D.
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ボブたちの部隊は、無事に分隊と合流し、首都へと続く街道を進み始めた。十キロ先に政府軍がトーチカを設置しているらしい、という情報が入った。そこで先陣を進んでいた歩兵は後方へ下がり、戦車隊が前へ出ることになった。
ボブはエネルギー・ゲージが低くなって来たので、街道に店を開いていたパン屋に入った。真夜中だというのに店は開いている。店に入ると、老爺が一人で店番をしていた。老人は、ボブをみると、
「あの、革命軍の兵隊さんで?」
と訊ねた。ボブは頷いた。老人は揉み手をしながら、
「それなら、どの商品でもただでお持ちになってようございます。何せ、わたしらはもう長年あの皇帝の重税に苦しめられて来たのでして…。さ、これもこれも。どうぞお持ち下さい」
と袋一杯に商品を詰めてくれた。ボブはパック入りの果物ジュースも手に入れ、道端に座って食事をした。
しかし、それが間違いの元だった。
ボブが食事をしていると、突然隣にきびきびした軍靴の足音が迫り、
「お前、革命軍の者だな」
と言うなり、ボブに向かって銃を向けたのだった。
ボブは反射的に傍らに置いていたマシンガンを取ったが、それが相手を刺戟したらしく、その政府軍兵士はボブに向かって三発撃った。ボブは道端に倒れた。
「しまった」
靖は呟いたが、もう遅かった。スクリーンには、
「Fatal Injury: You are dead.」
つまり「致死的な負傷:死にました」との表示が点滅していた。それと共に、ポプルスの街並みは画面から消え、世界地図が取って代わった。靖はもうボブではなかった。「魂」に戻ったのだ。が、「お試し期間」はまだ数日残っている。その間は好きにゲームをしていいのだ。
靖は時計を見た。もう午前二時半を回っている。しまった。明日は早朝に職員会議があったのだ。靖の身体は汗でびっしょりだった。もう一回シャワーを浴びてから、靖は後悔と屈辱と昂奮との綯い交ぜになった気持ちを抱えながら寝に就いた。
翌日も靖は帰宅して一人になると「キングダムズ」にログ・インした。取り敢えず「お試しコース」十五日間を最後まで楽しんでから、その後を決めるつもりだったが、もう気持ちは決まったも同然だった。それから靖は比較的政情の安定していそうな国を選んでコンピュータ・プログラマになったり、F1ドライヴァーになったり、水泳選手になったりした。人種も様々、ペルシア人になったり、パキスタン人になったり、黒人やエスキモーになったりもした。「キングダムズ」でもオリンピック競技に似た大会が定期的に開催されていた。
靖は定期考査の問題を考えたり、採点したりしなければならなかった。以前は熱心に取り組んでいたのだが、そんなのは疎ましい雑事に過ぎなくなっていた。靖の魂はすっかり「キングダムズ」に奪われていたのだ。休日はほぼ一日このゲームをしていた。
「あなた、最近毎晩遅くまで書斎にいるみたいだけど、一体何をしているの?」
ある晩の夕食の席で、真理子が靖に問うて来た。普段の真理子は靖の行住坐臥には全く不干渉で関心を持たないのだが、これまでは遅くとも午前零時までには休んでいた靖が、そそくさと夕食を済ませて書斎に籠り、真理子が片付けものをして休む午前一時以後も寝室に行く気配がないので、不審の念を覚えたらしい。真理子は娘の真紀にもこの話をしたらしく、真紀も靖の方をちらちら窺いながら食事をしていた。
「い、いや、大したことはしてない」靖はどもり勝ちに言った。「さ、最近さ、新しい高校生向けの英語の参考書のアイディアがあってね。出版の当てはないんだけど、それを何とか形にしようと思って、毎夜奮闘しているんだが…」
「あら、そうなの」中途半端な関心を見せて真理子は言った。「でも、あなたの部屋から、時どき物音がするじゃない。あれ、何なの?」
「も、物音?」
