O.

 O.

「さあて、これからどうなるかね」

 伸治はキーボードを叩きながら言った。幸男が脇から覗き込んでいる。

「とりあえず、結婚はさせなければならないぞ。話を流さないように気を付けてくれ」


 さあ、頼むよ美智子ちゃん。計画の第一歩目はきみの手に掛かっているんだから。

 健司はPCの前で願った。

 傍らのステレオでは、先ほどからグリーン・デイが「シー」を歌っている。


 お願いよ、健司くんに坂口くん。あたしはウリなんかしたことないし、するつもりもないんだから。

 美智子は祈るような思いで画面を見つめていた。


「そうか、二人とも満足か」タジューク王は言った。「それなら、このラミアどのをわたしの妃にするということで決めてしまって、いいのかな?」

「随分簡単にお決めになるんですね」とカイム。「この王家のしきたりや、この国の国情についてはご説明なさったのですか?」

「いいや、まだだが、わたしはお前たちが言うから妃を迎えようと言うのだ。お前たちが満足なら、それでよいではないか」

「しかし、他国からのスパイということも考えられますぞ」アバスが言う。「軽く身辺調査はしておいた方が…」


 ディスプレイの前で美智子はくすくす笑った。この王さま、やっぱりどうかしている。健司くんや坂口くんの方が余程確りしているわ。


「ああ、じゃあ訊くが」タジューク王はラミアに向き直った。「あなたは、これまで何カ国渡り歩いたのかね?」

「まだこの世界には来たばかりですわ」ラミアは生真面目な顔で言った。「セルウィン王国が初めてです」

「そうか。動物は好きかね?」

「ええ。小動物は扱いに慣れています」

「宗教は?」

「ええと…仏教徒です」

「そうか。それなら合格点をあげていいではないか」

 タジューク王はアバスとカイムに向かって言った。

 しかしアバスは、

「困りますね陛下、このラミアさんに失礼なことを申し上げるつもりはないが、城内で浮気でもされたら大変なことになりますぞ。国がひっくり返るスキャンダルになります」

 それを聞いてタジューク王は、ラミアを見て、

「きみは、寂しがり屋の方かね、ラミアどの?」

 と訊ねた。心得たラミアは、

「いいえ、わたくし、一人でいても苦になりません」

 と言った。

 カイムは、

「しかし、ご公務も果たして頂かなければ王室に入る意味がありません」

 と言う。王は、

「きみは、人嫌いな方かね?」

 と問うた。ラミアは、

「いいえ、人好きな方ですわ。何かわたくしに務まるお仕事があるのでしたら、ぜひお任せ下さい」

 と答える。王は、それみろと言わんばかりに二人の甥を見た。

「どうだね、これでもお前たちはラミアどのに不満があるかね?」

「――そうですな、わたしの方は、陛下さえ宜しければ問題ないのではないかと」

 とカイム。アバスも、

「わたしも、ラミアさんで特に問題はないように思いますが…」

 と言った。

 それで話は決まった。

「よし。ラミアどのは、今日からわが王国の王妃だ。ようこそ、セルウィン王国へ。ラミアどのには、広い寝室と日当たりのいい居室を用意して進ぜよう。傍係も二人付ける。それでいかがかな?」

 誰にも異存はなかった。


「よし、うまく行ったぞ」

 伸治は、先ほどからスビタスに掛かり切りになっていた幸男に言った。幸男は、しかし、

「でも、まだ油断はならないぞ」

 と言った。伸治は、

「どうして?」

 と訊ねる。

「女ってやつは、突然心変わりするからさ。この夏目さんって子が、どこまでおれたちに付いて来てくれるか、まだ分からん。とりあえず中野に言って、連絡を密に取らせるようにしてくれよ」

