スビタスと王
深町桂介
A.
A.
「ああ、退屈だよなあ」昼休み、昼食のサンドウィッチを食べながら脇田昇はぼやいた。「どっか面白いもん、転がってねえかなあ」
「帰り、ゲーセンでも寄ってく?」野中嘉幸が弁当の焼売を頬張りながら言った。「またあれ、対戦でもしようか?」
「おれ、あんまりカネ持ってないんだよね、そもそも」昇はユニマットの自販機で買ったセブンアップのカップを傾けながら言った。「あんまりカネかからなくて、面白いことってねえかな」
「カネないなら、中野とか坂口にくっついてれば?」
ふたりと同じ二年G組の中野健司の家では精神科医院を開業しており、車庫にはボルボのS60とサーブの93カブリオレが収まっている。坂口伸治の父親はソフトウェア開発会社を経営しており、逗子の別荘に自家用のヨットを持っているという話だ。
昇の父親は電力会社のサラリーマンをしている。嘉幸の父親も生命保険会社のサラリーマンをしているので、似たようなものだ。
「まあね」昇はパンの包み紙を開けながら言った。「マックで時どき奢ってくれるもんね。あいつらも部活やってないし、ゲーセンに連れて行けばちょっとくらいは遊べるかも」
「でも、金持ちって凄いケチだって話もあるじゃん」
嘉幸は他の者に聞かれないように小声で言った。
「うん。金持ちってのは、基本的にケチなもんだよ」昇は認めた。「ケチだからカネ持ってるワケさ。でも、そりゃ基本的に土地持ちの話だよな。地主は骨の髄までケチ。でも、あいつらみたく、家で何か事業をやってるってとこの連中は、結構財布の紐がユルいよ」
「じゃあ、帰りは坂口でも誘ってみようか?」
「ううん」昇は否定的な唸りを上げた。「ゲーセン、飽きちゃったよ。どこの店行っても同じようなゲームしかねえんだもん。何かさ、こう、知的好奇心を満足させてくれる話ってないかなあ」
「そりゃ、難しいよなあ」
嘉幸は先ほどから、ひと月も前に昇に貸した「寄生獣」の漫画全十巻のことが言い出したかったのだが、中々きっかけがつかめなかった。むろん、言い出しても直截に「返してくれ」などとは言えない。「どこまで読んだ?」程度が精いっぱいである。
「次、英語だったよな」昇は言った。「おまえ、宿題やって来た?」
「うん」
「ちょっと見せてくれよ」
「いいけどさ」
「寄生獣」の「き」の字を言おうとしたその前に、昇は、
「ほら、早く見せてくれよ。授業始まっちまうじゃんか」
と急かした。嘉幸は漫画本のことを言い出すのはひとまず諦めて、英文法の授業のノートを昇に渡した。
昇は仮定法の問題の答えをさささっと写すと、
「さんきゅ」
と言って嘉幸にノートを返した。
すぐにベルが鳴り、授業が始まった。皆から「ゲンちゃん」と呼ばれている源田靖教諭は、いつもと変わらず、時間通りに二年G組に姿を現した。
(ふひぃ~)
昇はいま、前から三番目の席だ。ゲンちゃんは堅物だし、隠れて机の下で漫画本を読みふけっているような訳には行かない。英語が苦手、というか嫌い、というか英語という言語と相性が悪い昇は、読本の時間でも文法の時間でも、常に教師の目に留まらないよう首を竦めて過ごしていた。
「つまり、この『God have mercy on them.』というのは…」
源田の声は昇の右の耳から入り、左の耳の穴から抜けて行く。
源田はカテイホウゲンザイについて説明を終わり、カテイホウカコというものについての説明に移る前に、宿題の答え合わせを始めた。
「じゃあ、この(3)は脇田に答えて貰おう」
(来たー)
うろたえながらも、先ほど嘉幸から借りたノートを見て、正解であることを祈りつつ、
「If you said so, you should apologize.」
とたどたどしい発音で答えた。
(嘉幸の野郎、間違えてたら承知しねえからな)
という思いが一瞬渦巻いたが、一瞬の後、源田は、
「そうだな」と頷いた。そして、「つまりこれは仮定法過去とは違って――」
と問題の解説を始めたのを聞いて、昇は死ぬほどほっとした。心臓がバックンバックン言っている。こりゃ、英語の時間が始まる前に、中野の親父さんの診察を受けて精神安定剤でも処方を受けた方がよさそうだ。
