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健司の家に行くと、今日はボルボがあり、サーブはなかった。親父さんは併設のクリニックで診察中なのだろう。呼び鈴を押すと、健司の兄貴が顔を出した。早大生らしいが、何の専攻なのかは知らない。少なくとも健司の親父さんの家業を継がないのは確かだ。
「こんにちは」昇は頭を下げた。「健司くん、いますか?」
「いらっしゃい」健司の兄貴は人当たりがいい。「二階の部屋にいるよ」
昇が健司の部屋へ行くと、もう四人は集まっていて、しかも夏目さんまでいた。夏目さんはタイトフィットのTシャツ姿だった。
「よう」昇は言った。「おれが最後か。お待た」
「待ってたぜ」幸男が言った。「スビタア、なかなかよくやってるじゃないか」
「いやあ、あんなの」昇は顔の前で手を振った。「演技の内にも入りませんよ。ものも言わずただ魚食ってりゃ済む話だもん。おれの役が一番簡単ですよ」
「だけど、今後は重要な役回りになる」幸男はいつもの如く冷静だ。「ますは王宮に入らないといけないけどな」
「そこなんだよ」昇は言った。「あんなど田舎で生まれて、一体どうやって王宮に入れるっての?」
「その辺はこれから手を回す。今は王宮の中も割とごたごたしているみたいでね」
「そうそう。昨夜はゲンちゃん、起きてこなかったしさ。一体何だってんだろね?」
「それとさ」と嘉幸。「王宮の侍従の間で、派閥ができてるみたいで、扱いに困ってるんだけど。今度、タジューク王に会った時、言ってみようと思ってるんだけど」
「いや、それは言う必要はないな」と幸男。「そこは上手くすれば利用できる」
「どういうことだよ?」伸治が問うた。「おれや健司にも派閥ができるかも知れないぜ」
「そこだ」と幸男は言った。「派閥ができれば、派閥争いが公然とできるじゃないか」
「それで、あたしは一体どんな役をやればいいの?」美智子が問うた。「あたし、登録しただけで、まだ一度もアクセスしてないんだけど…」
「夏目さんは、見せだまってことだな」と幸男は言った。「ちょっと源田に近付けてみて、反応をみたい」
「反応って」美智子は中っ腹になったらしい。「どういうこと? その…源田先生に媚を売れっていうの?」
「大丈夫」幸男は言った。「そうじゃないさ。夏目さんは何もしなくていい。ただ王宮で好きに過ごしていてくれれば。これはおれの予想だけど、多分、源田は手を出さないんじゃないかな」
「どうして分かる?」
「――勘、かな」幸男は答えた。「兎も角、あと六日使って派閥作りだ。アバスとカイムも自分の派閥を作ってくれ。それから小競り合い。そうすれば、多分源田は王妃の公募に同意すると思う。国民に対しても妙に見える、とか理由を付ければ、恐らく確実に同意する。そこまで持って行くのがまず第一歩だ」
「だけど、ゲンちゃんがあれじゃあなあ」健司は言った。「全然ベッドから出ようとしないで」
「そうそう。あれじゃあ栄養失調で病気になっちゃうよ」
「タジューク王が死ねば、おれたちの目的は達せられたといっていいんじゃないか?」
幸男が微かに笑みを浮かべて言った。
「でも、それじゃあゲンちゃんの秘密って何なのか、分からないじゃん」
昇がそう言うと、
「そうだな。それは仕方がない。兎に角、おれたちの主目的は、源田が二度と『キングダムズ』なんかに入り浸りになるような気を起こさせなくすることだ」
と幸男が締め括った。
やれやれ、と思いながら昇は帰り道のペダルを漕いだ。おれとしては、ゲンちゃんが別に「キングダムズ」に入ろうが「ミクシィ」に入ろうがどうでもいいんだけどな。ただ、できればゲンちゃんの「コンプレックス」――昇が姉の由梨絵に問うと、由梨絵は「心的複合観念」だと言って教えてくれたが何のことやらよく分からない――、兎も角ゲンちゃんの心の中のコダワリを知ることができれば楽しいな、面白いな、と思っているだけだったのだ。そんな、幸男の説くように軍隊式に役割を決めてどうこう、なんてことは最初から頭になかった。まあ、昇もこの夏いっぱいが勝負どころだとは思っていたし、ブレインがなければ足並みがそろわないことも目に見えている。