 伸治はため息を吐いた。

「お前ってやつは、つくづく高校生らしくないヤツだな。夏目さんはおれも狙ってたんだけどな。こんな機会で、健司と夏目さんがくっついちゃったら面白くないぜ」

「私情を持ち込むのは止せ」幸男は冷静な声で言った。「これは単なるお遊びじゃないんだから」

「分かってる、分かってる」

 伸治は両手を挙げて降参した。


 健司は携帯を取り出し、美智子の番号に掛けた。

「もしもし」

「あ、あたしです。あんな感じでいいの?」

「上出来、上出来。これからもあんな調子でお願いしますよ」

「でも、あたし、あんなオジサンの子供産むなんてゼッタイ嫌だからね」

「そんなことにはならないって。毎日好きなことして過ごしててくれればいいんだよ」

「そうお? まあ、夏休み中はヒマだからいいんだけど。本当に夏休み中だけでいいのね?」

「ああ、いいよ。――幸男の頭の中に何が入ってるか知らないけど、夏休みで決着を付けるつもりらしいから」

「じゃ、また作戦会議でね」

「うん。どうもありがとう」

「お休みなさい」


 伸治は昇の番号に掛けた。

「おっす。スビタア、調子よくやってるじゃないですか」

「まあねえ」昇は言った。「今は姉貴が旅行中でさ。PCも好き放題に使えるのよ。それもあって、最近はきちんとやってます」

「幸男が、明日また健司の家で集まろうって言ってる」

「了解。何時?」

「三時。来られるか?」

「行きますよ。行きます。夏目さんにも会えるんだしね」

「お、お前もあの子に目を付けてるのか? 競争相手が増えたなあ」

「ま、おれの場合はダメ元ですけどね」

「じゃあ、また明日」

「おう」


 源田靖はやれやれ、といった気持ちでログ・アウトした。王妃を迎えるのは本意ではなかったが、国民の手前と言われてしまうと仕方がない。やむを得ない。

 しかし、自分はあの女を抱かなければいけないのだろうか?

 靖は余りぞっとしない思いで考えるのだった。

 これも浮気の一形態と言えるのだろうか?

 まず、あの女の出方を見ることにしよう。とは言うものの、どうせヴァーチャル・リアリティの中で起こっていることだ。閨房に入らなかったからと言って浮気をするような女が「キングダムズ」にいるとは思えない。けれども、子供を欲しがったらどうするか? 養子でも迎えるか? そうなるとアバスとカイムがどういう顔をするだろうか。せめて今夜の「面接」で、子供好きかどうか訊いておくべきだった。

 些か悔やまれるところもないではなかったが、靖はPCの前を離れ、シャワーを浴びるために浴室へ行った。

 妻も娘もいないと、こんなに気楽に毎日が過ごせるものか。これならもうあの二人は帰って来なくてもいいのだが。


「とりあえず、第一歩は踏み出したな」

幸男が言った。六人は中野健司の居室に集まっていた。

「ゲンちゃんが離婚するとか騒がない限りは大丈夫だろ」

 昇が言うと、

「そうなったら、おれたちが止めるさ」と伸治が言った。「国民に対して体裁が悪い、と言えば黙らせられるさ」

「だけどー」と美智子がおずおずと声を上げた。「あたし、やっぱ、ちょっとキモいんだけどさ…」

「何が?」

「だって」美智子は何故か吹き出してから言葉を継いだ。「本当の顔も知らない相手と結婚するんだよ。正気の沙汰とは思えないの」

「うーん」

 それを聞いて男五人は黙り込んだ。

 と、昇はふと思い付いて、

「じゃあさ」と言った。「もし、ゲンちゃん本人の顔が分かれば、納得できんのかな?」

「そうだね」考えながら美智子は答える。「もしかすると、だけど」

「それなら、ウチのガッコのサイト出してやればいいじゃん、健司」

「おっ、その手があったか」

 大聖寺学院高等部の公式ホームページには各科の教員の写真と名前が出ているのだ。

 健司は早速手を動かした。

「ホラッ、コイツだよ美智子ちゃん」

 美智子は健司の脇から液晶ディスプレイを覗き込んだ。

 ディスプレイには、「英語科 源田靖」とあり、眼鏡をかけ、長顔で堅苦しくて気難しそうな四十過ぎのやせた男の顔が映っている。

「ふーん」

 と美智子が感心したのか納得したのかそれとも落胆したのかよく分からない声を出した。

「どう?」

 伸治に訊ねられて、

「マジメそうなヒトだね」

 とぽつんとひと言答えた。

「そーなんすよ」昇は言った。「兎に角そいつ、堅物でさ、人でなし、って言うのかな、例えば生徒の答えが模範解答からちょっとでもズレてるとペケ、って感じでさ。宿題忘れると立たせるし」