その後の三十分間、昇はゲンちゃんが黒板に白墨で書き付けるままを訳も分からずノートに写し、次の宿題の範囲も一応教科書に印を付けた。
この分じゃあ、来年の受験の時も相当英語で苦労しそうだなあ…。
昇たちの通う高校、大聖寺学院高校はこの近辺では公立私立合わせて一番難しい、トップ・レヴェルの学校で、毎年東大にも二、三人方入る実績があるし、難関校とされる大学からも指定校推薦が来ていて、要領がいいのはそういうルートで進学するのだが、一年の時から欠席日数が多く、おまけに数学と理科で赤点まで取ったことのある昇にはそういう進学の道は到底考えられない。こうなると英語の試験を課さない私立を受験するしかないのだが、こう見えてブランド志向の昇には、そういう妥協が許せなかった。けれども、この前の全国総合模試でも総合の偏差値は55だった。これでは日大がやっとだ。尤も、まだ高二の六月なのだし、これからしゃかりきになって勉強に励めば何とかなるのかも知れないが、昇に言わせれば、「そんなのカッコ悪くてやってらんねえ」のだった。けれども昇は、この高校を出てから、一年も二年も受験勉強に励んだ挙句、結局どこの大学にも引っかからず、フリーターになったり近郊にある自動車会社の車体工場の期間工になったりするしかなかった者もいることも知っていた。
(やっぱ、今くらいから始めねえとマズいかなあ…)
それに比して、嘉幸は成績が学年でトップ・クラスで、この分でいけば大病でもしない限り早慶上智どこでも入れることは間違いなかった。中野健司は成績もよかったが、親の口利きで私立の医科大学に入れるようなことを口にしていた。それと比べれば、坂口伸治は家は裕福でプレステに始まりフェンダーのストラトキャスターに至るまで何でも持っているが、成績は余りぱっとしない。昇とすれば、やはり健司と比べれば伸治のほうが取っ付きやすい存在だった。それに、どちらかと言えば、ポーチュガルのコロンの匂いをさせたり、ちょっと気取ってアバクロンビー&フィッチのシャツなんぞを着こなすようなところのある健司よりも、いかにも野育ちといった感じの伸治との方が気が合った。
大聖寺学院は男子校なので、女子はいない。それに、昇、嘉幸、健司、伸治の四人とも見た目があまりパッとしない方なので、これまで四人でつるんで遊んでいても女の子とご縁があったことはない。ただ一人だけ健司は中学時代から仲良くしている女の子がいるらしいのだけれども、これも「付き合って」いるというような状態からは程遠く、時どき携帯のメールを交換したり、電話で話したり、じっさいに会うことがあっても飯を奢らされたりする程度の仲らしい。それにしても、四方どこを向いても野郎ばかりで女がいない、というのは寂しかった。モテないならモテなくて仕方がないが、やっぱり目の保養も必要よね、というのが昇の持論だった。
(こんなことなら共学の公立校にすればよかったよなあ…)
昇のボヤきは果てしない。気がふさぐので、昇は次の代数、この日の最後の授業は教科書を立ててその陰で寝たふりをして過ごした。代数だけは昇の得意学科だったので、万一教師に当てられても多少戸惑うだろうが落ち着いて答えられる自信があった。
「おい、伸治」
ホームルームが終わり、何かと儀式やら行事やらの多いこの学校の特徴のひとつである、長ったらしい教師の訓示が終わると、昇は坂口伸治に声を掛けた。
伸治はまだ鞄の中に教科書やらノート類を詰め込んでいる最中だった。昇はもうそんなものは鞄に詰めて手に持っている。こういう、ちょっと周りのひとよりワン・テンポ遅れているところも昇の目には好ましく映る。
「なあに?」
「今日さ、一緒帰らない? マックでも寄って行こうぜ」
「いいよ」伸治は答えた。「でもその前にちょっと用事があるんだけど」
「なに?」
「職員室だよ。ゲン公のとこ」
「ええーっ?」昇はのけぞった。「お前が職員室に用があんの? 珍しいじゃん。――ははあ、何かやらかしたな」
「違うよ。ちょっとさっきの授業で質問があるんだよ」
「授業? そんなもの放っておけよ」昇は言った。「お前もおれもクラスのドン尻じゃん。抜け駆けするなよ」
