B.

 B.

「だろ?」昇は言った。「ちょっと想像も付かないよな」

「PCソフトとかじゃないと思う」嘉幸は考え考え言った。「あのPCに元々インストールしてある、カード・ゲームとかでもないと思う」

「じゃあ、何だろ?」

「オンライン・ゲームとか」

「あいつに学校でオンライン・ゲームなんかやる度胸、あるかね?」

「――さあ――」

「大体、あんなやつがパソコン・ゲームなんかに手を出すこと自体、意外で面白いよな」

 退屈な日常の中に、面白い、と感じられるものが少しでも生まれると嬉しいのである。

「あはは。まあ、そうだね」

「ところでさ」昇は言った。「おれ、伸治なんかと予備校の夏期講習を受けようかと思ってるんだけど、お前も来ない?」

「ああ、夏期講習ね」嘉幸はグラスの水を飲んだ。「それもいいけど、本当に効果あるのかねえ? あるなら、親に相談してみるけど」

「まあ、お前さんは成績がいいからまだ安心だよな」昇はそっぽを向いて言った。「この調子なら、六大学くらいには手が届くんだろ?」

「まだ分からないよ」

 嘉幸は言ったが、大体この野中嘉幸というやつはどんな問いに対しても控え目な答えしか返さないのだ。先日の模試の結果も、昇は強引に言って見せてもらったが、かなりの成績だった。

「まあとにかく、考えといてくれや」

 昇は言った。二人の昼の会話はそこで終わった。

 午後の授業は体育と古典・漢文だった。このクソ暑い中、運動場に出て四百メートル走を生徒に強要する教師とはまた乙な存在だが、そろそろプールでの水泳授業が始まることを思うと、それを楽しみにして耐えるほかない。古典・漢文は昇のような生徒にしては意外にも嫌いな科目ではなかった。まるでパズルのように単語や文法を当てはめて行けば何とか現代語になる。あと、どこの誰が考え出した言葉遣いだか知らないが、語尾を「~であるよ」とか「~なことであるよ」とかの面妖な言い切りの形にすればそれで済む。昇の模擬試験での点数の大半は、国語と数学で稼いだものだといってよい。そう考えると、やはり入試で英語の試験を課さない大学を選んだ方が得策というものかも知れない。

 ホームルームが終わると、放課後だ。この学校にも一応部活動というものはあり、合唱部こそ全国大会レヴェルなのだが、体育会系のクラブはどれも趣味で大会に参加している、といった程度のもので、野球部はこの激戦区の三回戦まで進めば「頑張った」といえるくらいのものだ。健司が時おり顔を出す軽音部にしても、音楽が本当に好きなのか、それとも恰好だけつけたいのか分からない連中だ。軽音部には幾つかバンドがあって、春の合同ライヴ、文化祭、秋の合同ライヴ、と三回人前で演奏する機会があって、昇も何度か聴きに行ったことはあるのだが、流石金持ちの高校だけあって、ドラムスもアンプで増幅していたため、その大音響にギターもベースもヴォーカルもキーボードもかき消されて、一体何の曲をやっているのかさっぱり分からなかった。健司の言うところの「ジャムって来る」にしても、本当にジャムをやっているのか、それともただ単に駄弁っているばかりなのか、昇には分からない。しかし、軽音部の連中には昇が好きなメロスピのファンも多かったから、気は合う。

「ゲンちゃんのやってたゲームって何だろうな」

 伸治や健司に混じって生徒昇降口まで廊下を歩きながら昇が言うと、二人とも同じく疑問を口にした。が、

「知らないな。――でも、校長室から出て来るゲンちゃん、泣きそうだったぜ」

「何だろうな。あんなオッサンのやるゲームだから、美少女系じゃねえの」

 と関心は薄い。伸治に至っては、

「明日の一時限目、英文法の時間だから、直接訊いてみればいいじゃん」

 と来たもんだ。

「そうだ、本人に訊くのが一番だよな」

 と健司は笑った。昇は二人の関心の低さにガックリする。

 だが、翌日の一時限目、信じられないことが起こった。

 ホームルームの後で二年G組に姿を現したのは、ゲンちゃんではなかったのだ。昇は始め、その教師が単に間違えて入って来たのだと思ったのだが、石郷というその教師は、教科書やワークブックを教卓に置くと、

