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ボブこと靖は肉屋に教えられた通りの道を辿って宿屋に向かい、そこで夕食にあり付いた。「キングダムズ」では、ゲーム中にウインドウの右にエネルギー・ゲージが表示され、休息や食事が足りず、それがゼロになってしまうと死んでしまうのだ。宿で出た夕食はパンとスープという簡単なものだったが、それでもボブのエネルギー・ゲージは一気に回復した。宿で休眠を取っている間はゲームは中断する。休眠には一時間半ほど掛かるのだった。このゲームは全世界に参加者がいる筈だが、時差は一体どうするのか、とか、どこにサーバがあるのか、といった素朴な疑問は靖の心には浮かばなかった。
靖の心を占めていたのは、子供っぽい昂奮と高揚感、それだけだった。高校で英語を教える身でいながらたどたどしい英会話しかできない、という情けなさともどかしさもあったが、靖は、このゲームになら自分の暇な時間を注ぎ込んでも惜しくはない、と確信していた。
喉がからからだった。
キッチンで水を飲むためにPCの前を離れ、ドアを開けようとした時、ドアノブが掌の中で滑って、それで靖は、自分の手が汗まみれになっていることを知ったのだった。
冷蔵庫からポカリスエットのボトルを出して、薄暗いシンクに向かってごくりごくりと飲んでいると、後ろから妻の真理子がやって来た。
「あなた、こんな遅くまでどうしたの?」
真理子はもう寝間着姿だ。ほの暗い空間に、真理子の白い顔が風船のように浮かんでいる。
「うん、ちょっと片付けないといけない課題添削があってな」
靖は適当に返事をした。
「でも、そんなに汗かいて…。まだ五月なのに、どうかしたの?」
真理子は怪訝な目付きで夫をみた。他人を見る目だ、と靖は瞬間的に思った。しかし、自分が全身汗びっしょりになっているのは確かだった。まるで豚のように汗まみれだ。
靖は真理子には返事をせず、ポカリスエットを冷蔵庫にしまった。
「明日も早いんでしょう。余り無理しないでお休みなさいね」
真理子はそう言うと、二階の寝室に引き取って行った。靖はほっとした。
靖と真理子は結婚した頃、子供は二人儲けようという話をしていた。一人目の真紀は結婚二年目に授かったが、その後子供には恵まれなかった。しかし、真紀が生まれた直後にこの家の建築に取りかかったため、三人家族の源田家には部屋数の点で幾らか余裕がある家族になってしまった。数年前、真紀が首尾よく明峰中に入学した頃から、妻の真理子は靖と別の部屋で寝るようになっていた。靖は、最初妻が、自分のベッドを隣の空き部屋――当時は物置として使われていた部屋に移してそこで寝るわ、と言い出した時、言いようのない屈辱感を味わったものだった。妻はその部屋に空調機も取り付け、がらくたも片付けてワードローブや新しい鏡台まで持ち込み、短時日のうちに自分の居室にしてしまった。靖にはそれに対して敢えて異を唱える勇気はなかった。妻の真理子にしてみれば、靖は不甲斐ない一私立高教師に過ぎず、夫としての魅力ももう感じていないようだった。靖はそれについて屈辱感を覚えたが、改めて妻に訴えかける新しい魅力を身に付ける自信もないのだった。妻に、勝手にエアコンを買い、高い鏡台を買ったことで文句を言ったところで、どうせ、
「あなただって自分の書斎にエアコンの他にパソコンまで持っているでしょ。あたしにもこれくらいの権利はあります」
としてやられるのが関の山だ。
