしもこの度、オビータ王追悼祭を挙行することに決めた」
開口一番、タジューク王はこう言った。
「そこでだ、行列のルートを決めなければならん」
王が言うと、直ぐさまラビイがプロジェクタを用意し、首都ビリングの地図を映し出した。王は、それを見ながら通るべき道筋の考えを述べた。
と、卓子の上に座って見ていたスビタスが、
「そのコースは余り良くないのではないか、と思います」
と発言した。タジューク王は、それを聞き、
「どうしてじゃ?」
と問うた。スビタスは尻尾で卓子の表面を一回軽く叩くと、
「タンタル通りは方角として良くありません。パシュミン通りの方が広いので、見物人が多くても問題がないでしょう」
とすらすらと述べた。
「成る程な。それもそうだな」
王は二つ返事でコースの変更を決めてしまった。
俄に御前会議に出席した大臣たちはざわつき出した。
まず一番先に口を開いたのはハイリ警察大臣だった。大臣は、
「それが噂の…、神猫なのでしょうか?」
と恐る恐る王に訊ねた。王は胸を張って、
「そうだ」と答えた。「これがスビタス、そしてこちらがスビタアじゃ」
「ははあ」
所が、広場の隅から鋭い声が飛んだ。
「タジューク王」
声を上げたのはカイムである。
「カイムか、何か?」
「王さまは、一国の政に畜生の言うことをお取り入れになるのですか?」
タジューク王は顔色も変えず、
「そうだ。それが何か、良くないか?」
と逆に問うた。
「良くありません」カイムは直ぐ答えた。「スビタスは飽くまで愛玩動物です。口を利く猫は確かに珍しい。併し、口を利くからと言って、国政にまで参加を許す、というのはどうかと思いますぞ」
カイムの口調は打ち付けに非難の声色を帯びていた。
そうだ、その通りだ、という声が、いずれも低声ではあったが、何名かの大臣の口から漏れた。
が、その時、
「それはそれで良いのではないのかな、カイムどの」
これはアバスの声である。
「何、アバスどのは、動物にこの国を支配させて潔しとするのかな?」
カイムは声を荒げた。
「併し、カイムどの、現にそのスビタスは正しいことをも申しておるではありませぬか」
「幾ら正しいと言っても、所詮は畜生のなすこと。それを鵜呑みにして正道から外れるのは愚の骨頂というべきもの」
「何をっ」
アバスは色めき立って立ち上がった。カイムも椅子から立ち上がった。それを見たタジューク王は度を失して、
「やめい、やめんか二人とも」
と声を上げた。
靖はPCのディスプレイの前で頭を抱えていた。アバスとカイムの仲が余り良くないことは知っていたが、まさかここまで対立するとは思っても見なかったのだ。
「参ったな」靖はマウスを離すと汗ばんだ手指で卓の上をとんとんと叩いた。
「止めないと、二人とも今日限りに罷免するぞ」
タジューク王は蒼惶として言った。それで二人は漸く落ち着き、席に着いた。
併し、王は今夜これ以上の執務は無理だった。
「もう時間だから、わたしは休む。――良いか、これからはスビタスの言うことが絶対じゃ。それを肝に銘じて行動せよ」
そう言うと、タジューク王は靴音高く奥へ入ってしまった。
――すげー、と昇は思った。幸男の計画、マジで上手く行ってるじゃねえか。
それにしても、アバスとカイムが一寸対立して見せただけでああまで狼狽えるとは、ゲンちゃんの治世は長くないね、と思いつつ、昇はログ・アウトするのだった。
翌日は夏期講習の後期日程初日だった。昇は駅前で健司、伸治の二人と落ち合い、電車に乗った。
「予習、やって来たか?」
伸治が二人に問うた。健司は、
「あったり前だぜ」
と簡単に答えると、「英頻」の頁に顔を埋めてしまった。昇は、
「さっすが、帝大系の医学部を目指す男は違うねッ!!」
と景気良く言って、健司の背中をバシッと叩いた。健司は昇に、
「そう言うお前はやって来たのか?」
と問う。昇は元気に、
「ハイッ、先生、やって来ましたですっ!!」
と答える。昇が朝からハイ・テンションなのを見て、伸治は、
「まあ、そうとばすなよ」
と宥めたが、「今日コクる」ことを決めた昇に怖いものはないのだ。
予備校に着くと、最初の講義が国語で、早速昇は夏目美智子と一緒になる。健司も伸治もいなくなる。
――その隙を突いておれはコクるぜッ!