「では、これから授業を始める」とのたまった。「ええと、G組はどこまで進んでいたのかな? ちょっときみ、ノートを貸してくれないか?」

 一番前に座っている平田からノートを借りると、石郷はそれを開いてみて、ああそうか、という風にふんふんと頷き、

「では、仮定法の続きをやろう」

 と言った。昇は目の前で展開している光景が信じられず、思わず手を挙げた。

石郷がそれを認めて、

「はい、きみ」

 と言った。昇は、

「あのう、授業とは関係ないんですけど…、ゲン…源田先生はどうしたんですか?」

 と訊ねた。それは、G組一同の思いを代弁していたと言っていいだろう。石郷は、その質問は待ちかねていた、という風に、

「ああ、源田先生なら一週間お休みになられる」

 と言ったのだった。

 昇にとっては、その一時限目はもう授業どころではなかった。気持ちがあっちこっちに行って黒板や教師に集中できないのだ。一時限目が終わると、休み時間はクラス中、その話題で持ちきりだった。

「ゲンちゃん、どうしたんだろうね?」

「風邪か旅行じゃないの?」

「でも、旅行に行くなら行くで前もって言っておく筈だろ」

「それに、あの堅物のゲンちゃんが六月に旅行に行くなんて信じられない」

 昇は、あちらのグループ、こちらのグループと首を突っ込んで各々の評定を聞いてみたが、どうにも納得行かなかった。

 こいつはやっぱりおかしいよなあ…。何かある、としか思えないんだけど。

 いつもは威風堂々としているゲンちゃんが、この間の職員室で見せた奇妙におどおどした表情。職員室で叱られていたということ。そして一週間の休暇。

 この問題は、三時限目の幾何の問題よりも昇の頭を悩ませるのだった。昇は授業中も顔を伏せ、両手を頭に当てて考え込んでいたので、生徒たちに問題を解かせる間、机の間を歩き回っていた橋元教諭が、

「どうした脇田? お前でも得意の幾何で悩むことがあるのか?」

 と訊いたほどだった。

 昼休みになった。昇は健司や伸治たちのグループに混じって昼を食べた。伸治は、

「おい昇、お前夏期講習行けるのか?」

 と訊いて来た。昇は頷いた。

「いや、まだ分かんないんだ。――健司も来るの?」

 健司はご自慢のレス・ポールでコードを掻き鳴らしていたが、

「行くよん」

 と答えた。昇が、

「お前の友だちの女の子たちも来るの?」

 と訊くと、

「分かんない。誘えば多分来るんじゃないかな」

 と答えるので、

「じゃ、おれも行きたいな。ぜひ誘えよ。おれにも紹介してくれよ」

 と昇は健司に迫った。

 しかしなあ、と昇は思う。ゲンちゃんのことでは、誰も不審に思っていないらしい。こいつはきっと何かあると思うんだけどな。

 昇は、自慢ではないが自分はこのクラスで一、二を争う切れ者だと自負している。その昇が、こいつはおれと互角ではないか、と目を着けているのが竹下幸男だった。ぱっと見の風采は上がらないし、性格も大人しく、家は豆腐屋をやっているとかで暮らしは楽ではないらしいが、成績はいつも上位につけている。それに、話していると時どきキレのいいコメントを口にしたりする。

 昇は好物のアップル・パイの最後の一切れを口に放り込み、ペプシを飲んでしまうと、のほほんとしている伸治たちの席を離れ、二、三人で固まって飯を食っている幸男に近寄った。