靖は、自分がどうして妻の真理子から魅力的に見えないのか、その理由も把握しているつもりだった。靖と真理子は大学時代に知り合い、その後数年間交際してから結婚したのだが、靖はその頃から物静かで内省的であり、逆に真理子はどちらかと言うと派手好きで友人も多かった。デートをしても、目新しいものを見付けて来るのは必ず真理子だった。また、二人の交際で主導権を握っていたのも真理子だった。交際期間中、真理子の目には靖は口数が少ない山男、どことなく神秘的なひと、という風に映っているようで、それが真理子に結婚まで踏み切らせたようなのだが、結婚後靖の本当の姿が見えて来るに従い、真理子を惹き付けて来た魅力は徐々に輝きを失った。靖は確かに無口で友人も少なく、講義に出ているよりはどちらかと言えば山を歩いている方が好きな学生だったが、それは別に自分をミスティファイするためのものではなく、単にコンプレックスの強さから発するものだった。
靖には心の奥深くに秘めたひとつの秘密があった。靖はその記憶を心中深く封印し、普段は忘れていることができたのだが、ふとしたきっかけでそれが蘇ると、深い自己嫌悪と羞恥心に捉われるのだった。
靖はその秘密が顕現するのを恐れ、そのためなるべく刺戟を避けるために一層他人との交際を拒み、孤独を好んだ。独りになって読書に耽っている時間、それが靖には一番幸福ないっ時なのだった。
そうした靖の人間嫌いを真理子がようやく認知したのは、結婚して真紀を妊娠している頃のことだった。そして、それに続いて靖の不器用さとコンプレックスの深さをも感知し、そうなるとまず靖に対して生まれたのは疑問だった。
なぜこのひとは、自分の内側を他人に見せようとしないのだろう?
真理子にはその頃、まだ靖に対する情愛が残っていたので、何とか靖に接近し、真理子流の「コミュニケーション」を取ろうとした。しかし、それは靖にとっては迷惑そのものでしかなかった。当然ながら、靖は本来、他人から自分について執拗くあれやこれや訊かれるのを好まなかったからである。特に過去のことを訊かれると、靖は決まって虫唾が走るような顔をした。
「あなたって、どうしてそんなに孤独が好きなの?」
ある時、真理子は心底不思議そうにそう靖に訊ねたことがある。
靖は一言だけ、
「他人は嫌いなんだ」
と答えた。それは反射的に出た言葉だったが、正鵠を射たものだった。
「他人が嫌いなの? どうして?」
「怖いからさ」
「他人が怖い? ふうん、分かんないな」
「そりゃ、きみには分からんだろうな」
靖の言葉は真理子には面白く響かなかったらしい。
「そうやって生きてて、楽しいの?」
靖はただ一言、
「ああ」
と言った。
「変なの」
こうして夫婦の間には溝が生まれ、お互い違った生き方を志向していることが明らかになるにつれ、それは深まって行ったのだった。
恐らく、真理子が真紀を妊娠さえしなければ、二人は円満に離婚していたことだろう。だが、夫婦の間にひびが入りかけた丁度その頃に真理子の妊娠が判明し、離婚話は二人の間に持ち出されることなく終わった。
その代わり、真紀は真理子が取った。真紀の名も真理子が自分の一字を与えて自ら名付け、一切の育児も一人で行った。真紀の進路を考えたのも真理子だった。小学校までは地元の公立に通わせるが、中学からは進学校の私学に行かせる。その先は少なくとも大学まで行かせ、本人の希望によっては大学院まで進ませる。