おれはまあ、いいけどさ。
昇はその夜は幸男の指示通り、スビタアとしてログ・インした。時どき誰かがくれる魚を拾って食べるような生活にも慣れた。
スビタスは相変わらず、生の幸男そのままに冴えていて、スビタスの言った通り、沢沿いに鉄砲水が起こってテントが危ういところで流されるのを免れた。
それ以来、ひとは魚を捕りに行くにも、山に薪を取りに行くにもスビタスにお伺いを立てるようになった。
昇は、最初、スビタスは音を上げてボロを出すんじゃないか、と思ったが、ところがどっこい、スビタスは落ち着き払った態度で応対していた。
幸男はどうやら役者が違うらしいな、と昇は感心した。
まあ、おれは何も言わなくていいし、ただのらくらしていればいいだけだから、楽だけどさ。
健司がアバスとしてログ・インすると、近くに侍従のハリーが寄って来た。
「アバスさま、おはようございます」
「ああ、おはよう」
「何かご用はおありではありませんか?」
ははあ、これだな、とアバスは思った。そこで、
「うむ、食事がしたい」
と言うと、ハリーは金髪の頭を下げて一揖すると、
「かしこまりました」
と言って引き下がり、すぐに食事の支度をして現れた。
「今後、ご用の際はわたくしめにお申し付け下さいますよう」
とハリーは言うので、アバスは、
「うむ、ハリーよ、気の合う仲間がいるのなら集めておいてくれ」
と命じた。ハリーは、
「ははあ」
と恭しい態度で一礼し、その場を去って行った。
アバスは食事を終えると、再びハリーを呼んで片付けるよう命じ、自分はタジューク王の寝室に向かった。多分王はまだ寝ているだろうと思ったのだ。
ところが、意に反して王は起きていた。食事もきちんと摂ったらしい。
王は執務室の玉座の前で、落ち着かなげにうろうろと歩き回っていた。
「タジューク王、どうかなさいましたか」
と問うと、王は顔を上げて、
「ああ、アバスか。うむ、ケルプの具合が悪くてな」
と気遣わしげに言った。なるほど、飼い犬の体調が悪いから起きて来たのか。
アバスは、
「ケルプはシステムが作りだしたペットでしょう。そんなに憂慮なされることはないのではありませんか」
と言ったが、王は、
「それであっても生命には変わりはない。病の動物には最善の治療を施さなければな」
と聞かない。
そこへカイムがやって来た。カイムは王に向かい、
「王さま、わたくしは首都を視察いたしましたが、我が国はまず教育と交通網の整備に重点を置くべきかと存じます」
と述べた。が、王は、
「そんなことは喪が明けてからで宜しい」
と言うだけだった。
カイムはアバスと顔を見合わせた。カイムは微かに肩を竦めてみせた。
そこへラビイがやって来た。タジューク王に向かって、
「王さま、ケルプは大分具合がよろしくないようです。もう長くありません」
と言った。タジューク王は、無念そうに、
「オビータ先王の次はケルプまでいなくなるのか。寂しくなるな」
と言い、ラビイに導かれてイヌが看護を受けている部屋へ向かった。アバスとカイムも後に続いた。
イヌは点滴を打たれ、ぜいぜいと喘いでいた。アバスのみたところでは、ラビイの言う通りもう長いことはないようだ。
タジューク王はいつまでもいつまでも、そのイヌの背をさすってやっていた。
アバスが見かねて、
「王さま、執務の方はいかがなさいますか?」
と問うたが、王は、
「まず、このイヌの命がどうなるのか、それをみてからが先だ」
と言った。アバスは、カイムに、手真似で「出よう」と合図をし、先に立って歩いた。
