L.

 L.

 伸治の手元を脇からみていた幸男は、

「そろそろ、スビタスを動かず時が来たみたいだな」

 と言った。伸治は幸男をみた。

「まだ、王妃も迎えていないのに、いいのか?」

 と伸治が問うと、

「早ければ早いほどいいのさ」

 と答えた。そして、伸治の脇においた富士通のノートPCに向かった。

 スビタスは起きていた。スビタアと共にじゃれ合ったり、テントの外に出たりしていた。テントの外をみると、山裾は霧に包まれていた。幸男はスビタスをテントの中に戻すと、テントの中で魚を捕る網を手入れしていた男の膝の上に乗った。それをみた伸治は、

「そうやるの、かなり抵抗感ない?」

 と問うたが、幸男は、

「最初だけだったよ」と言った。「ほら、しっかりカイムに目を付けておけよ」

 スビタスが膝に乗ると、男は、

「おう、お前は魚が欲しいのか?」

 と問うた。するとスビタスは、

「いいえ、今は空腹ではありませんから」

 と答えた。それを聞いた男は吃驚したようだった。

「何だお前さん、話せるのか。ちっとも知らなかった。一体どういうことだね、こりゃ?」

 と驚きの声を上げる。スビタスは、

「わたしは最初は喋れませんでしたが、少しずつ言葉を覚えて話せるようになりました」

 と答えた。男は暫くしげしげとスビタスを観察していたが、

「お前、人間かね?」

 と訊ねた。スビタスは黙って首を振った。

「こりゃあ驚きだ。コンピュータのネコが喋るなんて、初めてだ」

 と男はいうと、すぐにテントの外に出て行った。

「おい、おい」

 とひとを呼ぶ声がした。間もなく男は家族を連れて戻って来た。

「な、このスビタスというネコは喋れるぞ。人間の言葉を習得したと言っている」

「スビタス、スビタス」

 と女がしゃがんでスビタスに手を差し伸べた。スビタスは、

「この分だと、明日は雨になりそうですね。この所日照り続きでしたからちょうどいいかも知れません」

 と言った。すると皆は更に驚き、

「一体どうやって学んだのだ?」

 と問う。スビタスは、

「わたしは言葉が話せる百万匹に一匹のネコ」と言った。「わたしの他に、言葉ができるネコはこの世にはいません」

「そりゃあ、そうだ」

「おい、親父を呼んで来い」

 親父とはこのタジキ族の小さな村の村長である。

「一体どうして今まで黙っていたのだ?」

 スビタスは、

「言葉の体系を学ぶのに、時間が掛かりました」

 と答える。女は頻りにスビタスの背を撫でた。スビタスは背を丸めた。

「じゃあ、こっちのスビタアはどうだい?」

 と一人の男が、籠で丸くなっていたスビタアのところへ行き、

「おい、起きろ、スビタア」

 と声を掛けたが、スビタアは頭を上げて男をみただけで、何も言わなかった。

「そう言えばスビタアはニャアとも鳴いたことがないな。愛想のないネコだ」

 スビタスは、

「スビタアは喋れなく、鳴けもしないネコです」と代わって答えた。「しかし、わたしにはスビタアの気持ちや気分はよく分かります」

「そりゃ、スビタスとスビタアは兄弟ネコだからな」

「しかし、なぜスビタスだけ話せるようになったのかな?」

 皆が口々に言ううちに、呼びにやられた村長が戻って来た。

「何だって?」と村長は言った。「スビタスが話すようになったって?」

「そうなんです、村長。スビタスが急に話すようになって…」

 村長はスビタスの前にしゃがみ込んだ。

「ここは何という村か分かるか、スビタス?」

「リンガ県のタジキ村でしょう」

「今の国王陛下のお名前は?」