昇はそう心に決めていた。
講義の行われる412教室に入ると、夏目美智子は、友だちの花村某さんと園田何たらさんと一緒に並んでもう席に着いていた。昇は美智子の前に立つと、しゃちこ張って敬礼し、
「おはよーごぜーますだ、せんせーッ!」
と声高らかに挨拶した。一緒に講義を受ける他の高校生たちは唖然として見守っていたが、美智子は昇の性質を承知しているらしく、大人びた様子で受け流し、併し口元に手を当ててくすくす笑いながら、
「ハイハイ、お早う、脇田くん」
と返した。
挨拶が済むと、昇は一転真面目くさった仕草で夏目の後の席に着いた。
「脇田くん、予習して来た?」
と美智子はわざわざ振り向いて問うて来た。昇は、鞄からテキストと辞書とノートを取り出しながら、
「やって来たよん」
と軽く応じる。
――ここから先は、おふざけはなしッ、と。
と、昇は決めて来たのである。
やがて、国語科の教師が現れ、ベルが鳴り、講義が始まった。
――講義開始後三十分、そこが勝負だ!
これも昇の計画の内である。
教師は万葉集を扱った獨協大や慶應大の問題を取り上げ、一つひとつ丁寧に解説して行く。昇はきちんと板書を写した。美智子も熱心に講義を聞いているのか、と思い、じゃあそろそろケータイでメールを送って…、と思い掛けた時、美智子が自分の鞄を開けて、中から携帯電話を取り出すのを、昇は見、手を止めた。
昇が固唾を呑んで見守っていると、美智子は携帯電話のメモリを操作しているようだ。そして、教師に見付からない様、机の下でメールを打っている気配である。
――メールか。友だちの誰かかな?
夏目美智子に彼氏はいない、と昇は睨んでいた。昇の些か動物的な勘が教えたのである。
やがて、美智子は携帯電話の「送信」ボタンを押したようだ。
――一体、誰に? 他の教室で講義を受けている誰かかなあ? けど、前期はこの三人で固まってたし、なあ…。
と昇が思った瞬間、鞄の中に入っている昇のケータイが激しく震え始めた。
――えッ!?
昇は一瞬固まったが、次の瞬間、
――キターーーーーーー!!
という昂奮に襲われて呆然としてしまったものだ。
頭の中が一気に真っ白になる。昇の精神は地球からオリオン座P3520惑星まで一瞬で吹っ飛んでいた。
暫しの宇宙旅行の後、漸く昇の精神は地球上に戻って来た。
――では、一応告白文のチェックを…。
昇は携帯電話を開き、新着通知のあったメールを開いた。果然、それは夏目美智子からのものであった。併し、タイトルを読んで、
――ありっ?
と来た。何故なら、タイトルは、
「お願いがあるの~」
となっていたからである。
本文を読むと、昇は思わず、
「エエーッ!? 何でーッ!?」
と叫びたくなってしまったのである。
「脇田くん
一つお願いがあるの。一生のお願い!
竹下くん、あたしのことどう思ってるか、暇な時でいいからちょっと聞いてみてくれないかな? それから、このことは中野くんには秘密にしておいてね。」
昇は、ここはひとまず大人しく降参しておくことにした。
――しっかし、幸男のどこが良いのかねえ?