誰もいないテラスまで来ると、アバスは椅子に腰を下ろし、カイムにも、
「座りたまえ」
と言った。カイムが座ると、アバスは、
「わたしの方は派閥ができつつあるようだ。きみの方はどうだ?」
と問うた。カイムも、
「うん、そんな徴候はこちらにもある」と認めた。「しかし、丁度明日から予備校で夏期講習が始まるし、喪が明けるまでは表立った行動は避けよう」
アバスは同意した。
「じゃ、そろそろ時間だ。また明日」
二人はログ・アウトした。
昇が伸治、健司と共に盈進予備校305号教室に入ると、既に夏目美智子の姿はあった。友だちと来ているらしく、携帯のディスプレイをみながらぺちゃくちゃとお喋りをしている。
「ちわっす、美智子ちゃん」
と健司が美智子に声を掛けると、美智子はいま気付いたように振り返り、
「あ、こんちは、中野くん」
と言った。健司は食い下がって、
「ねえ、テキストの予習、やって来た?」
と問うたが、美智子は簡単に、
「うん。ちゃんと読んで来たよ」
とだけ答え、また二人の友人とのお喋りに夢中になった。
昇たちは美智子らの後の席に掛けた。
昇は美智子の友人たちをみた。一人は髪をやや茶色に染めていて、品のいいワンピースを着ている。もう一人はニットのカットソーを着ていた。ふたりとも中々カワイいじゃん、と昇は品定めをした。
「それで、アバスとカイムはどんな具合よ?」
昇は問うた。健司は首を振り、
「まだまだ」と答えた。「まだ服喪の期間だから、表立って行動はできない。まだ計画だけ」
伸治も、
「飼い犬が死に掛けてることで、ゲンちゃんにもようやくエンジンが掛かったみたいでさ。まずここからスタートだよ」
と言った。
講義中、昇は頻りに前の席に座った女子三人を見遣ったが、三人とも確り者らしく、講師の言葉や板書をノートに取るのに余念がない。
昇も、折角おカネを出して貰ったんだし、と思って、昇にしては真面目に文法の講義を聴き、ノートを取った。やはり学校では教えて貰えないような、特殊な用法やちょっとひねった使い方を教えてくれる。
これが身になればいいんだけどね。
昇はそう思う。恋も受験も同時に成就すればどんなにいいことか。
英文法の次は国語の講義だった。健司と伸治は数学の講義を聴きに行くので、ここで一旦別れる。
昇は、思い切って国語の時間は、美智子の隣の空席に移動してみようか、と考えてみたが、すぐにその考えは捨てた。ここは徐々に近付くのが吉だろう、と昇は思ったのだ。
昼になった。
夏期講習はあと午後の一講義、英語のリーダーだけで終わる。
昇は、予備校内の食堂で昼飯を一緒に取ろうと健司や伸治と話していたが、ついでに夏目さんたちも誘ってみることにした。
昇が、
「夏目さんたち、昼はどこで食べるの?」
と訊くと、
「えー、まだ決めてないんだけど…」
と言うので、
「じゃあ、おれたちと一緒にここの学食で食わない?」
と思い切って誘ってみた。一瞬、断られるんじゃないか、と思ったが、案外素直に、
「いいよ」と返事が返って来た。残りの二人にも、「ね、いいよね?」と訊き、了解を得ている。
待ち合わせ場所の学食前に行くと、健司と伸治はもう待っていた。昇が美智子ら三人を引き連れて行くと、意外そうな顔をして見せる。昇は鼻高々だ。
六人はほぼ満席に近い学食の中でやっと隅に席を見付け、各自食券を買って定食を取った。
「ねー、安岡先生の講義、真奈美が言ってた通りやっぱり学校の先生とは違うねー」
「でしょー? 聴いてると、来年きっと受かりそうな気分にさせてくれるんだよ」
「あたし、国語の偏差値を絶対70代に持って行きたいんだけどなあ」
などと食べながら盛んに喋り合っている女の子たちを前に、昇たちは話に参加する隙も見つからない状態だったが、昇は、ちょっと沈黙が訪れたのを機に、
「そのー、皆さん桜台の英語科なんですか?