「タジューク王さまですね」

 皆は口々にため息を漏らした。

「こりゃあ、賢いネコだ」

「こんな田舎においとくには勿体ないね」

「一体、どうやって言葉を覚えたのかね」

「きっと、何とも鳴かないスビタアの分も言葉を覚えたんだよ」

「しかし、こりゃ奇跡に近いぞ」

「見世物にできるかも知れない」

「ばか、バチが当たるぞ」

「王宮ではイヌやネコを大事にしていると言うではないか。機会があったら、王宮に入れたいものだな」

「誰かの悪戯じゃないか?」

「いや、こんな手の込んだ悪戯をするやつはいないよ」

「しかし、これまで飼った電子ペットは、どれも鼻を鳴らすか鳴くか吠えるかしかしなかったものだが…」

「情報技術は進歩の一途だからな。こんなペットを生み出せるほどに進歩したのかも知れないぞ」


「そっちは順調のようだな」伸治は幸男をみながら言った。「みんなビックリしているじゃないか」

「ああ。他のユーザからはおれが人間かどうか分からない。システムの産んだネコが言葉を話していると思っているんだ」

「バレないかな?」

「大丈夫だと思う」幸男は考え深げな顔になって言った。「これまで、人語を喋るネコが『キングダムズ』に現れたことはない、と思う。愛玩動物を選択するやつは、みんな英語ができない」

「でも、もしもってこともあるぜ」

「その時はその時だ。あくまでも、自分はコンピュータのネコだと思わせておけばいい」

「コンピュータ・システムが作った動物は休まないぜ」

「ネコはよく寝る習性があるから、問題はないさ」

「ま、一番大事なのはゲンちゃんがどう思うか、だよな」伸治は言った。「ゲンちゃんをうまく騙せればそれでいい」

「こっちのことは心配なく。――カイムの方はどうなってる?」

「今、火葬が済んで、拾い上げた遺灰を運ばせたところだ」

「服喪の期間が明けてからでいいから、アバスと対立する構図を作ってくれ。そこからゲンちゃんに揺さぶりを掛ける」

「OK」


 タジューク王は手ずから灰をリンダン川に運ぶ、と言い張ってきかなかった。ラビイはアバスとカイムに向かって、

「国王陛下に居城をお留守にされますと、国政の遂行に重大な支障をきたします。どうか、説得なさって下さい」

 と依頼した。成り行きを見守っていた二人は、それに同意した。カイムは、

「タジューク王陛下、遺灰は臣下の者が確実に川に流しますから、お任せされるのが一番でしょう」

 と説いて聞かせた。タジューク王は、

「しかし、わたしは先王陛下と最後まで共にいたいのだ」

 と言い張る。アバスも、

「今ジャンニ・ビハールをお留守にしますと、政治に差し障りがあります。例えば隣国の軍勢が突然攻め込んで来たとしたらどうします?」

 と止めた。

 健司は、ゲンちゃん正気を失ってなければいいんだけど、と思った。思いつつ、

「陛下のお気持ちは痛いほどよく分かります。しかし、今はお城に戻られる時です。どうか気を確かにお持ち下さい」

 と言って聞かせた。それを聞くと、タジューク王は名残惜しそうに遺灰の入った壺を胸に抱きかかえたまま、泣き崩れた。

 アバスとカイムはそんなタジューク王を、冷静な目付きで見守っていた。


 靖はティッシュ・ペーパーを重ねて取り、熱い目頭を拭い、鼻をかんだ。

 おれは先人を喪った――という思いで胸が一杯になった。

 こんな気持ちになったのは生まれて初めてだった。大学の指導教官だった教授が亡くなった時も、こんなに悲しくならなかった。いや、自分の両親を失った時でさえ、共に長患いの後だったこともあってか、こんなに涙は出なかった。