昇は赤くなったり蒼くなったりしながら講義を聞いた。もう、講師の言葉など頭に入って来ない。
――あー、全くもってオンナゴコロ、ってものは判らないものよね。
講義が終わり、昼になった。昇は物理の講義を受けて来た健司と伸治と合流して昼食を取ることになった。健司に言ってはいけない、ということは伸治にも黙って置くべきことなのだろう。顔を合わせるなり、健司が、
「お前、美智子ちゃんと一緒の講義だったんだろ? どうして昼飯一緒に食おう、って誘って来なかったんだよ?」
と文句を言った。昇は、どう答えたものか瞬時迷ったが、結句、
「ま、全てはタイミングなんすよ。タイミングの問題」
と言って軽く受け流してしまった。
三人は学食に入って席を探した。夏目美智子たちはいなかった。
「どうやら、外に食いに行ったみたいだな」
健司が無念そうに言った。伸治は、
「健司、お前、仲が良さそうなこと言ってたじゃねえか。他の二人だって可愛かったし、どうして誘えなかったんだよ」
と詰った。健司は、
「んまあ、おれは単なる友だち、って感じ…なのかな? ううん、まあ、中途半端な関係なんすよ」
と肩を落として答えた。
こんな時に幸男の話なんか、切り出せねえよな、と昇は思ったので、美智子の意志通り、黙っておくことにした。その代わり、幸男にも今は何も言わないことにする。
――やれやれ。「キングダムズ」の片が付いてから幸男にはそっと知らせておくことにするか。
昇は、B定食の豚カツを食べながら、健司と伸治に、
「お前さんたちは、この集中講義で手応えを感じているかね?」
と問うた。
「いやあ、難しいよなあ」と健司。「おれ、受験科目から物理は除くわ。化学と生物で行く。どのみち、医者に必要なのはこの二つだからね。――その辺の私大医学部の学生の中には、物理と化学の選択で入って、大学四年になるまで、心臓に心房と心室が二つずつある、ってことを知らない連中もいるらしいしさ。おれ、なるなら名医って呼ばれる医師になりたいんだよね。物理はよしとく。今日決めた」
と言った。伸治は、
「おれは逆に、物理の講義取って良かったわ。これなら早慶の理系学部でも行けそう。おれ、プログラマっつうよりは、エンジニアリングを学びたいのかも知れない。ま、最終的にはプログラミングに戻ると思うけど、ハードウェア弄りも面白そうだな」
と言う。昇は、
「所でさ」と談柄を別の方面へ回す。「ゲンちゃんのことなんだけどさ、幸男のやつ、一体ここまでの計画、どうやって練り上げたんだろね」
伸治と健司は顔を見合わせ、同時に、
「さあ~」
と首を捻る。
「あいつ、高校生にゃ見えねえぜ」
との昇のコメントには、二人とも、
「うんうん」
と頷いた。
「あいつを引き入れて良かったのか悪かったのか、おれには判らなんなあ。軍隊式で、ひとをチェスの駒に使ってるんだもんな。幸男が一番楽しんでんじゃねえの、このゲーム?」
昇は頭の後ろで腕を組んだ。
「いや」とは伸治。「結果的にはこれで良かったんじゃないの。何つうかさ、こう、おれたちのペースで、システマティックにゲームが運んでるじゃん。あいつの作ったプランに乗るの、面白えよ」
健司も、
「そう、そう。みんなでてんでに参加してゲンちゃんを包囲してたら、きっと何処かでボロが出てたと思うぜ。幸男が臨機応変にプランを立ててくれるから、上手くやって来れたんだよ」
と口々に褒めそやした。が、昇には今一つ気掛かりな点が残るのだった。併し、時間が来てしまったので、昇はそれを口に出すことはなかった。
「それでな、スビタスよ」タジューク王は膝の上に乗ったスビタスの背を撫でながら問う。「嵐に見舞われたケンロイ地方への税金の賦課だがな、どうすれば良かろうな」
「王さま、領民の中にも、被害の大きかった者、軽くて済んだ者、さまざまです。一律に課税するのは適当ではないでしょう。被害の等級を決めて、それに従って課税すべきです」
とスビタスは明快に答える。タジューク王はまた満足げに頷いた。
スビタアは王の隣に置かれたバスケットの中で丸くなって寝ていた。
が、昇は寝ていなかった。一生懸命にスビタアを寝かせていた。上洛してからのスビタアは、栄養が良すぎて肥り気味だった。だが、昇はそんなことにはもう構っていなかった。
夕刻受け取った幸男からのメールで、今夜を「勝負の時」にする旨が伝えられていた。