「そう。ブーンとかピコピコとかズバーンとか。日曜日だってあなた、食事を取る他は書斎に籠り切りでしょ?」
真理子は次第に問い詰める口調になっていた。
「……」
「あなた、本当はパソコンでゲームやってるんでしょ」真理子は断定的な口調で言った。「ね、本当はそうなんでしょ?」
「……」
靖は無言の空白を肯定の返事の代わりにした。
「実はあたし、けっこう夜遅くまで本を読んだりラジオを聴いたりして起きていることもあるんだけど、あなた、二時や三時になってから休むこともあるじゃない」
「……」
靖は無言で鶏の照り焼きを食べた。
「学校の方は一体どうしちゃったの? 仕事の方が大切でしょ? いったい何のゲームをやっているの?」
靖が黙っていると、真理子は苛立たしそうに指で食卓の表面をこつこつと叩き、その美しい顔を引き締めて、
「答えて下さい」
と言った。靖は今や窮地に陥っていた。額には冷や汗が浮かんでいる。
「……」
靖はほとんど聞き取れないくらいの小さな声で言った。
「何? 聞こえない」
「キ…キングダムズっていうんだ」
「なに? キングダムズ?」
「ああ」
靖は飼い主に叱られたイヌの如くしょんぼりとして箸をおいた。真理子は真紀に、
「真紀ちゃん、あなた『キングダムズ』って知ってる?」
と訊ねた。真紀は、「うん」と答えた。
「最近、クラスでも何人かやってるひと、いるよ。けっこう有名な3Dゲーム」
「その…怪しいサイトじゃないのね?」
真理子は真顔で真紀に問うた。
「うん。危ないゲームじゃないと思う。あたしはよく知らないけど」
「それ、お金掛かるんでしょ?」
「そうだね、色々コースがあるみたい。高いコースを選ぶと一万円単位でお金がなくなる、って話だけど、あたしのクラスの子は月五百円とか千円くらいのコースが多いみたい」
真理子は夫の方に向き直った。
「あなたもお金掛けてるの?」
「い、いや…、ぼくがやってるのはお試しコースだから…」
真理子は厳しい表情で訊いた。
「幾らくらい掛かってるの?」
「今のところ、掛かってない」
「そう」真理子はやや安堵したような声で言った。が、すぐに厳しい声で、「でも、いい年してゲームも何もないでしょう。みっともない。止めてちょうだい」
と言った。靖が何も言わないので、真理子は重ねて、
「分かった?」
と念を押した。が、靖は、
「いいじゃないか」と小声で言った。「別に、違法なことをやっている訳じゃなし」
すると真紀子は、居丈高に、
「あなたは高校の教師でしょう。それにもう五十も目前じゃないの。それが中高生がハマるような下らないゲームに興じて。あたしだってPTAの役員なんですよ。他の役員に顔向けできないわ」
「下らなくない」靖は平生に似ず、思わず大きな声で反論していた。「ぼ、ぼくにとっては大切な自分の一部だ」
すると真紀子は、心底呆れたような口調で、
「じゃあ、まあお勝手に」と言った。「但し、教師は聖職なんですから、その立場を忘れないようにお願いしますね」
靖は財布の紐を妻にすっかり預けており、月々の小遣いは三万五千円だった。靖は酒もほとんど飲まなかったし、使い途としてはたまに教え方の研究のために高校生向けの英文法書を買ったり、洋書や写真集を買ったりする程度だった。だから、十五日間の「お試しコース」が終わり、本登録するかどうかシステムに訊かれた時、迷わず「はい」を選んでいた。これが知れたらまた真理子がぶうぶう言うのだろうな、とは思ったが、真理子は靖が稼いだ金を好きに使い、真紀にもひと月に一万円も小遣いを与えているのだ。これ位自分の自由が許されても構わなかろう。
本登録すると、次には利用料金、即ちこの世界での階級を選択するウインドウが現れる。最高額が「王・王族」の一か月一万二千円、最低額が「愛玩動物・奴隷階級」の三百円。靖はここで少し逡巡したが、どうせなら一国の主になるのも悪くなかろう、と考え、すぐに最高額のコースを選んだ。