「よう、竹下」

 昇が呼び掛けると、幸男はちょっと吃驚したように振り向いた。

「何か用?」

「飯食ったらでいいからさ、ちょっと話があるんだよ。廊下に出てくれないかな?」

「分かった。いいよ」

「悪ぃな」

 昇が廊下で待っていると、幸男は四、五分でやって来た。色白で背が低いので、一人でいると余計に頼りなげに見える。

「あのさ」幸男の顔を見るなり、昇は切り出した。「ゲンちゃん、休んでんだろ?」

「うん」

「あれ、何かおかしいとは思わねえか?」

「おかしい、って?」

「ゲンちゃんが校長室で叱られてた、って話は、お前聞いてるか?」

 昇が問うと、幸男は目を丸くして、

「ううん。知らない」

 と答えた。昇はそこで、職員室のゲンちゃんのただならぬ様子に始まり、今回のゲンちゃんの急な休暇が不審に思える点に至るまで、自分の思うところを詳しく話して聞かせた。

「なあ、こんな時期に急に休暇を貰うなんて、どう見たっておかしいだろ? お前もそう思わねえか?」

「そう言われれば、そうだなあ」

 幸男はそう言って腕組みをした。昇はやっと同士を見付けたような気分になった。いや、G組で二人目の人類を発見した気分、と言うべきか。

「誰か、事情を知ってそうなやつ、いねえかなあ?」

「ううん」幸男は腕組みをしたまま考え込んでいたが、やがてぱっと顔を輝かせた。「こんな話、聞いたことないか?」

「どんな話だよ?」

「源田と、化学の宮島と仲が悪い、って」

「それ、マジ?」

 源田は今年で四十八になるとか言っていた。宮島は三十前だ。宮島はこの大聖寺学院の出身なのだが、源田とは師弟の関係にあったらしい。

「うん。宮島がこの学校に通っていた頃から折り合いは悪かったらしいよ。源田が出した宿題は一切やらなかったんだって。それが、宮島がここに採用されてから、本格的に仲が悪くなって、二、三年前には職員会議で大喧嘩をやらかしたこともあるって、去年新田が言ってた」

 新田は少々口が軽い英語の教師で、幸男が所属している英語部の顧問を務めている。

「ホントかよ?」

「うん。確かにそう聞いた。宮島に訊けば、何か分かるかも」

「わざわざさんきゅ。いい話聞けたぜ」

 昇はまた午後の授業は上の空になってしまった。午後は英語の読本と物理だったが、昇はろくろくノートも取らずに時間を過ごした。

「昇、一緒に帰ろうぜ」

 ホームルームが済むと健司が寄って来た。今日は軽音部との「ジャム」には行かないらしい。うまくするとマクドナルドで奢って貰えるかも知れない。だが、昇は、

「おれ、ちょっと用があるんだよね」

 と言った。

「えー、どこに?」

「んー、職員室とか、あとちょっと」

「ああそう。ちょっとなら待つよ」

「んーと、もしかしたら結構待たせちゃうかも」

「あそう」健司はブルジョアの鷹揚さで答えた。「じゃあ、先帰るわ。また明日な」

「ああ。バイバイ」

「明日はガンマ・レイのCD、忘れないで持って来るから」

 伸治はどこに行ったのか分からない。尤も、今回の件は昇の隠密行動なので、その方が都合がいい。

 取り敢えず、昇は職員室を訪問した。

「二年G組の脇田です。失礼しまーす」

 と規則になっている通りに挨拶して中に入ると、宮島の姿を探した。放課後の職員室の中は閑散としており、机に向かってPCや書類に向かう者、課題の採点をする者などがそこここにいる以外、部活動の指導にでも行っているのか、ホームルームが長引いているのか、思ったより教師の数は少なかった。宮島の姿もなかった。