「おれもさ、ちょっと真剣に進学のことを考えようと思ってさ」職員室に向かって歩きながら伸治は言った。「そろそろ夏だろ? 予備校の夏期講習に行くやつもいるらしいぜ。おれも盈進予備校かどこか受講してみようと思ってんだけど」
「ふうん」
昇は鼻を鳴らした。昇も夏期講習のことは頭にはあったが、余り関心はなかった。
「せんせー」職員室に着くと、伸治はゲンちゃんの席に寄って行った。「ちょっと質問があるんすけどー」
と、それまでPCに向かっていた源田はびっくりしたように振り返った。
「な、何だね?」
「ここなんですけどー。何でここ、『If it were~』になるんですか?」
「あ、そこは、今日も授業でやったけど」源田は答えたが、その言葉にどことなくおどおどした調子が乗っているのを昇は感じ取った。「反実仮想といって、現実の事実と異なる仮定をするときは、そうなるんだ。――ほら、練習問題のこことここだな、これがそうだ。この辺りは受験でもよく出るから、よく練習しておきなさい」
「はい。ありがとうございましたー」
二人は職員室を後にした。昇はどことなく釈然としない思いである。
(何だろうなー)
さっきのゲンちゃんの様子は明らかにどこかおかしかった。何か…ひとに見られたくない姿を見られてしまったかのような。しかし、昇の一瞥した限りでは、ゲンちゃんが向かっていたノートPCには、別にウェブのエロサイトなどは映っていなかった。何か堅そうな文書の類だった。
「お前もそろそろ、受験のこと真面目に考えた方がいいぞ」何も知らない伸治は昇に話しかけて来る。「おれも、この間の模試の結果のことでさ、親父にさんざんどやされたよ。こんな成績じゃとてもじゃないが明大も行けない、東大とはいわないから、せめて中央大か青学には行ってくれって」
「ふうん」
昇は気のない返事をする。それに対して、伸治は、
「お前、来年理科系コースに行くか文科系コースに行くか、もう決めたか?」
と訊ねて来た。昇は、やっとゲンちゃんの不審な態度のことから気を逸らして、
「おれ? 文科系に決まってるじゃん。微積なんかやってられるかよ」
「でもお前、代数とか幾何は得意なんだろ?」
「あれだけだよ。おれは社会は嫌いだから、数学選択で受けられるとこを探すさ」
「じゃあ経済学部系?」
「うん。お前はどうするの?」
「おれは本当は文科系に行きたいんだよね。英語、好きだし」伸治はペーパーバックでスティーヴン・キングを読んでいるのだと公言していた。「だけど、おれの親父、会社を継ぐんだったら、おれがそうだったようにいちプログラマから始めろ、っていうんだよ。だから、おれは理科系に行くことになりそう」
「今更プログラマになったって、最近のはインド人ばっかりだって話じゃん」
「だからこそだ、って言い張るんだよね。――やれやれ、青学の理工じゃ相模原の田舎まで行かなきゃなんねえ。遊べねえな。――お前、親に何とも言われないのか?」
「あんまりいわれない」昇は少し考えてから、「数学と理科で赤点取ったときは叱られたけど」
「お前、付属から入って来た訳じゃないんだろ? だったら、やる気を出せばきっとできるよ」
大聖寺学院には中等部と高等部が設置されている。伸治や健司は中等部から進んで来た生徒で、昇や嘉幸は公立の中学の出身で、高等部を受験して入って来たくちだ。
「ばかいえ、中等部なんか中三でもう高校の教科書を使って教えてるっていうじゃねえか。おれなんか、高等部に入学したばっかりの頃でもう挫折したね」
ふたりはマクドナルドにいた。駅前の繁華街にある三階建ての店舗で、ふたりは二階の窓際に席を占めていた。昇は受験の話はしているが、視線はもっぱら他の女子高生たちの方に向いている。女子高生らしい姿は、二人連れ、三人連れが三、四組ぺちゃくちゃとお喋りに夢中になっている。全く、姦しいとはこのことだぜ、とは思いながら、本音では、好機さえあれば、「隣の席、空いてます?」と話しかけたい気分でいっぱいだ。
「お前、夏期講習マジで行くつもり?」
昇は伸治に訊いた。
「うん」伸治は頷いた。「今のままの成績の伸びだと、やっぱり青学がせいぜいだもんな。せっかくなら早慶上智を狙いたいしさ。お前、どうする? 一緒に行くか?」
「どうしようかな」昇は言った。「取り敢えず、親父に訊いてみるよ」
伸治はマックシェイクに口を付け、ポテトを摘まんでから、