そうした計画の一切に靖は関わっていなかった。蚊帳の外だった。しかも、それに必要な塾の費用や学費の一切は自分の給料から出ているのだ。大聖寺学院が靖に払う給料は同年輩の並みのサラリーマンのそれを凌ぐものだったので、そういった費用を真理子がパート・タイムの仕事にも出ずに捻出することも可能だった。靖は、真理子がブランド物の服やバッグや宝飾品を買い込み、日中始終友人たちと会っていることを知っていたが、真理子も「他人」の中に入ってしまった今、文句を言う勇気はなかったし、またその気もなかった。靖が観察している以上では、真理子には浮気をしている気配はなかったし、真紀の教育に入れ込んで明峰中のPTA会員まで引き受けている現状をみれば文句の付けどころはなかった。
靖はできれば何か動物を飼いたかった。イヌでもネコでもよかった。それなら靖の唯一の家族になったろう。が、真理子は、ネコはなつかないし、イヌは散歩が面倒だから、という理由でどちらも却下した。
さて、その晩靖には宿題の添削の仕事があったので、一時間半はそれに費消された。宿に入ってから二時間ほどしてから、時計をみると、そろそろ十一時になる頃だった。よし、今夜は一時まで、と決めて、もう一度「キングダムズ」にログ・インすると、「ボブ」は宿で目覚めていた。朝食はパンとコーヒーだった。
フロントで三十ペカーリを払って外に出ると、既に日は高かった。見るからに暑そうだ。体力の消耗を恐れ、日陰を選んで歩く。街を歩いてみると、ポプルスの街にも先進的なオフィス・ビルがあり、サラリーマンらしきネクタイを締めた男たちが歩いていた。別に肉屋を選ぶ必要はなかったな、とボブは後悔した。が、一度選んでしまった職業には、少なくとも一週間は就いていなければならない規則があった。
仕方ない、肉屋で取ってくれるところを探そう。
ボブはあちこちに立てられている掲示板や、壁に貼ってある求人募集の広告をみて回って歩いた。しかし、どれも、「プログラマ募集」とか「営業担当者募集」「鋳掛屋徒弟募集」といったもので、「肉屋徒弟募集」というものは中々なかった。その内に腹が減って来た。腕時計をみると、そろそろ昼になり掛けている。エネルギーも減りかけていた。ボブは屋台でフィッシュ・アンド・チップスを五ペカーリで買い、別の屋台で氷水を買うと、木陰のベンチに腰を下ろして食べた。ゲージも元に戻った。
それからまた午後は職探しに奔走することになった。
すると、午後二時半ごろ、一番日射しのきつい時間に、夢のような募集広告が見つかった。
「経験不問・職業不問、職務は一から懇切丁寧に教えます。応募者はオービス・ストリート三番地二階のオフィスまで来られたし」
ボブは小躍りする思いでオービス・ストリートを探した。ひとに訊くと、市庁舎に近い、小ぢんまりした漆喰造りのビルが並ぶ一郭にかかるビルディングはあった。二階建ての、通りから少々引っ込んだ目立たないビルだった。
一階は理髪店になっていた。ボブは迷わずにその脇にある階段を上って上階に上がった。白木のドアが待っていた。
ボブはドアを二度ノックした。すると中から、
「どうぞ、入りたまえ」
というやや勿体ぶった調子の声が聞こえて来た。ボブはドアを開けた。
中にいたのは、ターバンを巻いて髭を生やした、浅黒い肌をした男だった。
「ようこそ」と男は、にこやかに言うと握手を求めて来た。「あなたは応募者の方ですか?」
「そうですが」ボブは答えながら部屋の中を見回した。木製の机が一脚ある。本棚が一つあった。それ切りである。「ここが事務所ですか?」
「とんでもない」男は笑いながら言った。「ここは応募受付所です」
ボブが男のプロフィールをみると、名前はハッサンとなっていた。三十二歳、大佐。大佐だって? この男、軍人なのか?