続いて、ハンドル・ネーム並びに詳しいプロフィールや支払い方法を選択する画面に移る。靖は、今度はハンドル・ネームを「タジューク」とし、人種は「アジア/ドラヴィダ系」とした。年齢は実年齢と同じ「四十八歳」、実名は登録したが、実生活での職業は「非公開」とし、料金支払いは銀行引き落としとクレジット・カード払いが選べたので、「カード払い」を選んだ。
すると、クレジット会社との通信に十数秒を費やした後、
「Welcome To The ‘Kingdoms’!」
のメッセージが現れ、靖の「キングダムズ」入りは確定した。
そして、「お試しコース」の時と同様に、現実世界の数十倍にも及ぶ国家が乱立する世界地図が現れた。地図上の国にカーソルを当てると、その国の大雑把なプロフィールが漫画のような吹き出しになって表れる。北欧のある国家は宇宙開発に力を注いでおり、科学立国を目指していた。マレーシアの島にある国家は福祉政策に目を向けるキリスト教国だ。イスラム教国もあった。靖はこの世界地図をみて、数十分に亘り各国を物色して回った。
まず靖、いやタジュークが目指していたのは王国だった。王国、しかもできれば立憲君主政国。専制主義国や、絶対主義国、帝国では政情が不安定になりがちだ。しかも「後継者募集」の公募メッセージを出している国。
散々迷った末、靖は以下の五つの国に応募先を絞り込んだ。どの国も「Kingdoms’ United Nations」つまり「キングダムズ国際連合」に加盟している。「お試し」コースで少し勉強した靖は、安定した国情の国を選んだつもりだった。
・ローリン王国:現実世界の北米に位置する。国民数約四千五百。内政は安定しており、農業国である。主な生産物は肉類・コーヒー。但し、隣国ナイマイ朝との間で国境線を巡り軋轢が生じている。
・フガイ王国:現実世界のガラパゴス島に位置する小国。国民数約千三百。現政権は前政権の甥がクーデターを起こして権力を手中に収めた。内政は前政権より安定している。観光立国だが、現在の就航路線は十三と少なく、大空港の整備が待たれている。
・トーショー王国:現実世界の日本国本州北部にある王国。国民数約三千。従来より先端科学技術の研究に力を入れており、三つの王立科学技術大学と二つの王立科学技術研究所を擁する。但し鉱物資源には恵まれず、この点では輸入に頼っており、輸出元の数カ国との関係に依存している。
・セルウィン王国:現実世界のインド亜大陸中部にある王国。仏教国であり、国民数約五千。内政は安定しており、特に現君主オビータ王は善政を布く「賢君」として知られる。隣国としてはイスラム王朝やヒンズー教国など八カ国に囲まれているが、何れの国とも関係は良好である。
・リンガ王国:現実世界のアナトリア半島全体を統治する一大王国。国民数約六千。兵器産業が盛んで、二百以上の企業が戦車や揚陸艇の生産に関わっている。経済的には繁栄の極みにある。最近は核兵器の開発・生産にも力を入れており、一部の国家からは危険視されている。
どの国も一長一短だな、というのが靖の感想だった。リスト・アップした王国の概要を見ながら、靖はどの国に応募しようか、と迷った。経済的に余裕がある国は魅力的だが、核兵器の開発はいただけない。先端技術の開発が盛んな国も惹かれるが、鉱物資源に恵まれないのは痛い。が、どうせドラヴィダ系に設定したのだし、どうせなら平和な国がいい、と考えた靖は、セルウィン王国に決めた。
王族を選ぶと、「入国」先の都市を選ぶことはできない。自動的に首都に入ることになる。それから現国王の面接を受けて、それに通れば合格である。
セルウィン王国の首都はビリングといった。タジュークこと靖が世界地図上のセルウィン王国をクリックすると、
「この王国に応募しますか?」
という確認メッセージが表示される。ここで「はい」を選択したタジュークは、三次元の首都の風景を見ることになった。タジュークは車に乗せられていた。大きなセダンの後部座席に乗っている。運転手はバラミという男で、