「健司も行くって言ってたぜ」
「ええ? あいつも? あいつ、数学も理科も英語も出来いいじゃん。あれじゃあ国立の医学部だって狙えるだろうに」
「そう、そう目論んでるらしいよ。親父さんは聖マリでも杏林でも帝京でもいいから、って言ってるらしいけど、帝大系の医学部を第一志望にするらしい」
「ふうん。おれ、遅れてるのかなあ。尤も嘉幸なんかは秋から予備校で講座を取る、って言ってたしな。おれもそろそろ腰を上げるか」
「うん。夏期講習は一緒に受けようぜ」
「考えとく。――でも、海も行きたいよな」
「そういう考えだから甘いんだよ。じゃあ、また明日な」
ふたりはマクドナルドの前で別れた。もう薄暗くなりかけている。伸治は何駅か先から通っているので、スクランブルを渡って駅方面へ歩いて行く。昇は自転車だった。
そうだな、と自転車を漕ぎながら昇は思う。もしかしたら夏の予備校で出会いのチャンスもあるかも知れないしな。夏休みまで使って勉強するのは嫌だが、伸治や健司と一緒なら何かいいことがあるかも知れない。
「遅かったじゃないの。どうしたのよ?」
家へ帰ると、母の初子が玄関先に出て来た。姉で女子大生の由梨絵はまだ帰ってないようだ。
「うん、友だちとマック寄ってさ。――予備校の夏期講習の話をしてたんだけど」
「夏期講習? お前がかい?」
「うん。一緒にどうか、って伸治から誘われたんだけど…」
「ちゃんと行く気はあるのかい? 去年入った塾だってけっきょく中途で行かなくなっちゃったじゃないの」
「今度のは集中講義だし、友だちと一緒だから、きっと行くって」
「そうかい。何でもいいけど、そろそろ真剣に進学のこと考えなさいよ。あんたがもうちょっと勉強のほうしっかりしてくれると、あたしも安心なんだけどねえ。テストで百位以内に入ったこともないじゃないの」
「知ってるさ」
「うん、まあ、夏期講習に行きたいなら行きたいで、お父さんに相談してみなさい」
夕食の席で、昇は父親の隆に講習のことを切り出した。
「へえ、あんたが予備校に行くなんて珍しいじゃん」
と、体型を気にしてのことか、最近ヴェジタリアンに憧れていて妙に肉を嫌う姉の由梨絵はサラダをつつきながら言った。
学費がどのくらいかかるのか確かめた隆は、
「うん、そのくらいなら、出してやれる。しかし、行かせる以上はきっちり勉強してくれないと困るぞ。お前は高校に入ってからろくな成績を取らないじゃないか」
「本当よ」由梨絵も口を出した。「大聖寺に入る時にはあんなに一生懸命だったのに、信じられない」
「うるさいな、黙れデブ」昇は姉に言い返した。「自分こそ、去年必修科目の単位落とした癖に」
「デブとは何よ。それに、その単位はきっちり前期で取るつもりですからね。赤点野郎」
「止めなさい、二人とも」初子が割って入った。「二人とも、あたしたちが出す学費は遺産分配だと思いなさいよ。そう思ってしっかり勉強してちょうだい」
夕食後、昇が二階にある姉との共有スペースに置いてあるPCでドラゴンフォースのライヴの情報を見ていると、由梨絵が後ろから来て、
「昇、早くしてよ」と急かした。このPCは姉との共有マシンなのだ。「あたし、レポートを書かなきゃなんないの」
「へいへい。分かりました」
由梨絵は慶應大学の環境情報学部に通っている。アルバイトにも精を出すが、学業には昇よりずっと身が入っている点で、昇は頭が上がらない。最近彼氏ができたらしく、時どき自分の部屋で頭のてっぺんから出すような声で携帯で話し込んでいたり、休みの日になるとしっかり化粧をして、どこへ行くのか朝から張りきって出掛けて行く。
昇は最後にメールだけチェックした。嘉幸からメールが入っている。そうだそうだ、嘉幸からは漫画を借りていたんだっけ、と昇は思った。それにしてもそんな話なら学校で直に話すか携帯にメールくれれば済む話だろうに、と思う。
風呂からあがって、自分の部屋で、疲れたしそろそろ寝ようかな、と考えていたところ、携帯にメールの着信があった。みると、健司からだった。
「今日放課後、学校で面白いもんみちゃった。詳しくは明日教えるから」
何だろう? 昇は首を捻った。あの堅苦しい学校で面白いことって、一体起きるんだろうか?