「それで、わたし、具体的な仕事内容聞きたい」ボブは言った。「どんな仕事をするのでしょう?」
ハッサンは笑みを絶やさず、
「この国に仕える仕事、とでも言いましょうか」
と曖昧なことを言う。ボブは、
「ははあ、軍隊の志願兵募集所ですか?」
と訊いたが、ハッサンは首を振った。
「まあ、それと似た感じではありますが、厳密にはそれと違う」
「では、何です?」
すると、ハッサンは真顔になって、
「あなた、この国のために戦うつもりはありますか?」
と訊ねた。ボブは、
「わたし、この国に来たばかりでまだよく分からないが、わたしには仕事、ない。お金が貰えるなら、取り敢えず戦いに参加するつもりはあります」
と言った。ハッサンは頷いた。
「よく分かる。その気持ち、よく分かります。あなた、仕事がない。この国の皇帝は、自分のことしか考えない。だからこの国よくならないのです。そこを少しだけ変えないといけません」
「あなたは、一体何を企んでいるのです?」
ボブは少し不安になって問うた。ハッサンは、
「いや、大したことではない。大したことではありませんが、このことは内密にして貰わないと困ります。それ、あなたは約束できますか?」
ボブは頷いた。
「それなら、あなたは自分の寝床と食糧と給料をたっぷり得ることができる。この話に興味はありますか?」
ボブはまた頷いた。ハッサンは、
「しかし、この話を口外したが最後、あなたはこれです」
と言って右手で首を掻き切る真似をした。画面をみている靖はやや蒼くなったが、伸るか反るかやってみよう、と思って、ボブを頷かせた。
「よろしい」とハッサンは言った。「では、今日からあなたはわたしたちの仲間だ。今夜からあなたはわたしたちの宿舎に入って貰う」
「それはどこですか?」
するとハッサンは、机上の電話の受話器を取りながら、
「これから車でお連れします」
と言い、どこかの番号をプッシュした。そして、受話器に向かって、
「羊が一頭入った。今夜から世話を頼む」
と言い、受話器を置いた。そして、ボブの目をみて、
「いいね、あなた、今回のこと、誰にも言ってはいけませんよ」
と真顔で言った。ボブは頷いた。ハッサンはボブに椅子を勧め、
「すぐに車が来ますから待っていて下さい」
と言った。
十分ほどすると、靖はPCのスピーカーからドアをノックする音を耳にした。ノックはとんとんとん、とドアを叩く。
「入れ」
急にきびきびした様子になってハッサンは言った。すると、ドアが開いて、やはりターバンを巻いてはいるが、明らかに白人の男が入って来た。プロフィールをみると、名前はジェイムズ、年齢は三十五歳、となっている。
「この方をお連れしろ」ハッサンはジェイムズに命じた。「くれぐれも丁重に扱うように」
「はっ」ジェイムズは軍隊式の敬礼をした。そして、ボブの方に向き直り、「どうぞ、わたしに付いて来て下さい」と言った。
ボブが立ち上がってハッサンをみると、ハッサンはボブに頷いて見せた。
ボブは挨拶のつもりでハッサンに頷き返し、ジェイムズの後に付いて部屋を出た。
建物を出ると、そこには大型のセダンが一台停まっていた。ジェイムズはその後部ドアを開け、
「どうぞ、お乗りください」
と言った。ボブは乗り込んだ。ジェイムズは運転席に乗った。ボブがそのジェイムズの詳しいプロフィールをみると、職業は「反体制組織兵士」となっていた。なるほど、とボブは思った。ああやって曖昧な広告を出して傭兵を募り、クーデターか革命、恐らくは革命を起こそうというのだろう。
ボブが連れて行かれたのは、ポプルスの街外れにある農場と養豚場が一緒になったような施設だった。ジェイムズは車を降りると、ボブを案内して歩いた。
「あそこで訓練を行います」ジェイムズは農場のように見える平地を指して言った。「そして、これからあなたをご案内するのが宿舎です。ここは表向き、農地として登記されています」
ジェイムズは裏に回って、目立たないドアを三つノックした。すぐにドアが開き、今度はターバンを巻かず、代わりに迷彩服を着た黒人の男が現れた。サンディ、二十五歳、傭兵。
「新兵だ」ジェイムズはサンディに言った。「世話を頼む」