恐らく伸治と健司にも同内容の連絡が行っているのだろうが、昇には一体誰が何をどうして「勝負」するのか、さっぱり判らなかった。
尤も、幸男のことだ、腹中に一物あるのは間違いない。
――と、執務室の外から声高な会話の声が聞こえて来て、スビタアはふと首をもたげた。
騒ぎは王宮の外で起きているらしい。
執務室に蒼惶とした態度で入って来たのは、バアグスだった。
「王さま、王さま、大変です。大変なことになりました」
バアグスは蒼ざめた顔色で口早に報告する。タジューク王は、未だ暢気な顔で、
「何だ、どうした、バアグス。まあ落ち着け。――これ、これでも飲んで息を整えよ」
と言って、葡萄の生ジュースが入ったグラスを手渡した。バアグスは言われた通りそれを飲んだが、昂奮は収まらず、
「王さま、外を、王宮前広場をご覧下さいませ」
と窓の外を指さした。タジューク王は、広場の方から騒擾の音が響いて来ることに漸く気付いた。
「一体どうしたのだ? 何があったのだ?」
王は立ち上がり、窓の外を見た。バアグスはその後ろにやや離れて立ち、
「アバスさまとカイムさまが…」
とのみ口にする。それでタジューク王にも何が起きているのか判って来た。
「二人が、対立しているのだな?」
「はい。――然も、武器までお持ち出しになられて…」
「なに?」タジューク王は緊張した。そして王宮前広場を見下ろすテラスに出た。「武器とな? 穏やかでないな」
外では、アバスとカイムがそれぞれの手勢を伴って対峙していた。アバスは歩兵百名ほど、戦車五輌、装甲車十輌を連れ、自身は白いゾウの背に乗っていた。一方、カイムは白馬に跨り、歩兵二百名弱、戦車二十輌、装甲車十五輌を引き連れていた。
広場に蝟集しつつあるビリング市民は、東西に分かれた軍勢に加勢する者、遠巻きに眺める者、一散に逃げ出す者、様々である。
アバスは、
「タジューク王の善政に賛同する者はみな我に続けーッ!!」
と叫び、広場を西から東に向かって前進した。
カイムは、
「畜生に政をさせるタジューク王は早々に退位すべきだーッ!!」
と主張し、東からアバスの軍勢を迎え撃つ体勢を取った。
そして、二つの軍勢は、二手に分かれ、鬨の声を上げると互いに撃って掛かり、広場の中程で激突した。
その音は、ノートPCの前にいる靖の耳にも届いていた。源田靖は全身汗まみれだった。
「な、何てことが…」
靖は呟いた。
タジューク王はテラスから執務室に入り、蹌踉とした足取りで玉座に着いた。そして、傍らのバスケットからスビタスを抱き上げ、再び膝の上に乗せ、背を撫でた。
スビタスが見上げると、王は涙を流しているのだった。
王はスビタスに加えてスビタアも抱え上げ、二匹の猫をしっかと抱き締めた。
「王さま…、お気をしっかりお持ちになられますよう」
バアグスが言ったが、その声は王の耳に届いたものか届かなかったものか、王はただひたすら黙して涙を流すばかりだった。
やがて、王宮の中も騒がしくなった。端女や侍従たちが先を争って執務室に走り込んで来る。それは格別に用事のある訳ではなく、逃げ込んで来るのだった。口々に悲鳴や慨嘆の言葉を口にしている。
そして、その最後に、カイムがその孤影を現した。勝ち誇ったカイムは流血淋漓たる手に剣を握っていた。
カイムは確かな足取りでつかつかと玉座に歩み寄り、双眸でタジューク王を見下ろした。
王は、すっかりおろおろして、
「分かった、カイムよ、わたしが間違っておった。もう王宮に動物は入れさせぬ。後生だ、命だけは助けてくれ」
と言い、懐刀を取り出すと、
「こう、こうすればそなたも満足なのであろう」
と言いさま、スビタスの首を切ってしまった。
幸男の使っていたノートPCはビープ音を立て、ディスプレイには、
「Fatal injury: You are dead.」
の文字が浮かんだ。
「よし」幸男は珍しく昂奮したらしく、ぐっ、と握り拳を作った。隣から伸治が、
「こんなんで良いのか?」
と問うた。幸男は、
「うん、非常に上出来だ。源田の野郎に、相当の精神的ダメージを与えたに違いない。よし、このゲーム、間違いなくおれらの勝ちだ」
伸治は、
「ふうん。そんなもんかねえ」
とのみコメントを口にし、カイムの体力ゲージが低下していたので、卓上にあった、王の食べ残しらしいパンと果物を口に含み、玉座の傍のカウチの上に腰を下ろした。