「セルウィン王国へようこそ。いま、王宮へお連れしますので」
と言った。
「王宮では、オビータ王にお目に掛かれますか?」
とタジュークが問うと、バラミは、
「はい、王は長いこと世継ぎをお待ちしております」
と答える。
「王妃はいないのですか?」
「皇后さまはもう亡くなられました。側室との間にも、お子さまはおりません」
タジュークがこの王国の詳しいプロフィールを見た限りでは、オビータ王は現在五十七歳だとのことだった。
「オビータ王さまには、わたしのことはもう伝わっているのですか?」
「はい。久し振りの応募者ですので、首を長くしてお待ちです」
車は昔ながらのテントに混じって近代的なビルディングが建ち並ぶ首都の大通りをしずしずと進んで行った。幾つか角を曲がると、やがて通りの先に広壮な王宮が見えて来た。巨大な城門、城壁、謁見所…。白い大理石でできた建築の周囲には王宮の警護に当たる槍を持った兵士たちが所どころに立っている。
「ずいぶん立派な建築ですね?」
「はい。ビリング城、別名ジャンニ・ビハールと申します。今から三代前の君主が建築したものです」
街中を見た限りでは、国力も豊かそうだった。プロフィールでは、牧畜と農業、それに鉱工業が主産業だということになっていた。
車は王宮を回り込み、正面脇に設けられている車輛用通路に入り、長い通路を二分ほども走ると、車回しに滑り込んだ。バラミは、車内無線の送話器を取ると、
「タジュークさま、ご到着です」
と言った。すると、華麗な彫刻を施した王宮の賓客用出入り口のガラス製ドアが開き、中からスーツを着た若い白人の男とアジア系のこれも若い、動きやすそうなドレスに身を包んだ女が姿を見せた。
男がドアを開け、女は降りようとしたタジュークの足元に恭しい態度で緋毛氈を敷いた。
続けて宮殿の中からもう一人、三十歳代半ばと思われる、やはりスーツを着て髭を生やした男が現れた。
「タジュークさま、ようこそジャンニ・ビハールへ」男は洗練されて入るがやや気取った仕草で一礼した。「わたくしは侍従のマイルズと申します。これからわたくしがタジュークさまをオビータ王の元へご案内いたします。どうぞこちらへ」
タジュークは男の後に従って王宮内に入った。宮殿の内部は天井や壁などあちこちに精緻な彫刻が施され、部分的に金や銀で装飾されているものもあった。床は緋色の絨毯敷きだ。廊下は広々としており、建築の構造は複雑で、幾つかの広間を通り、何ヵ所かの角を曲がり、二つの階段を上がった。壁面には絵画が掛けられ、廊下の角には壺や彫刻が置かれ、広間の天井からはシャンデリアが下がっていた。城内では掃除婦や端者、役人や大臣などが盛んに行き交っている。大方十五分ばかりも城の中をぐるぐると連れ回された末、タジュークは小作りな一室に案内された。青い紗を張った安楽椅子が数脚並び、ガラス製の円テーブルの上には灰皿と煙草が置いてあった。マイルズはタジュークをその小部屋に導くと、また一礼して、
「タジュークさま、ただ今オビータ王にお取り次ぎいたしますので、こちらでお待ち下さいませ」
と言い残して去って行った。
タジュークは安楽椅子に座って王の呼び出しを待った。タジュークこと靖は現実生活では煙草は嗜まないが、この時は手持無沙汰で葉巻を一本吸った。
十分も待っていると、今度は別の若い女――若い娘と呼んでも差し支えのないような者が現れた。
「タジュークさま、この度はご応募ありがとう存じます」女は言った。「わたくしはオビータ王のお傍を承っておりますラビイと申します。王がお待ちです。どうぞこちらへ」
タジュークはラビイの後に付いて歩いた。この辺りになると入れる者に制限があるのか、滅多にひとの姿をみることはなくなった。静かである。廊下の脇には賓客用の寝室ででもあるのか、居心地のよさそうな部屋が並んでいる。タジュークが通過する部屋べやには穹窿が施され、あちこちに凝った彫刻をあしらったソファーや天蓋付きの寝台が置かれている。また、所どころにはヴェランダが設けられ、首都ビリングの街並みを見渡すことができた。
