G.

 G.

「まあ、それはいいから」幸男が言った。「おれたちも登録したいし」

「ああ、そうだったな」健司は言うと、一旦ログ・アウトの画面を出した。「この画面から本登録できるんだよ」

 そこには「Register」というボタンがあった。健司はそれを押した。

 健司はPCデスクの隅に置いてあったクレジット・カードを取り上げ、番号を入力して行った。続いて名前や選択する人種や性別を選んで行く。人種は白人、年齢は二十四歳、とした。

「本名は非公開にした方が安全だ」

 健司は、ハンドル・ネームを「アバス」とした。ここで職業を選択する欄になり、健司は「王族」を選んだ。現在募集中の「王族」には幾つかあったが、健司は、

「どうしようかね?」

 と伸治に相談した。幸男は、

「これ、王の甥のポストが二つ募集中じゃないか。二人でここを占めたらどうだ?」

 と提案した。

「ああ、そうだな。それなら二人で協調して行動できる」

「だけど」と嘉幸が言った。「王には兄弟なんていないのに、どうして甥のポストに空きがあるんだろ?」

 健司は、

「その辺、現実とちょい違うの」と言った。「このタジューク王だって、先代の王の実際の子供じゃないぜ。ポストの公募があったから応募したんだろ」

 と説明した。

 続いて伸治が父親のものらしいカードを出したが、そこで幸男が伸治を止めた。

「待った」

「なに?」

「こうやって、続々と応募が来ると、怪しまれるんじゃないか?」

「え?」

「だからさ、応募が来たことは当然源田も知る訳だろ。そこへ来て、甥のポストに続けて二人も応募があったら、源田は怪しむかも知れん。時間を置いてから登録した方がいいよ」

「なるほど」

「ぼくはどうしたらいいかな?」

 嘉幸が訊ねた。幸男は空いているポストを一つひとつ見て行ったが、

「この、『侍従頭』のポストはどう?」

 と訊ねた。「侍従頭」のポストだと、月額二千八百円だった。

「うん、これならお金は何とかなる」

「それじゃあ、五日から十日くらい置いてから応募しよう。応募すると面接があるんだろ? それなら、ここに五人集まって、相談しながら台詞を考えられる」

 昇は、幸男の冷静さに舌を巻いた。

「じゃあ、次はおれたちだ」幸男は言った。「おれたちはネコだから、問題はなかろう。――そうか、生まれる地方も選択できるのか。それなら、首都より田舎に行った方がいいな。何かの折に中野か坂口が源田を焚き付けて、地方に行幸させるんだ。その時に接触を持たせた方がいい」

「ぎょ――ぎょうこうって、何だ?」

 伸治が問うた。

「行幸ってのは、王様が直々に地方を視察して回ることだ。いきなり首都に喋れるネコが二匹も現れるより、自然でいいだろ?」

「お前、アタマいいなあ」昇は幸男の頭を撫でて言った。「どうしてそんなに計算できるんだ?」

「多分、ガキの頃から親が計算ばかりしてるのをみて来た所為だろうな」幸男は肩を竦めて言った。「でも、計算ばかりするのも詰まらねえよ。不用意なことをして、不慮の何かが起こった方が楽しいこともあるからな」

「それは分かったから、早く登録しろよ」健司が言った。「幸男と昇はネコだったよな」

「どんなネコにする?」

 昇は「Pets」と書かれたボタンを押し、ネコを選んだ。ネコは人気があるらしく、十数種類もあった。昇はその中から、頭はアビシニアンに似て、胴はペルシャ、尻尾はアメリカン・ショートヘアに似たネコを選んだ。毛の色は水色にした。