と訊ねた。すると、美智子が三人を代表して、
「そうなの。クラスも一緒。学校も一緒のとこに行きたいねー、って話してんだけど」
と言った。昇は、返事が来たのを幸い、
「皆さん、お名前はなんておっしゃるんですか?」
と問うた。美智子は、やや無愛想に、
「こっちが園田清子、こっちが花村真奈美」
と答えた。美智子以外の二人は箸を止めて昇たちをみている。昇は、調子に乗って、
「おれたちは――」
と自分たち三人を紹介した。が、三人は余り関心のなさそうな目で昇たちをみている。昇は、沈黙が降りるのが怖くて、
「皆さんは、どの辺の大学を狙ってるんですか?」
と問うた。美智子は、今夜のおかずでも言うように、
「早稲田の英文学か、慶應の英米文学科か、上智の外国語学部英語学科」
としれっとして答えた。昇は出鼻をくじかれたが、
「おれたちも、帝大系の医学部とか、上智の理工とか狙ってんですよー」
と話を合わせた。健司はそんな昇に、
「お前は文系だろ。それに、日大の経済がどうのとか言ってたくせに」
とツッコミを入れた。昇は、
「あれ、おれだって最近は確りやってんだから。せめて早慶の経済辺りは行きたいよね」
と言い返し、ハンバーグを一口食べた。花村真奈美と呼ばれた少女は、
「帝大系の医学部って、どの辺ですか?」
と健司に問うた。
「そうだねー、まず東大はムリがありすぎるからー」健司はスープのスプーンを口に運びながら言う。「東北大か名大辺りならー」
園田清子も、
「医学部って、何科を専門にするつもりなんですか?」
と健司に訊ねる。昇は面白くなかった。きっと夏目美智子が、健司は医者の息子で跡取りだと教えたのに違いない。話題を変えようと思っていたところ、伸治が、
「こんな席でまで受験の話なんかすると堅苦しいから、もっと別の話をしようぜ」と言った。「皆さん、どんな音楽聴くんですか?」
美智子は、
「あたしはクラシックとジャズ」と素っ気なく答えた。「クラシックならプロコフィエフが好き。ジャズならニルス・ラングレンとか」
「知らねー」
昇は目をくるくる回して言った。昇としては本気で戸惑ったつもりだったのだが、意外にも美智子はその顔をみてくすくす笑い、
「脇田くんって、なんか面白いひとだね」
と言った。昇は照れ隠しに、
「そうすかー?」
と答えたが、内心は非常に嬉しかったのである。
「あたしはお兄ちゃんの影響で、古い洋楽ロックを聴くの」
と園田清子は言った。伸治は、
「おっ、気が合いそう。おれもビートルズとかキンクスとか好きなんだよねー」
と言ったが、清子は、
「うーん、あたしはそこまで古くならないかな。キンクスは『ロウ・バジェット』くらいなら知ってるけど。ブリティッシュ系なら、T・レックスとかチューダー・ロッジっていうのとか」
と言い、伸治はうな垂れて、
「知んないっす」
と答えた。そこで美智子が、
「ねえ、『キングダムズ』でのあたしの出番、まだなの?」
と訊いた。健司は、
「もうちょい、もうちょい待ってね。ゲンちゃん、やっと気を取り戻したみたいだし、きっと説得するから」
と頻りに美智子をなだめた。
真奈美は時計をみて、
「そろそろ時間だね。行こうか」
と言った。六人は席を立った。
午後の国語の時間が終わると、予備校の入り口で、美智子は健司に、
「じゃあ、また明日ね中野くん」
と挨拶したが、思い出したように昇に向かって、
「また明日」
と笑いながら手を振った。昇は戸惑ったのと嬉しいので混乱したが、
「お疲れ様っす」
と言って手を振り返した。
夏期講習前期日程の初日は、そんな具合で過ぎた。
家に帰ってから、昇は自室で夏期講習のテキストとノートを前に復習しようと思ったが、美智子のことが頭を離れず、結局上の空で時間を過ごすことになった。
幸男の指示通り、スビタアとしてログ・インはしたが、何か食べに行く他はほぼ寝ていた。
翌日も昇は美智子と話したが、美智子の方では意識しているのか、何とも考えていないのか、昇にはどうにも理解のできぬ態度を取った。
その翌日も同様で、そんな感じで前期日程は終わりの日を迎えた。
「どう? 予備校の夏期講習で、実力は付きそうな感じ何の?」
と初子が訊ねたが、昇は、
「そうねー」
と答えただけだった。頭の中は夏目美智子で一杯だった。
そのうち一緒に映画でも行かない?