サンディは頷き、手招きしてボブを兵舎内に導いた。ジェイムズはそれなりどこかへ立ち去った。
兵舎の中は広々としていた。居室の開いたドアから中を覗くと、広々とした個室になっていて、中にはTVセットやラジカセまであった。
「ここでは」とボブを案内して歩きながらサンディは言った。「朝六時に起床して食事、八時から十二時まで訓練、一時間休憩を挟んで午後一時から午後六時までまた訓練、その後夕食、という生活になっています。分かりましたか?」
わかった、とボブは答えた。
「何れ、兵士の数が増えたら合同作戦訓練を行いますから」
兵舎の奥の個室にボブを案内すると、サンディは、
「ここがあなたの個室です。自由時間は何をなさっても結構です。午後六時から夕食です。食堂はあちらにあります。明日、あなたにも軍服を支給します」
と言い残して去って行った。
ボブは部屋の中でベッドに腰掛けた。ボブこと靖は、こりゃちょっと思ってもみなかった成り行きになったぞ、と思った。入って二日目に反体制軍の傭兵にされるとは。しかし、こうやってイヴェントを起こさないと面白くないものなのかも知れないな、とも思った。
やがて時間が来て、食事の時間を知らせるベルが鳴った。食堂に集まった「兵士」たちは百名を超える人数だった。メニューは豪華だった。カバブ、カレー料理、ナン、ビールが一本、豆のスープ。食べながら、ボブは、一か月の給料が幾らなのかサンディに確認するのを忘れていたことに思い当り、隣に座っている兵士に訊ねてみた。
「ここの月給は、おれは二千五百ペカーリ貰っているがね」と語るのはディルクという二十八歳の男で、白人、職業は傭兵となっていた。「あんた入ったばっかりか。いい稼ぎさ。ただ、夜間の外出に制限があるのと、訓練がきついのが難点だね。夜中も自由に出ていいとなりゃ、好きなだけ酒を飲んだり女を買ったりできるのによ。それだけ我慢すればあとは自由なところはいいね。おれは元々農場で働いていたんだが、その時は一日の稼ぎがよくて百、大抵は八十も貰えなかったからな。おれはここでふた月生活しているんだが、大分金は溜まったよ。これから革命を起こすらしいが、落ち着いたら農場に残して来た彼女と結婚して、田舎に引っ込むつもりさ」
と淡々と語るのだった。
食事が終わってからボブこと靖が時計をみると、もう午前一時を回っていた。
やれやれ、今日はここまでか。靖は自室に引き取って眠ると、一旦ログ・アウトした。
それにしても、こんなヴァーチャル・リアリティの世界で買春しても楽しいものなのだろうか?
翌日も、靖は夕食と入浴を済ませてから「キングダムズ」にログ・インした。
ボブは丁度起床のベルで目覚めたところだった。朝食にはスクランブルド・エッグやハムの他ソーセージまで付き、パンとコーヒーはお代わり自由だった。ボブはパンを三回、コーヒーは二杯もお代わりしたので、食事には五十分も要し、ボブが食べ終わる頃には兵舎の食堂は粗方空になっていた程だった。そこへサンディがやって来た。
「これがあなたの軍服です」サンディは言った。「替えもあります。これからはこれを着て生活して下さい。八時から訓練ですから、遅れないように外に出て下さい」
八時になり、またベルが鳴らされたので、ボブは他の兵士たちに混じって外に出た。
まず兵士たちは外のフィールドで整列させられ、広い草地の中を何周か走らされる。それから銃を取り、突撃と射撃の訓練が行われる。基本的に都市戦を想定しているので、倉庫にしまっていたらしい、ビルディングに見立てた大きな障害物を出し、その物陰に隠れて射撃と突撃を繰り返す。それからやはり倉庫から戦車や装甲車を出して来て、その運転と砲撃の練習。午前はこの訓練で大半の時間が費やされた。ボブのエネルギー・ゲージは一気に三分の一ほどまで減ってしまった。
昼食にはラザーニャとパン、デザートにチョコレート・アイスクリームが出た。これでエネルギー・ゲージはまた回復した。
午後の訓練は屋内での射撃が主だった。三十~百メートルほど離れたところにある的を射る、という訓練で、ボブは、これじゃまるで射撃というよりは狙撃の訓練だな、と思った。