やがて、タジュークが廊下の終わりに設けられているアーチを潜ると、大広間にやって来た。
大広間には大理石製のテーブルが二脚置かれ、その小さい方の一番端に初老の男が座っていた。
「こちらがオビータ王でございます、タジュークさま」
ラビイは紹介すると、手際よくオビータ王と称する男に向かい合った椅子の背を引き、
「どうぞ」
と座らせた。間もなく侍女が果物や飲み物を運んで来た。
「あんたが、タジュークさんかね?」
オビータ王はペルシア系の顔立ちをしていた。穏やかな口調に、タジュークは好意を抱いた。プロフィールをみると、本名はイアン・ロバーツ。実年齢は五十八歳。職業は医師。
「いかにも、わたくしがタジュークでございます、オビータ王陛下」
タジュークは若いころ覚えた英会話の呼吸を少しずつ思い出していた。タジュークがみると、王は膝の上にネコを乗せていて、撫でながらタジュークと話しているのだった。その点も好感が持てた。
「わたしはアメリカ人なんだ。ごてごてした余計な挨拶混じりの会話は苦手なんでね。――あんたはこの王国の継承者の、久し振りの候補だよ」オビータ王は言った。「この前の候補は、ふた月も前に来たが、わたしが出した条件を呑まずに辞退した。その前は五カ月前だった。――まあ、そのことはいい。まず、わたしはこの先長くはない。前立腺癌に罹っていてね、余命は幾ばくもない。それもあって早目に後継者募集の告知は出したつもりなのだが、どうもこういう平和な国というのは人目を惹かないらしくてね」
オビータ王は、面白くなさそうに、ははは、と笑った。それから問わず語りに言葉を並べた。
「それで、まずあんたにこの国の王たる資格があるかどうか、調べさせてもらう。――次代の王が見つからない前にわたしが死ねば、この国は恐らく隣国のどれかに占領され、統治されることになると思うのだが、わたしは何とかしてこの国を存続させたいと思っている。いい国だと思うからね。まず、この国の概要は見て貰ったと思うが、一応仏教国ということにはなっている。しかし、イスラム教徒もいればキリスト教徒もヒンズー教徒もいる。そこのところをまず理解して欲しい。財政的には豊かな方だ。このまま行けば、増税の必要はなかろう。国民も富んでいるから、それ程目立ったことをしなければ、王族が多少贅沢をしても許してくれるだろう。王妃が欲しければ、告示をするか国民の中から気に入ったものを娶ればいい。側室を持ってもいい。兎に角早目に子供を作っておくことだ。そうでないとわたしのような目に遭う。まず、ここまではいいかね?」
タジュークは無言で頷いた。オビータ王も頷いた。
「よろしい。それから、地方へは時どき行って欲しい。いわゆる行幸ってやつさ。これをやっておけば、人心は割とよく掴めるだろう。今のこの国の主産業は、あんたも知っての通り、農業と鉱業だ。あとは第三次産業だな。観光も重要な産業のひとつだ。しかし、今、この国にもIT産業を大々的に取り込もうという試験は行っている。実際のインドのようにね。この国には歴史があるが、それを活かしつつ新しいものを取り入れたいのさ。これもいいかね?」
タジュークはまた頷いた。
「それから、多少奇異に思えるかも知れないが、最後に一つ条件があるんだ。この前の候補者はこれが理解できなくて去って行った。というのは、王宮ではかなりの数の動物を飼育しているんだが、これを大事にして欲しいのだ。イヌやネコが中心だが、ロバやウサギなんかもいる。これ、ここにもネコがいるが、――これはアバルスという名だが、奥に行くともっとイヌやネコがいるんだ。全部で三十匹くらいはいるかな。無論コンピュータ・システムが作成したヴァーチャル・ペットだが、それは殺したりお座なりな扱いをしたりしないで、きちんと扱って欲しいんだ。人間と同じようにね。分かるかな?」