「おい、幸男教授、これでいいか?」

 幸男は、どれでも構わない、と言うので、昇はそのネコに決めた。ペットの場合本名を登録する項目はない。年齢は一歳、性別は雄、とした。

「名前、どうしようか?」

 幸男が言うので、昇は、

「お前が喋るネコでスビタス、おれはだんまりネコのスビタア」と言った。「それでどうよ?」

「おれはいいよ、それで」

「よし。決まりだな」

「それで、どこに生まれることにする?」

 PCの前の昇はセルウィン王国の地図を出した。首都ビリングを中心に、幾つかの主要都市が並び、十ほどの地方都市が点在している。あとは山岳地帯が主だ。

 幸男はその山岳地帯の一点を指した。首都からは百五十キロほど離れている。

「ここがいい」

 昇がカーソルを合わせると、「少数民族タジキ族居住地」と出た。

「こんな田舎でいいのかよ?」

 昇は問うたが、幸男は、

「田舎だからいいのさ」

 と言った。

「よし」

 二匹はタジキ族の長老の家庭に生まれることになった。

「これでとりあえず終わりだな」

 五人は暫し言葉もなくその場でぼんやりしていた。が、昇は、健司に、

「おいアバス、何してるんだよ。ぼっとしてないでログ・インしろよ。ゲンちゃん――じゃなかった、タジューク王から面接のオファーがあるかも知れないんだぞ」

「ああ、そうだったな」健司は気を取り直したように、自分のアカウントにログ・インした。メッセージが届いている。伸治が和訳した。

「アバスさん、セルウィン王国へようこそ。わたしは現国王のタジュークです。つきましては、早速面接を行いたいと思いますので、早速王宮へどうぞ。お待ちしています」

「さあ、来たぞ」健司は舌舐めずりでもしそうな顔で言った。「ゲンちゃんとの面接だ」

 健司がログ・インすると、健司は自動車に乗せられていた。かなり大型のセダンらしい。

「セルウィン王国へようこそ、アバスさま。わたくしは運転手のバラミと申します。どうぞよろしく」

「どうも」健司は打ち込んだ。別のウインドウで開いていたスペースアルクの英和訳サイトを使い、単語や表現を打ち込みながら必死で言葉を綴っている。「平和な国に来られて、わたし、嬉しいです」

「わたくしどももお待ちしておりました。タジューク王もお待ちかねです。すぐに王宮に着きますから」

 車は首都ビリングの市街地を抜け、やがて正面に大理石で造られた壮大な城がみえて来た。

「あれがビリング城、別名ジャンニ・ビハールです」

「随分大きな城だな」

 昇が言った。が、残りの四名は固唾を飲んで成り行きを見守っている。

 バラミの運転する車は、確実な足取りで王城に着き、脇にある通路のような道に入って、尚も暫く走り、やがてガラス製のドアの前で停まった。

 バラミは車内電話の受話器を取ると、

「アバスさま、ご到着です」

 と連絡した。間もなく端女らしい男女が二、三人出て来た。一人は飲み物を入れたカット・グラスの杯を載せた銀製の盆を持っており、男が車のドアを開け、降り立とうとするアバスに、緑色の飲み物をアバスに供した。

「ど、どう操作すれば飲めるんだ?」

 健司はマウスや矢印キーを使って不器用に杯を取り、飲み干した。どうやら少々アルコールを含んでいるらしい。「酔い」のゲージが赤く灯った。

 別の女がアバスの足元に緋毛氈を敷いた。

「うわ、こんな扱い受けるの初めてだよ」

 健司は呟きながら車から降り立つ操作をした。すると、年若の女が近付いて来た。

「アバスさま、ジャンニ・ビハールへようこそお越し下さいました。わたくしはタジューク王のお傍係を務めさせて頂いております、ラビイと申します。タジューク王はアバスさまをお待ちになっております。わたくしがご案内しますわ。どうぞこちらへ」

 アバスはラビイと名乗る女の後に付いて歩き出した。城内は天井が高く、廊下も広々としていて、健司の自宅など問題にならない程に豪華だ。あちこちに美しい彫刻が施され、金銀がそれらを飾っている。窓からみえる中庭にも噴水や東屋が設けられ、木々が植わっている様は非常に美しい。

 アバスは角を幾つか曲がり、階段を一回上り、それからまた廊下を歩いた。所どころにヴェランダが設けられ、美しい庭園の様子が一望できる。

「すげえ」

 健司は矢印キーを操作してラビイの後を追いながら呟いた。

 やがて、ラビイはアバスを安楽椅子が数脚並ぶ小部屋に導いた。

「タジューク王は別室でお待ちしております。いまご到着を知らせて参りますので、どうぞお寛ぎになられて下さい」

 ラビイは言い残すと去って行った。

 アバスは不器用な動作でソファーの上に腰掛けた。ソファーの前のテーブルには葉巻の箱が載っていた。普段の健司なら遠慮なく手を伸ばすところだが、今日はとてもじゃないがそんな気になれない。