思想教育も任意で受けることができた。ボブも一度聴講してみたが、いかに現在のクドゥルス帝の政治が間違っているか、そして我われが目指す共和制のあり方がいかに素晴らしいかを説くだけで、ボブにとってさして目新しいものではなかった。
ボブこと靖は安保闘争の後で大学に入った口なので、学園紛争とは縁がなかったけれども、同じワンダーフォーゲル部に、学内の生協の連中のことを指して「あいつらはアカだ」と頻りに言うものがいたため、自然そういうものだと決め込んでしまった節があったが、政治思想というものには免疫が余りない方だったので、思想教育のクラスには一回きりで出るのを止めた。
こうして、靖は「お試しコース」の段階で「キングダムズ」にすっかり入れ込んでしまった。毎日学校から帰宅し、妻や娘との形ばかりの団欒の時間が過ぎると、すぐにPCを起動し、「キングダムズ」にログ・インする。そして、平日は平均して三~四時間をゲームに費やす。休日になるとこれが更に嵩じて、午前中と午後はほぼこのゲームに没頭して過ごした。以前はまめにやっていた課題や宿題の添削も面倒になり、この頃はついお座なりに済ませることも多くなった。このゲームに没入していると、靖は自分のあの忌まわしい「秘密」のことを思い出さずに済み、その効果は麻薬的と言ってよかった。
源田家には表向き変化はなかった。この家庭は、元々妻と娘の結束が固く、主である源田靖の存在感は薄かったので、靖がTVをみていようが庭いじりをしていようが、音楽を聴いていようが本を読んでいようが真理子と真紀は全く注意を払わなかった。
さて、大分兵士の数も増えて来た。ボブも訓練にだいぶ慣れた。サンディに訊ねたところ、現在この兵舎には凡そ二百五十名が暮らしている、とのことだった。しかも、はっきりと言葉にはしなかったが、組織はこの兵舎以外にも活動拠点を持っているらしかった。現在の国民数をみると約三千名、とすると少なくとも十人にひとりが革命軍に属していることになる。
ところが、大きな動きはある夜、訓練を終えたボブがそろそろログ・アウトして靖に戻ろうか、と思っていた頃に起こった。PCのスピーカーから、個室の外で走っているらしいバタバタという足音が立て続けに聞こえ、それに続いて、
「総員起床、総員起床!」
と叫ぶ声が聞こえたのだ。
靖に戻ろうとしていたボブは慌てて迷彩服を身に着けた。外に出るか出ないかのうちに銃声が聞こえた。廊下に出ると、小走りにやって来たサンディと鉢合わせした。サンディに、
「どうかしました?」
と問うと、サンディは口早に、
「夜襲だ。武器庫へ行って早く銃を取れ」
とだけ言い残して走って行ってしまった。廊下は右往左往する兵士たちで一杯だった。戸惑ったような顔付きで早口で喋り合う者、様子を見に出ようと外へ向かう者、銃の弾倉を確かめる者。その中で、散発的に銃撃の音がした。
ボブは取り敢えずサンディの指示通り、武器庫へと走った。ボブの行動は一足遅かったらしく、もう殆どの銃器が持ち去られていたが、マシンガンが一挺残っていたので、それを持ち出した。
兵舎の出入り口に向かうと、もう大部分の兵士は外へ出て行ってしまったらしく、中には誰もいなかった。しかし、銃撃の音は聞こえて来る。ボブは恐る恐るドアから首だけ出したが、暗闇の中で何も見えなかった。しかし、聞き慣れた戦車の立てる唸りは聞こえたし、砲撃の音も聞こえたので、戦闘が始まっていることだけは分かった。
近くにいた兵士に、
「敵はどっちだ?」
と訊いたが、
「多分この訓練場の隣の牧場に陣取っているんだと思う」
とだけ返事が返ってきた。
ボブは砲撃の音が聞こえて来る方面へ向かって走った。恐らく革命軍の動静について密かに情報を収集していた政府軍が、蜂起に先駆けて先手を打ったのだろう、とボブにも見当が付いた。
ボブは尾灯で友軍の装甲車を見分け、その周辺にいる歩兵に話しかけた。
「戦闘はどこで行われている?」
「牧草地だ。敵は戦車四輌に歩兵数十名だ。この先にいる」
「どっちが優勢なんだ?」
「こっちはマクロンの別働隊にも連絡を取って、挟み打ちの恰好になっている。今は睨み合いの最中だが、直に本格的に戦闘が始まるだろう。そうなれば、こちらが優位に立てる」