ああそうそう、嘉幸に漫画を借りていたんだっけ。
昇はiPodでストラトヴァリウスの曲を聴きながら翌日の支度をした。
翌朝、昇はいつもの時間に起きた。前の日には幸い宿題は何も出ていないので、焦ることなくのんびり支度をする。由梨絵は午後からの講義だとかでまだ寝ていた。昨夜も遅くまでPCを使っていたらしい。バイト代溜めて早く自分のパソコン買えばいいのにさ。
初子に昼食代を貰うと、自転車のかごに鞄を入れて昇は出発した。
途中、いつも寄るパン屋で昼食のパンを買った。学校に食堂があるが、高いし不味いので昇は使わない。学校には始業の二十分ほど前に着く。学校が近いこともあるが、欠席を除けば入学以来一度も遅刻したことがないのが昇の自慢だ。
始業までの時間は昇の休息時間だ。iPodのイヤープラグを耳に入れ、ボリュームは大きめにして音楽を聴く。机の上に突っ伏して始業までの時間を待つあいだ、昇はこの状態でうとうとすることすらあった。
昨夜の健司からのメールのことも忘れ、昇はいつもの休息体勢を取っていた。
と、そこで背中をつんつんと突く者があった。
「うーん?」
気怠い声を上げて顔を上げると、伸治が立っていた。
「おっす。何聴いてんの?」
「おっす。メロスピ」
メロスピとはメロディック・スピード・メタルの略、つまりはヘヴィ・メタルのことだ。
「何だよ。今ごろそんなの聴いてんの?」
メロディック・スピード・メタルのアルバムなら二十枚ほどCDで揃えている昇は口を尖らせた。
「何だい。じゃあお前は何聴いてんだよ?」
「まあまあ。それより、健司からのメール、見た?」
訊かれて昇ははたと膝を打つ思いだった。
「そうそう。おれんとこにも来たよ。あれ、何?」
「健司がまだ来ないから分かんないんだけどさ、ゲンちゃんが何かあったらしい」
「え? ゲンちゃんって英語の?」
「そうそう」
昇はG組の教室内を見回した。健司は金持ちの家に生まれた所為か、どこか態度が鷹揚というか悠長なところがあり、始業時間に合わせて来る方が珍しい。いつもぎりぎりの時間の電車に乗り、駅から高校まで歩く間にコンビニで漫画雑誌を立ち読みするか一冊二冊買い込み、のんびりと歩いて来るのだ。遅刻の常習犯で何度も生徒指導の教諭に絞られているのだが、本人は、
「いやあ、おれは推薦入試で進学するつもりはないから」
と笑うだけなのだった。そう言えば健司は理由のはっきりしない欠席も多かった。
「あいつ、今日休むつもりじゃないだろうな?」
伸治が言った。
「知るか」昇は言った。「それなら携帯で訊いてみるだけだ」
が、健司は出席簿を持った担任の矢崎とほぼ同時に教室に姿を見せた。
「今日のところは滑り込みセーフ、ということにしてやるか」
矢崎は苦虫をつぶしたような口調で言った。
矢崎は出欠を取り始めた。このクラスには、一人叶という不登校の生徒がいる。毎年、一学級か二学級に一人、不登校の生徒が出る。そういう生徒は進級の際に退学の手続きを取って学校から消えて行くのが常だった。叶は四月半ばまでは確かに来ているのを昇は覚えているが、五月上旬の連休に入る頃から姿を見せなくなっていた。友だちもいないらしく、昼の弁当も一人で食べていたのを覚えている。学級の生徒たちはもう叶の存在などすっかり忘れているのだが、矢崎教諭は毎朝四角四面に出欠を確認するのだった。