「ふひい」

 健司はため息を吐いた。やれやれ、緊張した、と言わんばかりのため息だった。

「すげえな。誰がこんな城建てたんだろう?」

 伸治が言った。

「兎に角、早くゲンちゃんに会いてえな」昇は昂奮した面持ちで言った。「どんな顔して出て来るんだろう?」

 一同が口々にそんなことを話し合っているうちに、ラビイが戻って来た。

「タジューク王がお待ちです。こちらへ」

 健司はまた不器用な動作で立ち上がった。

 今度は健司は窓際ではなく、両側に幾つかの部屋が並ぶ廊下を通過した。見回すと、どの部屋も傍係に割り当てられた部屋のようで、安楽椅子のようにみえる寝台や棚が置かれていた。中が窺えないよう、幕が降りた部屋もあった。

 そして二つ三つ角を曲がったところで、アバスは広間に出た。

 大広間といえる程の広さではない。しかし、部屋の隅々には石の彫刻が置かれ、天井からはシャンデリアが下がっている。

 その広間の奥に、色の浅黒い男が一人、深々と革のカウチ・ソファーの上に腰掛け、オットマンの上に両足を預けた姿勢で葉巻を燻らせていた。

 ラビイは、そちらを指して、

「こちらがタジューク王でございます。どうぞ、お近くのソファーにお掛け下さい」

 と言うと、部屋の入口に立って待機した。

「な、何て言うべきかな?」

 健司はすっかり頭が混乱した様子で、手元においたリーダース英和辞典をめくったりしていたが、取り敢えず、

「今日は。わたしがアバスです」

 と入力した。脇から伸治が、

「ほら、こいつのプロフィール、みて確かめてみろよ」

 と促した。健司はタジューク王の上にカーソルを合わせ、右クリックし、「プロフィール」と書かれた項目を選択した。すると、タジューク王の脇に詳しい情報が現れる。

「おい、みろよ、こいつ、本名で登録してやがるぜ」昇は喚いた。「ヤスシ・ゲンダか。間違いねえぜ」

 幸男を除く伸治や昇、嘉幸は小躍りして喜んだ。昇は、プロフィール欄の、「main log in hour」の項目に、「21:00~23:00 JST」とあるのを認めた。但し、本来の職業はなぜか非公開にしてある。

「おい、みろよ、ゲンちゃん、大体午後九時から十一時の間にログ・インしていることが多いみたいだぜ」

 すると、その時タジューク王がものを言った。

「近う寄れ」

 健司は、

「はい」

 と返事をして、ぎこちない仕草でタジューク王ことゲンちゃんの前のソファーに腰を下ろした。


 タジューク王こと源田靖は自宅のPCから「キングダムズ」に入っていた。目の前には白人の青年が立っている。アバスと名乗っており、年齢は二十四歳――靖の実年齢の半分だ。どうやら「キングダムズ」には入って間もないらしく、動作が何となくぎこちない。口数も少ないから、英語圏の人間ではないだろう。だが、本名は非公開にしており、ネットワークの向こうの生身の本人がどういう系統の人間なのかは分からない。

 タジューク王は取り敢えず、

「よく来てくれましたね。あなたのような若い方をお待ちしていました」

 と言った。すると三十秒ほど間があって、

「このような美しい都市、美しい城、来られてとても嬉しいです」

 という返事があった。タジューク王こと靖は思わず微笑んでいた。

「あなたは余り英語がお得意でないようだ。会話はゆっくりで構いません。まず、この国の概要についてお話します。それであなたがご満足なら、わたしの甥の地位に就いていただきましょう。幾つか条件もある。あなたにお訊きしたいこともある。その上で決めましょう」


 健司は焦って混乱する頭で、必死に英単語の列を編み出していた。

「わたし、この国の美しい自然、非常な平和、気に入って応募しました。この国に幾つかの宗教があることも承知しています。幾つもの少数部族があること、これも承知しています。王様の決定には率直に従うつもりでおります」