「この戦闘が終わったら、このまま蜂起するつもりなのかな?」
兵士は肩を竦めた。
「知らないさ。兎に角死なないように戦うしかないのさ」
そう言うと、暗視スコープに目を当ててじりじりと移動を始めた。
ボブも銃を構え、前進を始めた。
と、前方に投光機の明かりが見えた。その中に政府軍のものらしい数輌の戦車の姿が浮かび上がった。
「援軍が到着したぞ!」
と誰かが叫んだ。
「前進しろ! 攻撃開始だ!」
その号令と共にボブの傍の装甲車や戦車はゆっくりと動き始めた。いよいよ実戦なのだ。実生活でもほとんど殴り合いの喧嘩の経験などない靖は、キーボードを叩く手に汗が滲むのを感じた。
投光機は政府軍の背後から来た友軍のものだった。投光機と共に数輌の戦車や装甲車もやって来たらしく、PCのスピーカーからは車輛からの砲撃の音に混じり、盛んな銃撃音が耳に入った。投光機の投げ掛ける光の陰で、政府軍の者と思しき兵士たちが右往左往しているのが見える。
これは、勝てるぞ。
ボブは確信した。そうなると一気に強気になり、ボブはマシンガンの暗視スコープを目に当てた。政府軍の兵士と見定めると、迷わずに引き金を引いた。
革命軍の車輛は確りした足取りで敵軍に向かって行く。政府軍の戦車も散発的に砲撃を繰り返しているが、背後にも敵がいることも分かっているらしく、どうも撤退の機を窺っているらしい。
そこへサンディがやって来た。昂奮に頬が紅潮している。
「我われは優勢なのか?」
と訊ねると、口早に、
「今はな。しかし、政府軍の援軍が向かっているようだから、このまま街道を首都へ向かって進軍する」
と答えた。
「用意は充分なのか?」
と続けて問うと、
「準備は万端整っていた。後はもう少し兵士の技術に洗練を加えたかったが、もう時間がない。このまま革命戦に突入する」
と言って、また忙しそうに走り去ってしまった。
ボブはその言葉にまた勇気づけられ、政府軍の兵士めがけて銃弾を浴びせた。武器庫からは弾倉も幾つか持って来たので、弾数は充分にある。
スクリーンには、
「You’ve killed three soldiers.」
というメッセージが表示された。そうか、三人殺したか。ようし。この調子で首都へ行くぞ。ボブは、前もってサンディから、政府軍の兵士を殺した人数とその位階によって革命成就後の待遇が決まる、と聞かされていた。つまり、たとえばクドゥルス帝その人を殺した者には革命政府でそれ相応の扱いが待っている、という訳だ。
何人だって殺してやる。
ボブは盲滅法にマシンガンを撃った。政府軍の兵士は次々に斃れた。車輛はあっという間に残骸になり、その中から、両手を挙げた政府軍の兵士が姿を現した。革命軍の兵士は降伏した兵士を撃つことはなく、銃口を突き付けて引っ立て、手錠を掛けたうえ、縄で括って捕虜にした。
「進軍だ!」
叫び声がした。ボブこと靖の身体の中でまた血が騒いだ。おれはこれまでに七名殺した。できれば戦車に乗りたかったものだ。戦車一輌潰すごとに千五百ペカーリの報奨金が貰えるのだ。
「これから我われは首都ディアスの制圧に向かう!」
「クドゥルス帝はギロチンに掛けてやるのだ!」
口づてに次々に情報が伝わって来る。それによると、この先の交差点で革命軍の残りの部隊と合流し、戦車三十輌、装甲車十四輌という体勢で首都へ向かう、とのことだった。
政府軍は完全に制圧された訳ではなかった。まだ街中には部隊の残滓が残っており、粛々と進軍する革命軍に対してゲリラ的に銃撃を加えて来た。
ボブは部隊の前方に出ることにした。その方が安全だと思ったためだ。街は夜中だというのに明かりが煌々と灯っていて、窓にはこちらを見下ろす人影が見えた。ボブは傍らの兵士に、
「みな、革命軍を支持しているのか?」
と訊ねた。そのジュリアという女の兵士は、
「そうね。全体的な支持率では革命軍の方が高いと思う」
と答えた。そして、
「お腹が減ったら、道端の商店に行けばいいわ。きっとみんな食べ物をただで提供してくれると思うから」
と付け加えた。
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