「うん。感じ、分かる。そんな感じだね」

「腹の底で、ゲンちゃんのこと殺したいと思ってるヤツは生徒の中に何十人もいると思うぜ」

「家族っているの?」

 美智子が問うた。

「さあね」健司が言った。「少なくとも、奥さんと中学生の娘が一人いることは確か。この『キングダムズ』の話も、娘の同級生を通じて伝わって来たんだから」

「中学って、どこの学校?」

「明峰中だってさ」

「名門」

「ま、出来の悪いヤツは叱り飛ばす割に、出来のいいヤツを贔屓したりしない、というのが唯一の長所かな」

 幸男が弁護するように言った。

「でも」と美智子がまた不満そうに言った。「奥さんと子供がいるんじゃ、あたしと不倫していることになるんじゃないの? あたしまだ高校生だよ。不倫なんてする歳じゃないよ」

「大丈夫だよ」昇は元気づけようとして言った。「そんなに堅苦しく考えなくてさ。兎に角ゲンちゃんは夏目さんには手は出さない筈だし、ケッコンって言ったって所詮はゲームの中の話だもん。深刻に考える必要、ないない」

「そうかなあ」

「夏目さんは、このゲームでは重要な役割を担っているんだから、抜けられると困るよ」幸男が言った。「頼むから、この夏だけはおれたちに我慢して付き合ってくれよ」

 幸男にそう言われて、最初に承諾した時のことを思い出したのか、美智子は真顔になって、

「うん。分かったわ」

 と答えた。

「――で」と昇は幸男に訊いた。「これからは、どういう体制で行くんですかい? 親分?」

「アバスとカイムは対立する。こういう構図を作る」幸男は即座に答えた。「アバスとカイムは意見が合うと困る。そこで夏目さんが重要になって来る訳だよ」

「あたしは具体的に何をすればいいワケ?」

 美智子が問うた。

「夏目さんは、基本的に自分のしたいように過ごし、主張したいことを主張して貰えばいいと思う」

 幸男は考えながら言った。

「好きに行動して構わない訳?」

「うん、まあそうだ。で、アバスとカイムの間のバランスを崩して欲しい。そこから隙ができると思う」

「難しい役回りね」美智子はちょっと眉根を寄せて言った。「そんな難しいこと、あたしにできるかな」

「できるさ。例えば、新しいバスローブが欲しいとするだろ? そうしたら、そのデザインについて、アバスに相談するか、カイムに相談するか、でまた微妙に王宮内の空気が変わって来る」

 幸男は身ぶり手ぶりを交えて説明した。

「ふうん。そんなことでいいの?」

「そうさ。思い付くままに行動してくれたらいいんだ。自由にやって欲しい。アバスにもカイムにも、今では派閥ができている。小競り合いも起きているみたいだから、ほんのちょっとしたことでも空気が乱れるだろう。そうしたら、野中のバアグスが王に注進に及ぶ、と」

「――つまり、そうすると、おれたちの均衡を重要視しているゲンちゃんは動揺する、という訳だな?」

 健司が訊ねた。幸男は頷いた。

「そう。おれたちは、できるだけ源田を精神的に追い詰めるようにしなくちゃいけない。できることなら、タジューク王を病気になるまで追い込んで、源田にはもう二度と『キングダムズ』で遊ぼう、なんて気を起こさないように教訓を与えなくちゃいけない」