 昇は何となくゲンちゃんの席に向かった。もちろん本人の姿はなく、灰色の椅子は事務机にぴったりと押し付けられている。机の上には、英語の教科書類や生徒指導法のような書籍が立てて置いてある他は綺麗だ。ノート・パソコンもどこにも見えなかった。と、背後から、

「どうした脇田、何か用か?」

 と声がした。振り向くと、担任の矢崎が立っていた。

「え、あ、あの」昇は口ごもった。「源田先生どうしたのかな、と思いまして…」

「源田先生なら一週間お休みだぞ」矢崎は何か文句でもあるのか、といった調子で言った。「源田先生に何か用か?」

「い、いえ、いいんです」昇は首を竦めてしどろもどろな返事をした。「源田先生が戻ったら、また改めてお話を伺いますんで」

 昇は這う這うの態で職員室を逃げ出した。

 職員室にいないとすると、宮島はきっと化学準備室だろう。化学部の実験準備でもしているのかも知れない。

 昇は別棟になっている化学準備室へと急いだ。準備室はB棟の二階だ。早くしないと、化学室で実験でも始まっていると厄介だ。

 階段を駆け上がり、昇は化学準備室のドアを叩いた。間をおかず、

「はい」と返事があり、内側からドアが開いた。宮島だった。「何だ?」

「せんせー、ちょっとお伺いしたいことがありまして」

「何だ? 授業に関することか? おれ、これから化学部の面倒を見なきゃならないんだ。質問なら早くしてくれ」

 昇はどう切り出そうかちょっと迷った。

「その、授業そのものに関することじゃないんですけど…」

「じゃあ、何だね?」白衣を着た宮島は苛立たしそうな声を上げた。「早く言ってくれ」

 昇の腹は決まった。

「じゃあ訊きますが」昇は微かに手の震えを感じた。「源田先生、どうして学校を休まれているんですか?」

 一瞬の間があった。宮島は真顔である。昇は宮島が自分の目の前でドアを閉めてしまうのではないか、と思ったが、意に反して宮島は戸口から身を引いて、昇を化学準備室に導き入れた。化学準備室とドアで繋がっている化学室からは、化学部の生徒たちのものらしき声が聞こえて来る。

 宮島は昇を化学準備室に招じ入れると、昇の顔を真正面から見た。口元には微かに笑みが浮かんでいる。

「また、何でそんなことが気になるんだね?」

 宮島は昇に問うた。

「え? あのー、そりゃー、源田先生突然消えちゃうし、宮島先生なら何かご存知なんじゃないかと思ったんでー」

 昇は言いにくい口調で話した。警官に職務質問でもされているような気分だ。

 宮島はきっと話を逸らすだろう。昇はそう踏んでいたのだが、意外や意外、

「そりゃ、知ってるさ」と簡単に答えた。「どうして知りたい?」

「いやー」昇はまた冷や汗をかきながら言った。「いきなりのことだったし、ちょっと気になりまして…」

「教えて欲しいのか?」

「はい」

「それは構わないが、ひとつふたつ条件がある」

「何ですか?」

「できれば誰にも言わないことだ。それから、おれから聞いたとも言わないこと」

「はい」昇は即答した。「分かりました。守ります」

「きっとだぞ」相変わらず薄笑いを浮かべながら宮島は言った。「守ってくれないとおれの立場がなくなるからな」

「はいっ」

 昇は直立不動の姿勢で答えた。

「よし」宮島は言った。「話は簡単さ。つまりは、謹慎中の身の上だ、ということだ」

「は?」

「校長から一週間の謹慎処分を受けたんだ。だからだよ」

「ああ」昇にもようやく事情が腑に落ちた。「そういうことでしたか」

「理由は知っているのか?」

「はい。ゲームをやっていたからだ、と思うんですが」

 宮島は頷いた。

「その通り。勤務時間中にゲームをやっていたから、処分を喰らったんだよ」

 昇は宮島の気前のよさに付け込んでみることにした。

「そのゲーム、何だったんですか?」

 しかし、宮島は首を横に振った。

「そこまでは言えない」そして、もう一度表情を引き締め、「いいね、約束は分かっているね」

 と念を押した。昇は頷いた。

「よし。それじゃあ、もう帰りなさい。おれからお前に話せることはもう一切ない」

 昇の目の前で化学準備室のドアは閉じられた。昇は未だにどきどき打っている心臓を抱えて階段を下りた。緊張がまだ解けていないのだ。昇の脳内では、きっとまだアドレナリンが盛んに分泌されていることだろう。