嘉幸の携帯電話が鳴った。ディスプレイには幸男の名前が出ている。嘉幸は「通話」ボタンを押した。
「もしもし、幸男?」
「よう野中、今夜はよくやってくれた。さんきゅ。後一つ、やって欲しいことがある」
幸男の声は珍しくトーンが高い。
「なに?」
「それは、名乗り出て欲しいんだ」
「えっ?」嘉幸は一瞬黙り込んだ。「名乗る、って?」
「決まってるじゃないか。もうバアグスだのスビタスだのと架空の名前を使うのは止めて、源田に、おれたちが奴の教え子であることをはっきり認識させるのさ」
「えーっ」嘉幸は言い淀んだ。「…あ、あのさ、それって、まずくないか?」
「まずくないよ、全然」
「だって、そんなことをしたら、おれたちみんな赤点を付けられちゃうぞ」
「大丈夫だって」幸男は性急な口調で焦れったそうに言った。「そんなことにはならない。おれが太鼓判を押すよ。――ま、お前がカム・アウトしなくても、おれの隣の坂口がもう口にする準備が出来ているけどな」
「えっ、そ、そんな…。絶対平気?」
「平気だって。言ってるだろ?」
タジューク王は、スビタスの冷たくなった骸を前にして、口をぽかんと開けていた。
「お、おお…、ス、スビタスよ。汝は死んでしまったのか。お前はもう、お告げをしてくれないのか。お願いだスビタス、返辞をしてくれ。頼む、スビタス、お前がいなければ、わたしは政治を執行することができないのだ。スビタス、スビタス、スビタスよ…」
タジューク王は虚けたような声で由なきことを口にするばかりだった。
と、その時、カウチに腰掛けていたカイムが立ち上がり、
「ゲームは終わりだ、源田先生」
と声を上げた。
タジューク王は、血走った目でカイムを見つめた。
「キングダムズ」の中で実世界の名を呼ばれた源田靖はぎくりとした。職員室でゲームにログ・インしていた時の、後ろめたい気分が靖の中で甦った。
カイムに続き、敗者だった筈のアバスも執務室へやって来た。ラミアも立ち上がった。バアグスも玉座近くに寄って来た。
カイムは、
「源田先生、あなたは生徒のために割くべき時間を、無益極まりない電子ゲームに費消している。生徒たる我われはそれには断固同意できない。だからこそ、こうしてゲームに参加し、あなたを包囲して来た。そして源田先生、あなたは今日、わたしたちに負けたのだ。それでもゲームを続けると仰有るのならば、先ず大聖寺学院の教職を捨ててから行うべきだ。あなたの様な教員に受験指導をされる生徒こそいい面の皮だ。さあ、タジューク王ことミスター・源田靖、この下らないゲームから去れ」
と淀みない口調で述べた。これは無論、竹下幸男がカイムを操る伸治のPCを通して語ったことである。
源田靖は、暫し無言だった。その間に、カイムは、
「我われは、主に大聖寺学院高校二年G組の生徒たちである。あなたの一学期からのウェブ上における行動に就いては、大方把握している。我われの手中には一通の報告書がある。我われは、この自分たちで纏め上げた報告書を、あなたの上司たる校長や学院の理事の許へ提出する準備を既に終えている。いつでも可能だ。
「さあ、どうする源田先生。我われがあなたに望むのは、このゲームを止め、再びしっかりと生徒の指導に当たることだ。それが出来ずに、このゲームを今後も続けるというのなら、それはあなたが教師として失格であることを意味する」
源田靖はディスプレイの前で息を呑んでいた。右手の親指を口の端でくわえ、眼鏡の奥の目は血走って見開かれていた。
――まさか。
靖はそう一言心中で呟いた。今自分の眼前で展開していることは、靖にはまるでもう非現実、非日常事だった。靖は一瞬、自らの精神の正常を疑った。が、直ぐに気を取り直した。
そして、
「ここはわが王国である。わたしの意にそぐわぬ部下は罷免する権利をわたしは持っている。今、その権利を行使する時が来たようだな」
とタジューク王は言った。するとカイムは、
「では、これが我われからの最後通牒だ。ミスター・源田、あなたが一学期から今夜まで行って来た行状に就いて、我われは大聖寺学院に自主的に報告する。そうなれば、学院内におけるあなたの立場は非常に脆いものになる筈だ。