「だけど、何か引っかかるんだよなあ」

 美智子が呟いた。

「なに?」

「あの源田…先生だけど、あたしと会う時にも、ちっとも結婚する、っていう風な雰囲気じゃなかったの。渋々やるんだ、って感じで」

「あー」伸治が言った。「おれたちがさんざ言っても首を縦に振らなかったしなあ…」

「どうしてなんだろうね? 若い女と結婚できるとなりゃ、普通は嬉しいだろうに」

 健司も応じた。幸男は、

「そこだよ」と言う。「そこが源田の精神的な問題と関連しているんじゃないか?」

「セーシンテキな問題、か」昇は頭の後ろで手を組んで言った。「ま、何だか知らんけど、おれはあの村での生活、飽き飽きしてきたぜ」

「もうちょっとだ」幸男は言った。「もうちょっと辛抱してくれ。そうすればきっと召し上げられるから」


 あああ、と昇は数学Ⅱの夏の宿題を前に欠伸をした。例年、昇の家では夏休みになるとお盆休みに二泊か三泊の予定で旅行に行く慣習があった。昇の両親は北海道の出身なので、滅多に実家へは帰れないのだ。旅行と言っても、パリとかローマではない、ごく近場の箱根や日光に自家用車の日産シルフィで出掛けて行って、そこそこのホテルなり旅館なりに投宿して、お盆休みのことでどこもごみごみ混み合っている観光地を一巡りしてからまた渋滞が続く高速道路を辿って戻って来るだけの話なのだが、昇にとってはそれでも割といい気晴らしになった。しかし、今年はちょっと話が違う。由梨絵はバイト代を溜めて彼氏とグアムへ行ってしまい、今ごろ海岸でいちゃついていることだろう。一方の昇は受験の前哨戦の前線で戦っている、という訳だ。ま、そのお陰でスビタアを好きに動かせるから文句はないんだけど。

 カネ持ちの健司や伸治の家でも、どら息子の受験勉強を気にして、今年はどこへも行かないらしい。

 全く、グアムなんかへ行くくらいならさっさと自分のパソコンを買ってくれよ、と昇は言いたかった。

 しかし、好きにバイトはできるし、クルマの運転免許も取れるし、夏休みは長くて長期間バックパッカーするヤツもいるらしいし、大学生って自由でいいよなあ。

 おれも少し頑張って、再来年には就職活動でヒイヒイ言ってる筈の由梨絵を尻目に掛けて思い切り遊んで見たいもんだ。

 それにしても、と昇は思う。一体何でゲンちゃん、「キングダムズ」みたいなゲームにハマったんだろうなあ。魔が差した、ってヤツなのかなあ。おれにはあのゲームの面白さってやつがちっとも伝わって来ない。尤も、王さまとペットでは大分立場に違いがあるんだけどさ。

 でも、もしおれが面と向かってゲンちゃんに、

「何でセンセー、『キングダムズ』にハマったんですかあ?」

 なんて訊いても、きっとゲンちゃんは後ろめたそうな表情をして黙り込むのだろう。昇には何となくその表情が想像できた。一学期、伸治に付き合って職員室へ行ったときにみたゲンちゃんのどことなく疾しげな目付き。あんな顔付きをしそうな気がする。

 ゲンちゃん、家ではどんなオヤジをやってんのかなあ。

 おっとっと、宿題宿題。

 昇は時計を見た。まだ午後三時過ぎだ。これから夏期講習の復習をやって、それから英語のリーダーの宿題にも取りかからないといけない。本当はやりたくないのだが、再来年夏目さんとか、あの花村さんとか園田さんなんかと同じ大学に合格したければ、やるしかないのだ。


 午後九時になった。夏目美智子は教科書を閉じ、約束通り、「キングダムズ」にログ・インした。ラミア女王は広い寝室に寝ていた。ベッドはもちろん天蓋付き、部屋にはテーブルと椅子が二脚あり、どうやらここで食事も取ることになりそうだ。部屋の隅にはエスニックな感じの大きな石の彫刻が二体立っている。どうやら少数部族のどれかから献上されて来たものらしい。