オビータ王がそう言うと、ネコはにゃあ、と鳴いた。
「分かりました」タジュークは即座に答えた。「大事に飼えばいいんですね?」
「そうだ」王は頷いた。「この条件、理解してくれるかね?」
タジュークは深く頷いた。オビータ王は満足したように微笑んだ。
「よろしい」王は言った。「きみを、わたしの正式な後継者と認めよう」
そう言うと、王は脇に控えていた侍女の支えを得てよろよろと立ち上がり、車椅子に乗り込んだ。病状は芳しくないらしい。
「きみは、今日から王位に就いてくれ」オビータ王は言った。「禅譲する訳だ。――わたしは本職が医者だ。だから分かるのだが、わたしはもう長くない。これまでずっと病室で執務してきた訳さ。今日、きみをわたしの養子とする手続きを取る。これからはわたしはオビータ先王だ。きみが今日からタジューク王だ。早目に国民にも告知しなければな」
こうしてタジュークは首尾よくセルウィン王国国王の地位に就くことになった。タジュークこと靖にとっては喜びよりも戸惑いの方が大きかった。それまで平凡な一日本国民として暮らして来たのが、急に一国の君主の地位を任されたのだから当然である。タジュークは、まさか応募したその日に王位を譲られるなどとは思いもしなかった。
しかし、隣に早くも侍従トムスが控えていた。
「タジューク新王様、執務室をご案内します。どうぞこちらへ」
執務室は大広間から廊下を五十メートルほど奥へ行ったところにあった。
「王様には、代々通常はこちらのお部屋で執務いただいております」
タジュークは頷いた。
「王の務めにはどんなものがあるのかね?」
タジュークは自分が非常な間抜けのような気がしながら問うた。
「まず、各大臣が新しい情報を持って参りますので、政情の現状把握をなさっていただきます。大臣を揃えての会議も開かれます。また、最近は新産業に関する報告も盛んに上って来ます。また、地方からも少数民族の陳情団が参りますので、お会い下さいますよう」
「分かった」タジュークは答えた。「オビータ先王の扱いは、どうすればいいのかね?」
「オビータ先王さまは、孤独をお好みでございます。また、専門医が侍医として付き添っておりますから、ご心配なく。ただ、一日に一遍はお見舞い下さいますよう」
「そうしよう」
玉座に座って王杖を取ると、タジューク王の膝に頭を乗せて来るものがいた。イヌだった。耳と顔が長く、胴体は細長い。タジューク王は頭を撫でてやった。すると、そのケルプという名のイヌは、満足げに鼻をクンクン鳴らすのだった。
タジューク王こと靖は、実生活でも何か愛玩動物を飼いたい、せめて動物でもいいから、家庭内で自分の味方をしてくれるものが欲しい、そう願っていたのだが、この「キングダムズ」でそれが見つかるとは思わなかった。これは願ってもみない僥倖だった。
「この国の内部には、反政府勢力のようなものはないのかね?」
念の為タジューク王はそう訊ねた。トムスは小首を傾げ、
「さあ、これまでのところ、わたしはそのようなものがあるとは耳にしておりませんが…」
とおずおずと言うのだった。やはり国情はアクバル帝国とかなり差異があるらしい。いい国を選んでよかった、とタジューク王こと靖はほっと胸を撫で下ろすのだった。
こうして、タジューク王こと靖の本格的な「二重生活」が始まった。靖は家にいる時、常にPCの電源をONにしていた。靖の家は、妻の真理子も娘の真紀も自分のPCを所有しており、無線LANを設置し、光ファイバー回線を選んでいたから、電源さえ入っていればいつでも「キングダムズ」にログ・インできる。靖は、休日はほぼ一日タジューク王を演じていた。妻の真理子は、
「あなた、まだ『キングダムズ』やってるの?」
と時どき問うた。靖は、最近は、
「いいじゃないか、小遣いの範囲でやっているんだから」
と反論するようになっていた。