 靖のことは、もう真理子も真紀も相手にしなかった。夏休み中も、母と娘で二週間バリ島へ行くと言って旅券を取っていた。

「あなたはどうする?」

 一応真理子は靖にもそう訊いて来た。靖は、即座に、行かない、と答えていた。バリへなど行ったら、「キングダムズ」にログ・インできなくなる。

靖は旅行には関心なかったので、やりたい放題にさせていた。自分は時おり学校へ出なければならないが、後の時間は自由になる。

 どうしようか、と靖は思った。夏休み中は、もっと「キングダムズ」へのログ・イン時間を増やそうか。

 いや、それはまずい。二学期になってもこの習慣が身に付いてしまうと、また学校でもログ・インをしたくなるに決まっている。

 それに、靖は視力に問題があったので、目に余り負担を掛けたくなかった。

 しかし、これは打撃だった。オビータ先王には、せめてあとひと月くらいは持って欲しかった。

 靖は深夜の書斎で、ひとりただ涙に暮れていた。


 タジューク王は、暫く壺をひしと抱き締めていたが、やがて臣下の者に手渡した。

「どうか、丁重に流して来てくれ」

 タジューク王はそれだけ言うと、アバスとカイムを伴い、霊柩車に戻った。車内でカイムは、

「先王さまはご立派な王さまだったようですね。陛下も、オビータ先王さまのお取りになった路線を継承なされば、きっとうまくこの国を統治できます」

 と勇気づけた。タジューク王は、短く、

「有り難う」

 とだけ答え、またハンカチを目に当てた。

 

「生徒に勇気づけられる教師があるかい。全く馬鹿馬鹿しい。いい加減にしてくれよ」

 伸治が言うと、幸男は笑った。伸治の知る限り、幸男のみせる初めての笑顔だった。

「で、幸男先生、これからどうすれば?」

「とりあえず一週間程度は、服喪の期間なので大人しくしていていいよ。だけど、それが終わったらアバスと一戦交えてくれ」

「了解。健司にも伝えとく」

 霊柩車は王宮に着いた。到着するとすぐに、タジューク王は、

「では、わたしはこれで休む」

 と言い、がっくりと肩を落として寝室に向かうのだった。

「源田、ログ・アウトするぜ。今日はここまでだな」

「夏休み中、ゲンちゃんどの程度の頻度でログ・インするかな」

「何とも言えんな。とりあえず様子をみるしかない。試しに昼間にログ・インしてみて、いなければ夜に入ることだ」

 じゃあ、PCさんきゅ、と言い残して、幸男は去って行った。


 翌日は大聖寺学院第一学期の終業式があった。校長の訓話は、いつもホームルームで聞かされる担任の矢崎の訓示を更に長ったらしくしたものと言ってよく、昇は聞いていて欠伸が出そうだった。が、隣には体育教師の下嶋がいた。下嶋はすぐに手を出すので有名だった。夏休み前に頭をはられるのも面白いものではないので、昇は欠伸を噛み殺した。

 蒸し暑い体育館の中で三十分も話を聞かされると、今度は各自の教室に帰されて担任教師の話を聞き、成績表を渡されることになる。昇にとって大事なのは総合結果表であって、通信表はどうでもいい。大聖寺学院にも上智や慶應などから指定校推薦の枠があったが、競争率は高いし、一年のうちから相当の成績を収めていないと推薦はしてもらえない。一般入試で行った方が話が早いのだ。昇の両親の隆も初子も通信表は重視せず、一通りみて担任の所見欄のみ細かく読んで、

「あんた、授業中居眠りが多いって書いてあるわよ」

 とか、

「学校のものはもっと丁寧に扱いなさいよ」

 などと言うくらいで、後は保護者印の欄にぺたりと判を押してくれるだけだ。

「じゃあ、これで夏休みになる訳だが、水の事故などにはよく気を付けるように。また、警察からも連絡があったが、自動車やバイクの無免許運転も夏休み期間中がぐっと増えるらしく、あちこちで目を光らせているらしいからこの辺も各自良識に照らして自制すること」

 と矢崎が言って、第一学期は終わった。

「やーっと終わったぜ」

 昇が言うと、健司も、

「ああ。ついに夏休みだなあ」

 と答えた。

「明後日から夏期講習かあ」昇は俄然わくわくして来た。「何か、今年の夏はいいことがありそうなんだよねえ」

「へーえ」健司は鞄の中に苦労してプリント類を詰め込みながら言った。「おれは、受験の前哨戦にするつもりだけどね」

「おっ」昇は健司の脇腹をつついた。「帝大系の医学部を目指す男は、やっぱり違うねえ」

「まーね。せめて来学期からは、学年ひとケタ台の順位をキープできるように頑張ります」

 そこへ伸治も寄って来た。

「帰ろうぜー」

「ああ」昇は言った。「――ゲンちゃんのことはいいの? 何も作戦会議とか必要ねえ?」

「幸男は、当面の計画を立てている」伸治が言った。「まずは今は喪に服する期間だから、表立って波風を立てるな、ということだ。それが明けたら、おれと健司が軽く対立してみせる」