 ベルを鳴らすと、すぐにラビイが姿を現した。

「おはようございます、ラミア女王陛下」

 ラビイは恭しく挨拶した。

「おはよう。お腹が減ったわ」

 ラミアの体力ゲージは大分下まで下がっている。

「いま、ご朝食を運ばせますので」

 ラビイが下がると、間もなく端女が三、四名連なって食事を運んで来た。一人はコーヒーのポットとカップを、もう一人はパンの皿を、いま一人はスープの皿を、最後の一人は果物を盛った皿をテーブルに置き、一揖して去って行った。

 ラミアが食事をしていると、廊下から小型のイヌが一匹とネコが二匹入って来た。ラミアは王の言い付け通り頭を撫でてやったが、果物はやらなかった。

 食事が済んでしまうと、後はすることが何もなかった。ラミアは仕方なく、寝室を出て、隣の「夫」となったタジューク王の寝室を過ぎ、王宮を一巡りしていると思われる長い回廊に出て、市街地の様子を見ながらゆっくりと歩いた。市街の大通りは自動車で満ちており、活気はあった。しかし、高層建築は数えるばかりで、大体の建物は四階か五階建てのモルタルのビルディングであり、中にはテントも見えた。この国は、発展途上国なんだわ、とラミアは思った。

 回廊を一巡りしてしまうと、ラミアは王宮の中を見て歩くことにした。迷ってしまったら、通りすがりの侍従や端者に道を訊けばよい。ラミアは両側に幕の下りた部屋が並ぶ長く薄暗い廊下を過ぎ、広間を二つ横切り、角を五つ曲がり、小階段を三つ下り、ついに中庭を見下ろすヴェランダに出た。そこに至るまでに、ラミアは十一頭のイヌと八匹のネコ、それに十数名の大臣や侍従とすれ違った。大臣には公務のことを何か言われるかも知れないと思ったが、今のところ何もなく、皆ぺこぺことお辞儀をするばかりだった。ラミアが辿り着いたヴェランダには木立ちが幾つかあり、芝生が敷かれ、居心地の良さそうな東屋には椅子とテーブルがあった。立派な噴水まで設えてある。

 この国の富は王宮に集中しているのではないかしら?

 ラミアはふとそう思った。オビータとかいう先王陛下の支持率は八十%を超えていたと言うけれども、所詮は自分の懐を肥やすために人民をこき使っただけではないのかしら?

 そう思うとラミアは正義心を留めることができず、まずタジューク王に会おうと思った。

 ラミアがヴェランダを離れて王の執務室へ向かっていると、折よくバアグスが通り掛かった。黒人の侍従に何やら指示を出しているが、ラミアの姿を認めると足を止めて挨拶した。