「お前さあ、もうちょっと会話何とかならない? 代わるか?」

 伸治が言ったが、健司は首を振った。

「いいよ。どうせ来年受験だから英語はいやというほど勉強しなきゃいけねえんだから。何とかやってみる」


「まず、この国のプロフィールをご覧になったと思いますが、我がセルウィン王国の人口は約五千です。産業の主幹は鉱業と農業にありますが、近年は工業とIT分野への進出にも力を入れています。観光もまた、重要な産業の一つとなりかけています。この国はイスラム教国やヒンズー教国など八カ国に囲まれていますが、目下対外関係は良好です」

ここでタジューク王はいったん言葉を切った。

「ここまでお分かりですか?」


「はい、おっしゃることよく分かるとのことです」

 健司は打ち込んだ。もっとも、分かったのは伸治と幸男が脇にいて、逐次大まかな訳を言ってくれたお陰でもある。

「おい、甥って英語で何て言うんだ?」

「nephew」

「さんきゅ」

 健司はキーボードの上で手を動かした。

「タジューク王さま、なぜ甥を必要となさいますか?」

 

「この国には後継ぎがいないのです」靖は打ち込んだ。「実は、わたしの先代の王オビータが存命なのですが、この先王は前立腺がんを患っており、先が長くありません。わたしは後を継いだばかりですが、もう若くはない。もっと若い年齢にしてもよかったのだが、実年齢で登録したのでね。それに、妃もいない。公募すれば来るかも知れないが、そのつもりは今のところない。そこで、わたしの後継ぎ候補を一人ふたり用意しておきたいのだよ。きみはまだ若い。充分に若い。だから、人民を統治する術を学べば、よい王になれると思う。この国は王国だが、専制主義国ではない。独裁主義国でもない。あくまでも政治は人民との協調の上に成り立っているということを理解して欲しい」


「理解しました。この国の人びと、とても大事。この国の人びととうまくやればきっと政治無理なく運ぶ」


「そこまでは言えない。しかし、今のところ国内に不穏な動きはないし、過去にも政権転覆などの動きが起こったという記録はない。平和な王国だ。きみにお願いしたいのは、国民に税制などの上で負担をかけずに近代化を進めて欲しいのだ。世界的なレヴェルでみれば、この国は発展途上国だ。未開の部族も多いし、なるべくこれらの部族の反感を買うことなく近代化を実現したいのだ。観光立国という手もあるが、このセルウィン王国は山国でね。国際空港はここビリングの近郊に一つあるだけだ。山を切り拓けば空港は作れるが、山岳信仰を持つ部族もいてね。中々話は複雑になるのだ。きみには、わたしの在位中、わたしの補佐役としてこの国の内情を学んで欲しい。分かったかな?」


「はい、とても深く分かったです。この国の近代化、ぜひとも成し遂げたいとわたしも思います。わたしも協力します」

 健司がそう打つと、脇から昇が、

「もうちょっと気の利いたこと言えないかね」

 と口を出した。

「言えまへん」健司は疲れた顔で言った。「これで精いっぱいでがす」


 靖はコーヒーを一口飲むと、言葉を更に続けた。

「きみの他に甥のポストがまだ一つ空いている。いずれ応募者が来るだろう。そのひとともうまくやってくれ。それから、後でオビータ先王にも一回挨拶して来なさい。先王もこの国の行く末にはあまりいい見通しを持っていない。――それと、甥のポストを引き受けてもらうに当たって、一つ条件がある」


「それは何ですか?」


「これは先王から言われたことでもあり、わたしの趣味も入っていることなのだが、王室では小動物を大切にしている。わたしの傍には今はいないが、イヌは十頭ほど、ネコは二十匹ほどいる。わたしは自分の家族だと思っている。きみは小動物は嫌いかな、アバスくん?」


 アバスは、

「いいえ、わたしもネコやイヌ、大好きですよ。わたしもペットを大事にする。約束します」

 と返事をした。


「そうか」タジューク王は頷いた。「それを聞いて安心した。今日からきみはわたしの甥だ。では、これからは各大臣たちと共に執政に当たって欲しい。きみは、情報技術の知識は豊富な方かな?」