「どういうこと?」

 昇が問うと、健司が、

「つまり、どっちがタジューク王の後継者としてふさわしいか、ということを巡って対立する訳だ」

「うんうん」昇は頷いた。「で?」

「そこで、ゲンちゃんにも王妃の必要性を腹の底から認識させて、美智子ちゃんを引き込む」

「なるほど。夏目さんは何をするの?」

「そこまではまだ考えていないようだな」伸治が答えた。「というか、何もせず、まずはゲンちゃんの反応をみたい、というのが基本的な目的らしいぜ」

「そうか。もし子供ができちゃったら、どうするの?」

 伸治は微妙な表情をした。

「これはさー、幸男が言うことなんで、おれにもよく分かんないんだけど、多分子供はできないだろう、って言うんだよね」

「何で? だって、四十八歳の独身の王さまに、二十二歳だっけ? 別嬪さんだぜ。実生活なら援助の相手として適任だろうが」

「ところがさ、幸男は、ゲンちゃんは夏目さんには手を付けないだろう、って言うんだよね」

「何でかな?」

 健司が問うた。

「さあー。あいつもキレることは確かだけど、肚の底では何考えてるか分かんない、読み切れないところがあるからなー」

「幸男はどこ行った?」

 昇は訊ねた。伸治は、隣の机の上に腰掛けて、

「英語部の活動があるらしい。もう行っちゃったよ」

 と答えた。昇は、

「うーーん」

 と腕組みをして考えた。健司は、

「幸男って、時どき高校生に見えないことがあるんだよな」

 とぽつりと言った。昇は、即座に、

「そうだな」と同意した。「大人びてる、とでもいうのか。もしかしたらある意味でゲンちゃんよか大人かも知れないぜ」

「ま、いいじゃん」伸治が机から飛び降りた。「帰ろうぜ。マックに寄って何か腹に入れてから予備校に行こうぜ」

「よーし、行きますか」

 三人は教室を出た。靴を履き、昇は自転車を押して駅まで二人と一緒に歩いた。

 三人は駅前のマクドナルドでベーコンレタスバーガーやダブルチーズバーガーを駄弁りながら食べ、健司の持って来た煙草を吸った。今日はラークのミントスプラッシュだった。

 一頻りここにいない教師やクラスメートの評定を終えたところで、

「行くか」

 と健司が一言いい、三人は腰を上げた。

 盈進予備校までは電車で四駅ほどだ。街中にある予備校に着くと昇たちは受講証をみせてテキストを受け取った。予備校の中は、余裕のない表情をした高三生らしい生徒たちや既卒の受験生たちで一杯だった。

「おれらも来年あんなキリキリした顔してんのかねー?」

 伸治は言ったが、昇は、

「当たり前だよ。おれたちはちょっと程度のいい高校に通っているからって、それに寄り掛かり過ぎなんだよ。もうちょっと危機意識を持たなきゃ」と言いつつ、辺りを見回した。「夏目さんいねーかな」