 しかし、理由は分かった。

 そうかあ。ゲン公、謹慎処分を喰らったのか。また、あいつらしくない失態をやらかしたものだ。

 昇はもう生徒の姿もまばらな廊下を通って昇降口を出、自転車置き場に行くと、携帯を取り出した。ここなら誰にも通話を聞かれずに済む。

 まずは、アドレス帳から健司の番号に掛ける。

 二、三度の呼び出し音で、健司は出た。

「よう」

「どした、昇?」

 昇は昂奮して早口に、

「分かったんだよ、分かったんだよ」

 と言った。

「分かったって、何が?」

「ゲンちゃんが学校を休んでいる理由」

「へえ。で、何で?」

「学校でゲームやってるとこを校長に見つかって、謹慎処分を受けたらしい」

「えっ!?」健司の声の調子が変わった。「マジ?」

「ああ。マジ」

「誰から聞いた?」

「おっと、それはちょっと言えねえんだ。だけど、ガセネタじゃねえことは保証するよ」

「そっか。あいつも案外抜けてるんだな。で、何のゲーム?」

「それが分からねえんだよ」昇は不服そうな声を立てた。「教えて貰えなかった。もっとも、向こうも知らねえのかも知らないけど」

「うん」

「話はそんだけ。じゃ、また明日な」

「ああ。またな」

 本当なら竹下幸男にも教えてやりたいところだが、昇はふだん幸男とひんぱんに遊んだりしている訳ではないので、肝心の連絡先が分からない。

 顔の広い健司に知らせておけば、間もなく話は広まるだろう。

 こりゃ、ちっとは面白えものが見られそうだな、と思いながら、昇はペダルを漕いだ。


 源田靖は自宅の書斎でPCに向かっていた。

 いけない、とは分かっていたつもりなんだがな。

 靖はそう心中で呟き、キーを叩いた。

 おれはこのゲームに取り付かれてしまったのだろうか。たかがゲームに。下らないゲームに。

 しかし、実際、このゲームを始めて以来、靖の余暇のほとんどがこのゲーム、「キングダムズ」のために割かれているのは動かし難い事実だった。

 前の夜、妻の真理子に謹慎処分を受けたことを説明すると、妻は軽蔑したような顔で靖の顔を見たものだ。

「だから言ったじゃないの。気を付けなさい、って。真紀にも示しが付かないわよ。もうあんなゲームは止めて下さい」

 そして真理子は、娘の真紀にまで、

「お父さん、学校でも『キングダムズ』をやってるところを見つかって、一週間の謹慎ですって」

 と告げてしまった。すると真紀まで、

「お父さん、情けなーい」

 と真理子の口調そっくりに言うのだ。

 元々源田家では真理子と真紀の結束が固く、靖はそれを少し離れたところから指を咥えて見ているような感じがあったので、これは靖に尚更ダメージを与えた。決まりも悪かった。

 そもそも靖が「キングダムズ」を知ったきっかけは、どこかのウェブ・ページに貼り付けてあったバナー広告からだった。それまでは、このゲーム――というよりは正確にはメタヴァースのことも、それを運営しているドリーム・フィールド社のことも何一つ知らなかった。靖は間違ってバナー広告をクリックしてしまい、「キングダムズ」のトップ・ページに導かれ、そこから出ようとしてまた間違えて「入会」のボタンを押してしまったのだ。自分の意志で入った訳ではないので、すぐに退会しようとしたのだが、その前にメタヴァース「キングダムズ」の中身を少し覗いてみよう、と余計な好奇心を出したのが過ちの元だった。