一緒にお茶しない?
美智子と話しているとそんなフレーズが繰り返し口元に上って来るのだが、美智子の隣にはいつもと言っていいほど必ず真奈美と清子の姿があった。真奈美も清子もなかなか可愛いじゃん、とは思うのだったが、やはり美智子から気を逸らすことはできなかった。
あーあ、二人きりになれたらなー。
昇は予備校のテキストを前にして、せめて後期日程には何とかチャンスを作ろう、いや作りたい、と願うのだった。
タジューク王はケルプの死後、再び執務室で王杖を取り、執政するようになっていた。
靖の心の中からはオビータを失った衝撃は消えていなかったが、取り敢えず前向きに政治に取り組まなければならないことは分かっていた。それに、妻子が旅行でいなくなってから、独り暮らしの気楽さというものを改めて認識し、それもまた追い風になっていた。洗濯は面倒だが、食事は外食でもいいし弁当を買って来てもいいし、どうにでもなる。
靖は午前中を読書の時間に宛て、午後は夏期の補習授業などで時おり学校に出なければならなかったが、夕方からは身体が空いたので、午後九時から十一時までの間、自分の王国を統治していた。
そして、やっと服喪が明けた時、早速問題が待っていた。
タジューク王がトブリ族の首長と会談している時、侍従頭のバアグスが蒼い顔でやって来たのだった。バアグスは足早に執務室に入ると、来客がいることに気づき躊躇したが、タジューク王は膝の上に乗せたネコの背を撫でながら、
「バアグス、どうした?」
と訊ねた。バアグスは、
「そ、それが…」
と言ったが、やはり来客が気に掛かるらしく、そのまま佇立している。
「構わぬ、話せ」
とタジューク王はバアグスに命じた。バアグスはまだ躊躇う様子だったが、
「アバスさまとカイムさまが…」
と言い差し、また黙り込む。タジューク王は苛立たしそうに王杖を床に突くと、
「ええい、何でもよいわ。申せ」
と急かしたので、やっとバアグスも口を開き、
「実は、アバスさまとカイムさまが口論をなさっておいでなのです」
と答えた。タジューク王は眉を上げた。
「なに? 口論だと?」
「はい。左様にございます」
「なにが原因か?」
「それが…どちらが次代の王権を握る者として相応しいか、どちらが王として適任か、ということでございまして…」
「ふうむ」タジューク王は唸ったが、すぐに、「おい、バアグス、二人をここに連れて参れ」と命じた。
バアグスは、
「は、はい…、承知いたしました」
と言うと、くるりと踵を返し、執務室を出て行った。タジューク王は、目の前で目を丸くしているトブリ族の老人に、
「済まぬが、お前は控え室でしばらく待つがいい。おい、ラビイ」
と言い、ラビイを呼んで連れて行かせた。
間もなく廊下の奥からバアグスに連れられてアバスとカイムがやって来た。二人とも、頻りに相手に向かって自己主張をしている。
「わたしの方が年長者だし、手勢も多い。政策にしてもわたしの方が多角的なものの見方ができる。わたしこそ次代の王に相応しい」
とカイムがいう。アバスはアバスで、
「いいや、臣民に人気が高いのはこのわたしの方だ。このビリングだけでもわたしの方が支持率が高い。あなたのものの見方は確かに多面的かも知れないが、考えの幅が狭い。今は何より都市部でIT産業に力を注ぐべきだという時期に来ているのに、あなたは見当外れのことばかり言っている」
と主張する。それに対してカイムは、
「根本の教育をないがしろにして産業革命もなにもあったものではない。今は是非とも地方の小中学校を整備し、全国で八校しかない高等学校を少なくとも県に二校は建設し、高等教育機関を整備するのが急務だ。そういった土台を確り作り上げてこそ、我が国は先進国に近付ける」