 健司は、

「夏目さんは明日が終業式だって言ってた」

 と言った。昇は、

「なーんだ」と言ってから、「折角この辺来たんだし、ちょっと遊んで行かねー?」

 と訊いた。健司も伸治も微妙な表情をしている。

「遊ぶのはいいけど、クセになったら困るからなー」

 と健司は言った。いつもなら昇の誘いに乗る筈の伸治も、

「まったくだ。これから前期と後期、二週間ずつの夏期講習だぜ。おれは、この夏は遊ばねえことにしてるんだ」

 と言った。昇は、

「あれ、つれねーの」

 と言ったが、それも尤もだと思ったので、サブウェイでペプシでも飲んで帰ろう、という健司の提案に乗ることにした。

 健司と伸治はそれぞれの駅で降りて行った。昇は駅前においた自転車に跨って、真っ直ぐ帰った。


 その夜、健司はログ・インすると、カイムとは顔を合わさず、ハミル財務相やビハイリ産業革命相と会って話をした。二人とも、もっと隣国との交易額を増やし、内容もレア・アースやレア・メタルを増やさなければ産業の近代化は望めない、と言った。タジューク王にも繰り返し訴えているようだったが、ハミル大臣によると、タジューク王は「どこか夢見がち」で、自分一人の瞑想に耽っていることが多い、とのことだった。アバスは、タジューク王に内容を伝えることを約し、ご機嫌伺いにタジューク王を見舞った。

 タジューク王は執務室にはおらず、ラビイに問うと、まだ寝室にいる、とのことだった。

 健司は王の寝室を訪れた。タジューク王は起きていたが、

「ご気分はいかがですか?」

 と健司が訊ねても、

「うむ」

 と返事をするばかりでまともな会話にならなかった。

 こりゃーあかんわ、ゲンちゃん参っちゃってるんじゃねーの、と健司は思い、早々に寝室を後にした。


 伸治はビリング市内を視察する、と言って、運転手を使い、車に乗って市街へ出た。一見するとビリング市内は近代的な五階建てや八階建ての中規模のビルディングが多いようだったが、それでも高層建築は一つか二つで、まだテントが並ぶ区域もあった。

 まず都市開発から始めないとダメだな、とカイムは思った。

「この国の地方都市は、どんな感じだね?」

 とカイムは運転手のバラミに訊ねた。

「そうですね」バラミは答えた。「ビリングよりもビルの数は少なくて、テントはもっと多いと思います」

「そうか。――この国に大学はいくつある?」

「モーラン記念大学と、ビリング総合大学と二つございます」

「二つだけか。地方での教育はどうなってる?」

「地方ではもっか小中学校を整備中でございまして、高等学校は全国に八校あるきりです」

 教育施設の拡充にも重点的に取り組んで行かなければならないな、とカイムは思った。

「どうなさいます?」バラミが訊いた。「この都の周辺の村もご覧になりますか?」

「いや、大体のところは分かったから、今日は帰ろう」

「かしこまりました」

 カイムは城に戻ると、王の姿を探して歩いたが、タジューク王はどこにも見つからなかった。その代わり、アバスと出くわした。

「アバスどの」カイムは幸男に言われた通りの言葉づかいをした。「国王陛下はどちらに?」

「陛下は現在、お休み中だ。目覚めてはおられるが、何にも無関心らしい」

 カイムが王の寝室を見舞うと、タジューク王は寝台に寝転がってイヌの頭を撫でていた。

「タジューク王陛下」

 カイムが声を掛けると、王はカイムの方に首を向けた。

「何か?」

「今日は、何かお召し上がりになられましたか?」

「いや、先ほど果物のジュースを飲んだだけだ」

「それだけではお身体が持ちません。どうか形のあるものをお召し上がりください」

「うむ。気が向いたらな」

 こりゃー、だめだ。伸治は王の寝室を辞した。


「この雨は、長雨になる可能性があります」

 集まった村人たちの前で、スビタスは語った。

「久し振りの雨じゃないか、天の恵みだろう」

 村人の一人はそう言ったが、スビタスは首を振った。

「いいえ。降り方が激しくなって来ています。いずれ、沢に鉄砲水が起きるでしょう。沢近くのテントは移設しておいた方が得策です」

「本当かね?」

 村人たちはざわざわと話し合った。

 と、村長が一つ咳払いをした。みな静まり返った。

「まず、スビタスのいう通りにしてみようじゃないか」

 村長は言った。村人の中からは、

「どうしてこんなネコのいうことを信じるんですかい?」

「まだそんなにきつい降りにはなっておりゃせんよ」

 などとぶつぶついう声が聞こえたが、村長は、

「いや、ここはスビタスのいう通り、沢沿いのテントは張り替えよう」

 と言った。

 村人たちはぶつぶつ文句を言いながらも従った。


「そっちは順調か、幸男?」

 脇から伸治が覗き込んだ。幸男は、

「まあね」と言った。「上々、といっていいだろうね」

「こっちはそろそろログ・アウトの時間だ」

「あ、そうか。それじゃあスビタスにも休ませるか」

 と言い、ログ・アウトの画面を出した。


 侍従頭バアグスこと嘉幸は、侍従たちとの折衝に追われていた。この王宮の侍従たちには派閥があり、誰それはどの大臣に、誰それはこの大臣に、と分属していたのだった。バアグスは各大臣の命令や指示や判断を臣下に伝えようとするたびに侍従を選ばなくてはならなかった。