「はい、そんなに自信ある訳でないですが一応の知識あります」


「それなら、IT産業の振興に当たって欲しい」


「分かりました」


「では、わたしは一旦休みを取ることにする。働きづめで疲れているのでね。まずオビータ先王を見舞ってから、王宮内をみて歩くなり、首都市内をみに出てくれたまえ」


「はい」


 タジューク王は立ち上がると、アバスから見て部屋の右手にあるドアから出て行った。寝室は廊下の更に奥にある。寝室にはケルプが待っていた。このコンピュータのイヌは、現実のイヌ以上に実にイヌらしかった。

 ケルプの鼻面を撫でてやってから寝台に身体を横たえると、タジューク王こと靖は、ログ・アウトした。

 靖は自宅の書斎にいた。最近は妻も娘も愛想を尽かしたらしくて、靖が何時間「キングダムズ」のゲームに熱中していようが文句も言わないのだが、靖はこれから期末考査の試験問題を作成しなければならなかった。

 ふう、これから期末考査が終わるまで、多分ろくにログ・インできる時間はほとんどあるまい。

 そう考えると靖は気が重かった。今や、靖は単なる資力以上のものをこのゲームに注ぎ込んでいた。自分の人生そのものを注ぎ込んでいると言ってよかった。靖の現実生活以上に「キングダムズ」のセルウィン王国は大事なものだった。だからこそ、後継者の甥を二人も募集したのだ。

 まあ、いい。もう少し経てば次の甥の応募者も現れることだろう。

 靖には妃を持ちたい気はなかった。息子を持ちたい気もなかった。

 家族は甥か姪で充分だ、というのが靖の考えだった。


 アバスはラビイに依頼してオビータ先王の病室を見舞ったが、先王は休んでいた。点滴を打っていて、見るからに顔色が悪い。そこでアバスこと健司は一旦ログ・アウトした。

「ふひい」

 健司はPCデスクの上で突っ伏した。

「大分参ったみたいだな」

 昇が言うと、健司は微かに頷き、

「疲れたー」

 と言った。

「おれはいつ応募すればいいかな?」

 伸治が幸男に問うた。幸男は、少し考えてから、

「これから期末考査だろう。向こうもこっちも時間はない。試験の後でいいんじゃないかな」

 と言った。

「ぼくも同じ時期でいいかな?」

 嘉幸も訊ねた。幸男は無言で頷いた。

「おれも少し英会話勉強しようかな」健司が言った。「今日の会話、聞くだけで大変だったわ。ゲンちゃん、流石英語教師だな」

「お前、何回も海外行ってんだろ? 少しは喋れねえのか?」

 昇が問うた。

「いやあ、通訳付きのことが多かったから」健司は誤魔化すように言った。「何でもいい。兎に角疲れた」

「あーあ、いよいよテストですか。おれ、ウツ入ったことにしてサボろうかな。健司の親父さんに抗うつ剤処方してもらって、ついでに診断書も書いてもらってさ」

「じゃ、まあ、今日のところはこの辺にしておこうか」

 幸男が言った。

 その日はそれで済んだ。


 いよいよ期末考査の時期になった。

 昇は健司に言った通り、憂うつだった。大体、普段から教科書を広げてその日の復習と翌日の予習をするという習慣がないから教科書の内容が身に馴染んで来ない。教師の説明は全て右の耳の穴から左の耳の穴へ筒抜けになる。普段がそんな感じなので、試験前になると目の前にやるべきこと、覚えるべきこと、習熟するべきことが山積し、尚更嫌になる。その上、前の試験の範囲の内容の理解もあやふやなので、今目の前にある試験範囲の内容を見せられても、「は? おっしゃることが分かり兼ねますが」という気になるだけだ。

 結局、昇は同じことを高一の始めから今に至るまで一年半のあいだ繰り返して来たことになる。特に英語は重症で、最初文法の授業をサボったものだからリーダーも分からなくなり、文法の最初の小さなつまずきが段々大きなものになってしまい、結局今では英文法など端から相手にしない、という始末だ。

 中学生までの昇はこうではなかった。中学生の頃は、初めて制服を着せられて通学する、という緊張感があったため、昇は真面目に勉強した。今でも中三までの英文法であれば正確に解答できる自信があった。数学の証明問題も、社会科の歴史も、どの科目も熱心に勉強したものだ。今でも覚えているが、中三の夏の時点での昇の県下総合模試での成績は偏差値72だった。