と言った。バアグスは、執務室に入ってからも口論を止めない二人を振り返ってから、タジューク王に、
「この通りなのでございます」
と困惑顔で訴えた。タジューク王は、暫く顎の下に手を当てて二人の様子をみていたが、やがて、
「止めい、二人とも」
と命じた。その王の一言で、アバスとカイムはようやく黙った。
「お前たちは、一体なにを争っているのだ?」
タジューク王の問いに、アバスは、
「どちらが王としての資質に恵まれているか、ということです」
と答えた。
「ふうむ」とタジューク王は言った。「しかし、それは無駄な争いというものだ。わたしが死んだら、選挙投票を行って決めればよい話ではないか」
バアグスはだが、難しい顔で首を振った。
「ことはそう簡単ではないのです。お二人とも、派閥をお作りになられていまして、鍔競合いが起きるような始末なのです」
タジューク王はそれを聞くと初めて難しい顔をして、
「派閥争いか。それはまた厄介なことだな」
と感想を漏らした。
靖は缶ビールを飲みながらトブリ族の首長から、村から一番近くの街まで続く山越えの舗装道路を建設して欲しい、との陳情を聞いていたのだが、バアグスが血相を変えて入って来たので戸惑った。その上、アバスとカイムの口論を聞くと気が滅入った。
靖も、宮殿内の大臣にかしずく侍従たちが派閥を作っていることは知っていたが、それがまさかアバスとカイムにまで波及していようとは思いもしないことだった。
一体、どうするか。
ここは早目に後継者を決めてしまった方が得策だろうか。しかし、余り早まったことをすると、暗殺騒ぎなどにまで発展しかねない。
取り敢えずアバスとカイムの仲を取り持つしかなかろう。
「二人とも」とタジューク王は話しかけた。「この王宮内で争いごとをするのは止めてくれ。しかも喪が明けたばかりではないか。もっと穏便に話し合いで解決を付けて欲しいのだ。わたしにはまだまだ先がある。二人とも、もっと気を楽に持ち、仲良くすることはできないのか? 大体、二人ともこの王宮に入ったばかりではないか。お互いのことをまだよく知らないのに派閥など拵えるなど、愚の極みだ。どうかことを穏便に済ませてくれ」
PCに向かっていた伸治は、
「どうやらおれの出番らしいな」
と呟いた。脇から覗き込んでいた幸男は、
「うまく説得できればいいがな」
と言った。
カイムが口を開いた。
「陛下、わたしたちがこうして口論をしなければならない理由の一つには、陛下のこともあるのです」
タジューク王は目を剥いた。
「わたしのことが? なぜだね?」
「陛下は王妃を娶られて正式のお世継ぎを儲けようとせず、不自然な手段でご自分の後継者をお決めになろうとしておいでです。こんなやり方では、臣民の中に心から納得してわたしたちのどちらかを後継者として喜んで認める者がおりましょうか? 恐らく一人もいまいと思います。やはりここは、形だけでも構いませんから、お妃さまをお迎えになられますよう。よしんばお世継ぎに恵まれず、我われのどちらかが王位を引き継ぐことになったとしても、お妃さまがお出でになられるのなら下々の者を納得させることができると思うのです。陛下はいかがお考えになりますか?」
カイムの問いに、タジューク王は暫し黙した。アバスも、
「臣民の納得しない王を戴いた国は不安定になりますぞ。どうかお考えになられますよう」
と訴えた。
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