「いや、その方が我われとしても手っ取り早い。あなたは、我われにとっては最早何の意味もなさない存在なのだ。そんなあなたに受験指導をしてもらうつもりはない。あなたには消えてもらう」
「何の意味もなさない」「消えてもらう」
この二た言が靖の脳髄に到達してその意味がきちんと理解されるまで、数秒を要した。
靖は妻や娘の冷ややかな目を思い出した。
「バリ島と日本の時差は一時間よ」
「消えてもらう」
――そうか、わたしは不要な存在だったのだな。
靖は、これまで誰にも知られぬよう心中奥底に秘匿していた記憶を探った。靖がその秘密の記憶、人生上の最大の汚点ともいえる秘密を自ら明るみに出すのは、滅多にないことだった。この前にアクセスしたのはいつ頃だったろうか。もしかすると未だ大学生だった頃のことだったかも知れない。
靖は目を瞑った。
校長の甲高くやかましい説教の声も聞こえて来た。
「そんな事では貴殿に大切な生徒達の教育に当たって頂く訳には行きません。即刻辞表を提出して頂きます」
――そうか、おれはもういいんだな。
そう考えると、靖はふと熱いものがこみ上げて来て、思わず目頭を拭った。
――きっと、おれは神の書き損じだったのだろうな。
靖は何か絶望的な解放感とでもいうべき心境を味わい、また涙を落とし、それからすぐ泣きやむと、車のキーを取りに行った。もう戻らないつもりだった。
竹下幸男はカイムにものを言わせながら、じっとタジューク王の様子を観察していた。
タジューク王は最後に弱々しい声でものを言ってから、黙り込んでしまった。
幸男が王の異変に感付くまで時間は掛からなかった。
「おかしいぜ」幸男は言った。「生気がない」
「え?」伸治は言った。「セイキがない、って?」
「死んでる、ってことさ」幸男は短く答えた。「源田の奴、くたばったな」
「おい、ラビイ、侍医を呼べ」カイムは言った。「王さまのご様子がおかしい」
直ぐに医者は現れた。そして、タジューク王の脈を取った。
「これは、大ごとですな」医師は言った。「脈がございません。緊急に蘇生措置を取りませんと」
タジューク王の身体はキャスター付きのベッドに乗せられ、寝室に移された。
医師は手を尽くした。が、既に遅かった。タジューク王は目を見開いたまま、絶命していた。
「これからどうする?」
アバスが問うた。カイムは二秒ほど考えた後で、
「国葬にしよう。遺灰はまたリンダン川に流せばいい」
と言った。
「次の王のポストは?」
「オープンにしよう」
オープンにしておけば、国王になれるだけの利用料を支払った者がそのまま王位に就けるのである。
「じゃあ、おれたちは…」
「このまま消えれば良いのさ。――まあ、葬式までは面倒を見ようぜ」
そこで、大葬の礼が執り行われることになり、準備は着々と進められ、タジューク王の遺骸は火葬場へ運ばれた。ビリング市民にはタジューク王の死は広くは告知されず、その為沿道に出る者は僅かだった。
火葬は滞りなく済んだ。ラミア、アバス、カイム、バアグスの四名は遺骨を拾ったが、その折ラミアが、
「ねえ」と声を上げた、「何かしら、これ?」
ラミアが指さす先には、金属製の黄色い筐があった。鍵穴が付いている。
「何だろうな」アバスは言った。「開けられるんだろうか?」
カイムは、
「開けて見ようぜ。職人を呼んで、鍵を作らせてみれば、開くだろう。――併し、こんなものがこんな所で出てくるなんて、聞いてなかったぜ」
四名は遺灰を川に流すと、そそくさと王宮に引き返し、錠前師を呼んだ。が、相当の手練れであるその職人は、二時間ほど格闘した後、首を振った。
「わたしには、とても無理です。どんな鍵を作ってもぴったり合いません。筺の方が開けられるのを拒否しているような感じなんです」
と言う。アバスは、
「この国に、そなた以上の職人はおらぬか?」
と問うたが、錠前師は、また首を振った。
「僭越ながら、わたくしめ以上の職人は、この国では見付からないでしょうな」
「一体、何が入っているのかしら?」ラミアは言って、掌に載る大きさの筺を手に取り、矯めつ眇めつして見ていた。「でも、もしかしたら開けない方が良いのかも知れないわね」
そこで、その小筺は、タジューク王の遺品として、平生王が愛用していた品物と共に王立博物館に収められることになった。
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