 あの頃はよかったよなあ、と昇はつくづく思う。あの頃は教師の言うことはバッチリ理解できていたし、塾にも通って私学の入試に必要な知識に至るまで熱心に修得したものだ。だからこそ大聖寺学院にも合格できた訳なのだが、大聖寺学院高等部というところは本来が中高一貫制の学校であり、中等部の三年辺りから高校の教科書を使って教えているらしい。それを知ったのが高等部の入学直後で、それを知った時昇は大きくショックを受けたものだ。大いばりで高校に進学したのはいいが、クラスメートの大半にもう大きく水をあけられていることが分かったのだから、やる気を失くすのも当たり前だ。

 それでも、学院中等部出身のヤツの中にも気が合うのがいた。それが健司や伸治だった。健司は大体において無難な成績を収めている。帝大系は無理としても、私立大学の医学部なら余裕で受かるだろう。伸治は真ん中辺の成績を保っていて、本人は、幾ら勉強しても成績が上がらない、などとこぼしていたが、昇に言わせれば、伸治に足りないのはモティヴェーションだ。ハングリー精神だ。そういうものが欠けているから、伸治の成績はパッとしないのだと思う。

 しかし、それはそれとして、まあ勉強の憂うつなこと。

 昇はまず数学の教科書に目を通し、関数と方程式について理解を深めようとした。しかし、どの項目を眺めても、「お友だち」にはなってくれなかった。仕方なく数学の教科書は放り出し、参考書を取り出す。「チャート式数学Ⅱ」だ。これで少しは理解の足しになるかと思って三十分ほど粘ったが、全然ダメだった。昇は椅子の背に体重を預け、頭の後ろで腕を組んで、

「あーあ」

 と言った。

 今、学校は期末考査前の試験対策準備期間とやらで、授業は午前中の二時限で終わりだ。昼前には昇は家に帰ることができる。こんな期間を十日ばかり設けて生徒に試験勉強をやらせた上で、八日間の期末考査期間に入るのだ。

 健司にその後様子を訊いたが、タジューク王ことゲンちゃんはそれでも夜の九時から十一時にかけてはログ・インしているらしい。

「あいつさ、イヌとかネコをやたら可愛がるんだよね」と健司は言っていた。「執務席っていうか、王座に座っていても、傍からイヌやネコを離さないんだよ。それで頭を撫でてやったり餌をやったりしているんだ。ありゃ、ちょっと異常だよな」

「どれもコンピュータのペットなのか?」

 幸男が訊ねた。

「うん。そうだね。どのペットも、ニャアとかワンくらいしか鳴かないし、プロフィールをみても空欄になってるから、システムが作ったペットなんだろうな」

「それじゃ、おれたちの存在はますます効果的になるじゃないか」

 幸男が言う。昇は、

「効果的って、どういうことだよ?」

 と訊ねた。

「つまりさ」幸男はちょっと下を向き、考えながら話をする。「話せるペットが王宮に入れば、うまくすれば国政にも口を出せるかもしれない、ってこと」

「ああ、なるほどな」伸治は言った。「あれだけペットを大事にするんなら、あれこれいわくを付けてスビタスとスビタアとを王宮に連れ込められれば、幸男なら政治にも口を出せるかもな」

「おれは黙ってるから」昇ははっきり言っておいた。「おれが英語喋ると、きっとロクでもないことになるに決まってるから」

「だけどさ」嘉幸が言った。「喋るペットって、他にもいるんじゃないの? ペット役になれるなら、他にもいたっておかしくないじゃん」

「いや」健司は断定的に言った。「いないね」

「どうして分かる?」

「ペットを選ぶと、大幅な機能制限があるんだよ。人間みたいな自由がないんだ。色んな場所に好き勝手に出入りできなくなる。だから、同じ三百円を払うなら、大抵の人間は奴隷を選ぶみたいだ」

「ふうん」

 今ごろゲンちゃん、何やってんだろうなあ。昇は思う。試験問題の準備でもしているのか、それとも性懲りもなく「キングダムズ」に入り浸っているか。

 さて、勉強しなきゃ。

 昇は英文法のワークブックを広げた。

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