 「キングダムズ」はメタヴァースであるから、自分の三次元のアヴァターとなって歩き回り、擬似三次元空間内の様々なヒトやモノと交流を持って進行して行くゲームである。これが他と違っている点は、入会時に支払う金の額によって、「王」「王子」や「公爵」「侯爵」「伯爵」「子爵」「男爵」などの地位が得られ、王位を得た者は自分の王国を持つか、或いは他会員の「統治」する王国に王位継承者として加わることができ、爵位を持った者は当該爵位に就く者を「公募」している王国に「応募」することができる。また、もちろん王族や貴族ではなく、平民として参加し、場合によっては「村長」や「市長」となったり、クーデターや革命を起こすこともできた。平民となる者は自由に職業を選ぶことができ、これは途中で別の職業に「転職」することもできた。更に、人間だけでなく、ペットとして飼育される動物として登録することもできた。王になれば、どこそこの国と同盟を結んで結託したり、戦争を起こしたりする選択もできた。もちろん寿命や病気や戦争など種々の原因で死ぬこともあり、その場合は「魂」となって別の人生を選び直し、一からやり直すことができた。また、態と病気に罹って、「自主的な死」を選ぶことさえできた。使用言語は当然英語である。言葉は全て漫画の吹き出しのようになって現れる。人種も選べる。宗教も選べる。無宗教でも構わない。

 こうして「キングダムズ」の概要が頭に入ったとき、靖は、ちょっとやってみてもいいか、という気になっていたのである。「お試しで参加」というコースがあったからだった。

 「お試しで参加」ボタンを押すと、名前やメール・アドレスを登録する必要はあったが、取り敢えず「平民」としてゲームに参加することができた。一旦登録すると目の前には世界地図が広がり、各国の版図を一瞥することができた。

 それを一瞥した靖は思わず刮目した。世界中のあちらこちらに、これまでの人類の歴史上存在しなかった王国・公国・共和国などが所狭しと並んでいる。例えば現実のイングランド、スコットランド、ウェールズがある辺りには共産主義国が一つ、二つの小さな共和国、一つの大きな専制君主国が並んでいた。ユーラシア大陸はざっと三百はあろうかと思われる大小の国家がひしめいている。新大陸も同様だ。日本など、北海道から本州、四国、九州に至るまで戦国時代の群雄割拠を思わせる状勢だ。

 靖はそれを見た途端、何か自分の血の中で渦巻いているのを感じた。そうだ、血湧き肉躍る、とはこういう感じだった。靖は久しくそうしたものから遠ざかっていたから、とても新鮮な感覚だった。こういう感じを覚えたのはいつ頃が最後だろうか。大学時代、ワンダーフォーゲル部に参加して沢歩きをしていた頃か。結婚した時にはこういう感覚はなかったと思う。娘が生まれて、家族が「2+1」になってしまってからは尚更だ。

 地図上の、各々の国の上にカーソルを合わせると、その国の簡単なプロフィールを見ることができる。首長の名、国民数、大体の国力など。

 靖は取り敢えず、十五日の「お試し」コースを、アクバル帝国という、現実にはブラジルの辺りに位置する国で平民として過ごすことに決めた。今はクドゥルス皇帝という首長が統治しており、現在の国民数は二千七百名余り、それ程大きな国ではない。

 「入国」に当たって、改めて靖の本名やハンドル・ネーム、年齢や性別を入力する必要があり、その際に統治者の名前ややや詳しいプロフィールをみることができた。アクバル帝国の皇帝クドゥルスは本名を非公開にしていたが、性別は男、年齢は三十三歳、実際の職業は自営業、となっていた。尤も、本当かどうかは分からない。靖は「ボブ」というハンドル・ネームにして「キングダムズ」に「入国」することにした。「キングダムズ」では年齢も自由に設定できる。靖は実際の四十八歳ではなく、二十三歳、とした。人種は白人、宗教は仏教徒、身長は百八十一センチ、体重は七十七キロ。