「何でもいいけど、恥をかかないで済むようにして下さいね」
真理子は仕方なさそうにそう言うだけだった。
そして、ある日、学校の職員室にいる時、靖は初めて学校で「キングダムズ」にログ・インしたのだった。
その日は水曜日で、放課後、他の教員は皆受け持ちのクラブの指導に行くために職員室には数えるほどの教員しかいなかった。その上、都合のいいことに靖の机は職員室の一番隅にある。
靖は丁度受け持っている五つの学級の生徒たちの成績管理を終えたところだった。この成績管理という仕事は、一人ひとりの中間考査、期末考査の点数を折れ線グラフにして追跡し、個別並びに全体の成績の動きを追跡する、という誠に面倒くさく手が掛かる作業だった。しかし、それにより個人のみならず学年全体の学力の動向を分析でき、それによって教え方を変えたり、内容をもう少し難易度の高いものにする、あるいは成績が急に落ちた学生については他の科目の教諭と連絡を取り、必要に応じてカウンセリングを行う、といった非常にきめの細かい生徒対応ができる、大聖寺学院ならではのシステムであった。
靖は中間考査の成績管理を終え、ほっとして冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。
と共に、「キングダムズ」に入りたい、今ここでログ・インしたい、という抗いがたい欲求に襲われたのだった。
少し疲れを取るため、と自分に言い聞かせて、靖は「キングダムズ」のサイトにアクセスした。そして、タジューク王として執務室に入ると、数多の仕事が待っていた。
まず、新王即位に際して簡単な謁見式と儀礼的な王杖継承式があり、これには三百名ほどのビリング市民や地方の各部族の代表が出席し、直径三十センチはあろうかと思われる金杯に注いだブドウ酒を一口ずつ回し飲みをして新王タジュークは善政を、各部族代表は恭順の意を誓った。
続いて先王オビータを載せた電動式ベッドが入り、タジューク王に政権を譲ること、新王も善政を行う由を述べた。先王オビータには点滴装置が付けられ、看護婦が付き添っている状態だった。
その後、タジューク王は全大臣、ビリング市民代表並びに各部族の代表を交えて簡単な意見交換会を開いた。大臣は引き続きセルウィン王国の近代化と地方における新規情報技術インフラストラクチャの整備の促進を訴え、ビリング市民は相続税の減税を、各部族の代表は、各々が奉ずる宗教の仏閣寺院設備への国王による投資の増額を訴えた。
タジューク王は暇をみて先王オビータの病室を見舞った。が、いつでもオビータは、タジューク王が行く度に、
「あんたも忙しいのだろうに、もうこんなところへは来なくてよろしい。わたしが死んだら、灰はリンダン川に運んで流してくれ」
と言うのだった。リンダン川とは現実世界のインダス川を指す。
しかし、タジューク王はまだ執務に慣れない節も多く、先王からの助言を必要としていた。
「トルキ族とハイバラ族の間で境界線について意見の食い違いがあるようですが…」
「ウィノ大臣は市民税を増税した方がいい、というのですが…」
「隣国が政情不安定に陥っているようですが、どのように対処すれば…」
そう言った質問に対し、先王オビータは、うるさそうに、
「そんなもの、公文書館へ行けば過去の資料が手に入る」
とか、
「三か月前に自動車税を増税したばかりだ。時期が悪い」
「こちらからは何も手は出すな。しかし、軍備だけはしておけ」
などと簡単に答えるだけだった。
タジューク王こと靖の前には、やるべきことが山積していた。
そして、ある日の放課後、成績管理を終えたところで夢中になって大臣と徴兵制の復活について相談していた時、突然後ろから肩を叩かれたのだった。
「源田くん、きみは何をしているのかね?」
校長だった。
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