 これじゃあやりにくいな。

 そう思ったバアグスは王の居室を目指したが、そこには見つからなかった。代わりに向こうからアバスが来るのに出会い、幸男のいう通りの言葉遣いで、

「アバスさま、ご機嫌はいかがですか?」

 と挨拶した。

「まずまず」アバスは答えた。「タジューク王なら、寝ている」

「え? まだですか?」

「そう。何か用があるのか?」

「いや、実はですね」

 バアグスは事情を説明し、やり難くて仕方のないことを訴えたが、アバスは肩を竦め、

「わたしには何とも言えないな」と言った。「大体、タジューク王自身が腑抜けの状態だ。そういう面倒なことは、きみ自身で解決が付かないのか?」

「ちょっと無理です」バアグスは答えた。「派閥間でたまに争いもあるみたいですから」

「そうか」アバスはちょっと考えた。「そのことは、スビタスにも知らせた方がいい」

「え? あ、なるほど」

「兎に角、わたしはこれから休むところなんだ。じゃ、また」

「お休みなさい、アバスさま」


 源田靖は不機嫌だった。妻と娘は夏休みに入るとさっさと旅立ってしまい、後には靖一人が取り残された。それはまだよかったのだが、これから十五日間も家事を自分でこなさなければならない、ということに気づいて、やり切れなくなったのだ。オビータの死もこたえた。

 そんな訳で、タジューク王としてログ・インはしたものの、執政などには関心が向かず、十一時のログ・アウト時間が来るまでずっとイヌの頭を撫でてやっていた。

 しかも、そのイヌはどうやら健康状態が優れないらしく、元気がなかった。獣医に診せる必要があるかも知れなかった。

 途中、アバスやカイムが顔を見せたが、靖は寝台の外には出ずに過ごした。

 缶ビールを飲みながら、時どきクンクンと鼻を鳴らすイヌの相手をしていたのだった。

 そして、決めた通り、午後十一時になるとログ・アウトした。

 靖はその後、コンビニで買った弁当で夕食を済ませ、シャワーを浴びて寝に就いた。


 翌日、昇は朝の八時に起きた。朝食を済ませたところで、ポケットの携帯が鳴った。ディスプレイをみると、健司からだった。

「なにー?」

「おっす。起きてた? あのさ、幸男が、相談事があるからまたウチに集まろう、って。今日の午後、空いてる?」

「また集まるの?」昇は文句を言った。「そんなしょっちゅう集まっていても何もすることないだろうに」

「いや、幸男も短期決戦で行く、って言うんだ。この夏を勝負のヤマ場にしたいらしい。その点はおれも同感だな。下手に長引かせると、二学期に影響が出るしさ」

「うん、じゃあいいぜ」昇は言った。「何時よ?」

「午後三時」

「けっ」思わず口から出た。「暑い盛りじゃん。まあ、いいわ。三時にお宅に行きますんで」

 午前中、昇は久し振りにプレステでもやろうか、と考えたが、対戦相手の由梨絵がバイトでいないし、もうTVゲームにはいい加減飽き飽きしていたので、気分を変えて宿題を広げた。ゲンちゃんから渡されたばかりの英文法のワークブック。昇は小学生まではぎりぎりになるまで宿題はやらない性質だったが、中学に進んでからは早目に夏休みの宿題を済ませるようになっていた。

 昼食が済むと、

「ちょっと健司の家に行って来るから」

 と初子に伝えて、昇は自転車を漕いだ。

 いよいよ明日から夏期講習だ。明日はきっと夏目さんの近くに座ろう。

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