 世界地図上のアクバル帝国をクリックすると、この帝国の更に詳しい地図が表示される。首都ディアスを中心に主要な都市や農村が点在している。靖はその中から、首都から直線距離にして百キロ余り西に当たる、ポプルスという都市に居を定めることにした。

 地図上のポプルスをクリックすると、たちまちスクリーンは三次元に切り替わり、靖は陋巷ポプルスの街頭に立っていた。靖が確認すると、最初にメッセージがあった通り、所持金は一千ペカーリきっかり(このメタヴァースでは通貨は全世界で一種類だけだ)、職業は肉屋、となっていた。

 靖が立っているのはどうやら市場らしく、生鮮食料品などを売るテントが並び、忙しくひとが行き交っていた。靖、いや、ボブは、取り敢えず道の両側に並んだテントを覗いて回った。

「ここ、トマトが安いよ」

「新鮮な魚はいかがかね。今日はサバの入荷が多かったから、安くしとくよ」

 靖は夕暮れが近い街中を歩きながら、肉屋を探した。徒弟としてでも構わないから、肉屋に雇って貰い、まずは金を稼ぎたかった。頭脳労働者としての経験しかない靖には、肉体労働の仕事は未経験だったし、その分新たな気持ちで仕事に取り組めそうだった。

 肉屋は市場の隅の方に位置していた。肉屋の主人は髭を生やした中年の男で、夫婦で店を切り盛りしているようだった。主はボブの姿を認めると、客だと思って近付いて来た。

「お客さん、今日は鶏のぶつ切りがいいの入ってるよ。スープにどうだい?」

 ボブは、

「わたし、客ではありません」

 とたどたどしい英語で言った。すると、ホアンと画面にその名が表示された主人は、ちょっと警戒するような姿勢を取った。このアクバル帝国では地方都市の治安はあまりよくなく、強盗も時おり出没するとの情報はボブも得ていたので、すぐに、

「わたし、金取り、ないない」

とボブは慌てて否定した。序でに、覚えたてのジェスチュアを交えることにして、顔の前で手を振って見せた。

「では、何の用だ?」

 ホアンは相変わらず警戒の姿勢を崩さずに問うた。奥から奥方も出て来たが、手には棒を握っている。

「わたし、ここで働きたい」

 ボブがそう入力すると、ホアンはやっと警戒を解いたようだった。

 ジュリアと名前が表示されている妻も、棍棒を下に置いた。

「あんた、うちで働きたいのかね」

 ホアンは問うた。

「はいです」

そして、ホアンはボブの簡単なプロフィールを見て納得したらしく、

「なるほどね」とは言ったが、「あいにくだが、うちんとこは二人で切り盛りするので精いっぱいなんだよね」と言った。「済まないが、他へ行ってくれないかね?」

 そんな訳で、ボブのアクバル帝国入国後初めての就職活動はうまく行かなかった。

「この街には、他に肉屋あるか?」

 ボブはホアンに訊ねた。返事は、

「あるとは思うが、わたしは知らない」

 とのことだった。ボブは、そろそろ日が暮れそうな外を見て、一夜の宿を求めたが、

「うちではあるじ設けはしない」とけんもほろろだった。「あんた、もしかしてここに参加したばかりかい?」

 そうだ、と答えると、

「なら、取り敢えず宿屋へ行くことだ。宿屋なら二食付きで三十ペカーリで泊まれる。宿屋に泊まりながら、あちこちで就職の口を探すことだな。場合によっては転職も考えた方がいい。この帝国では肉屋は余り儲からない職業だからな。実のところ、うちらも転職を考えているところだ」

 と初めて親切な言葉が返って来た。

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