「お早うございます、女王陛下」

「お早う、バアグス。――国王陛下はどちら?」

「陛下は現在、祭壇室におります」

「祭壇室?」

「はい。何でも、オビータ先王陛下と、先ごろ亡くなったイヌのケルプの霊を慰撫したい、と仰せになりまして」

「わたし、国王陛下に会いたいの。案内して」

「はい。承知いたしました」

 バアグスは侍従を振り返ってみて、

「では、ビハイリ大臣にはそのように伝えるように」

 と命じると、ラミアに向き直り、

「こちらへ」

 と言って先に立って歩き出した。

「ねえ、バアグス」

 ラミアはバアグスの背中に向かって問うた。

「何でしょう、女王陛下?」

「失礼だけど、あなたは、この仕事で月幾ら報酬を貰っているの?」

「先ごろ昇給して頂きまして、今は二千八百ペカーリ頂いております」

「この国の普通の国民の平均所得はどのくらいかしら?」

「さあ…」バアグスは曖昧な返事をした。「そういうことでしたら、ルイン内務相にお訊きになるのがいいでしょう」

「分かった、そうするわ」

「こちらです」

 バアグスがラミアを案内したのは、執務室に行く手前にある採光の良い小部屋だった。

 ラミアが中を覗くと、なるほど、中には立派な祭壇が設けてある。

 その前に、タジューク王は跪き、手を胸の前で組み、深く頭を垂れて何ごとかぶつぶつ呟いていた。

 その様子は、どことなく認知症に罹った老人の姿を彷彿とさせ、ラミアは少し背筋が寒くなった。

 が、思い切って、

「タジューク王陛下」

 と呼び掛けると、王はのろのろと顔を上げてこちらを見た。

「――ああ、ああ、ラミアか」

 タジューク王はやっと気付いたように言った。

「タジューク王、ご公務はこなさなくて宜しいのですの? 皆大臣任せですと、いつか国はばらばらになってしまいますよ」

「ああ、――仕事はこれから、執務室で行う。教育問題について、これからカイムと会うところだ」

「わたくしは、何もしなくてよろしいんですの?」

「うむ、ラミアは好きに過ごしていてくれ。何をしても構わん。そら、中庭に行けば美しい噴水が見られるぞ。先代の国王が造営なさった立派な噴水だ」

「先ほど拝見いたしました」ラミアは事務的な調子で言葉を綴る。「わたくしも、ご公務にご一緒したいですわ。構いませんか、陛下?」

 すると、タジューク王はやや意外そうな顔をした。

「なに、公務に関心があるのか、ラミアは? ――ううん、まあ、同席したいと言うなら構わんが」

 タジューク王は立ち上がると、祭壇に向かってもう一度深々と一礼し、祭壇室を出た。

 王が執務席に着くと、間もなくカイムがやって来た。ラミアは王の脇に立った。ラビイが気を利かせて、背に彫り物を施した椅子を一脚運んで来たので、ラミアはそこに座った。

 タジューク王は、目の前のカイムに向かって、

「では、お前の話を聞こうか」

 と言った。カイムは、取り敢えずラミアには一瞥もくれず、

「では早速ですが」と話を切り出した。「陛下は、この国の教育問題についてどのようにお考えですか?」

 王は暫く口ひげを捻っていたが、

「わたし個人の意見では、もう少し高等教育機関の拡充が必要だろうと思っている」

 と述べた。カイムはそれを聞くとやや眉をひそめ、

「陛下、セルウィン王国の教育の現状は、危機的な状況にございますぞ」

 と言った。

「ふむ、それならこの間ナイマン大臣とも話したがな。地方の高等学校をもう少し増設し、いま首都に集中している大学を地方にも設けたい、と考えているところだ」

 しかし、カイムは首を横に振った。

「それだけでは不十分です。高等学校は少なくとも各県に一校は必要です。それよりも、小中学校を各市町村に少なくとも一校ずつ設置し、教育の基盤を固めねばなりません」

「小中学校は別に構わないと思うぞ。各地域に寺小屋があるという説明だったが」

「しかし、この国の識字率はまだ三十五%に過ぎません。これが現実の数字です。寺子屋に行けない子供もいるのです。だいたい、富が中央に集中し過ぎているのです。このままでは、いくらIT産業や地方との高速通信回線網を整備したとしても、無駄になりましょう」

「わたくしもそう思いますわ」ラミアも言った。「王宮はとても立派です。ですが、先ほど市街を拝見した限りでは、テントのようなものも見えました。わたくしは地方のことはよく存じませんが、地方の都市の市民生活はビリングよりももっとつましいものでしょうね。まず、地方に目を向けられてはいかがでしょう?」

 ラミアに意見されて、タジューク王はむっとした表情になった。ラミアはカイムに向かって、

「カイムさま、わたくしここに来た時にはよくお伺いしなかったのですが、地方はどのような状況にありますの?」

 と問うた。カイムは、

「地方は少数部族が暮らす村が点在する状況です。この国は山国ですから、交通の便の悪い地域も多うございます」

 と答えた。


 なかなか夏目さんもやるじゃないか、と伸治は思った。横から見ていた幸男も、

「結構的を射たことを言えるひとじゃないか」

 と感心したようにコメントした。

「うん、夏目さんを引き込んでよかったかも知れないね」

 伸治はそう言うと、またディスプレイに向かった。


 靖は缶ビールを飲みながら画面に向かっていた。カイムの言う通りに教育問題への予算を増額すると、その分IT産業はじめ産業全体の近代化に掛けられる予算が減ってしまう。確かに識字率の低さは問題だったが、それは国をもっと富ませてから取り上げたかった。

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