矢崎が去ると、すぐに一時限目の現代国語の教師が入って来る。よって、健司のメールの内容については次の休み時間まで持ち越しとなった。緊急の用件なら授業中でもメールのやり取りはできる。大概の生徒が着信音は消してバイブレーション機能だけをオンにしているからだ。が、ゲンちゃんがどう、とかいう話なら慌てて健司に確かめるまでもあるまい。
いや、どうかな、と昇は思った。昨日のゲンちゃん、確かに何だか様子がおかしかったもんな。もしかしたら大笑いの大失態でもやらかしてくれたのかも知れない。
昇は現代国語のテキストをめくりながら考えた。今現代国語では副教材を使っており、教科書は村上春樹の「沈黙」だった。悪くない話だ、と昇は思う。しかし、昇の周りには今のところ、幸いこんなに性根のねじ曲がったやつや根性のあるやつはいない。みんなが日々まったりと流されて行くだけのことだ。それは、個人的な好き嫌いや小競り合いはあるし、血の気のある運動部のやつの中には好んで殴り合いの喧嘩をするやつもいる。しかし、大概の生徒は変わりのない日常というものを好んでいる。大体、ここの学校は筋肉より頭脳を使う方に長けた生徒が遥かに大多数を占めるのだ。どうしてこんな事件が起ころうか?
退屈な現代国語の時間が過ぎると、次の時限は選択授業になっており、数学Ⅱか世界史を選択して取ることになっていた。昇は、歴史は同じことの繰り返しだと思って世界史の時間を嫌っていたので、数学を受けることにしていた。健司も同じ教室で数学を取っていた。教室移動の際、廊下を歩く健司の周りにはもう二、三の生徒が集まっていた。
「おい健司、何だよ昨日のメール?」
昇も背後から問い掛けた。健司は勿体ぶって、数学の教室に着いたら話すよ、と言った。
健司が教室に着き、席に着くと、その周りには四、五人の生徒たちの人だかりができた。健司はようやく話し始めた。
「昨日さ、放課後軽音部の部室に行ったんだよね」
健司もレス・ポール・カスタムの高そうなエレキ・ギターを持っていて、時どき「ジャムって来る」などと言っては軽音部の部室を覗きに行くのだった。
「そしたらさ、部室にナカジがいて」ナカジとは軽音部の顧問教諭の中島のことである。「おれが帰ろうとしたら、もう帰るなら、このノートを職員室の宮島に渡してくれ、って言う訳。引き受けて、職員室に行ったらさ、隣の校長室から声が聞こえて来んの」
健司はそこで一旦言葉を切り、一口「午後の紅茶」を口に含んだ。
「校長の声なんだけど、明らかに怒ってんだよね。『そんなことで大事な生徒指導をきみに任せることはできないよ』とかって怒鳴ってるの。おれ、思わず聞き耳立てて聞いてたら、『まったく、わが校の教員が放課後にパソコンでゲームなんかやっているなんてことが外に知られたら、それこそ末代の恥です』とかって。そうやって五分くらい怒ってたんだけど、そこで声が低くなってね。それからまた暫く説教してたみたいなんだけど、校長の怒りもそこで収まったのか、何分かして誰か校長室から出て来るワケ。で、誰が出て来るのかみたら、ゲンちゃんなんだよ」
それで健司のメールの内容が分かった。
「あはは。ゲンちゃん、職員室でPCゲームかよ」
とか、
「エロゲーじゃねえの」
などと混ぜ返す者もいたが、なあんだ、という顔をして去って行く者もいた。健司自身は、その話が相当気に入っているらしく、思い出したようにまた笑っていた。
昇は、げらげら笑ったりしなかったし、また、何だよ大げさに、と白けたりもしなかった。ふむふむ、と思ったのだ。昨日みたゲンちゃんのどことなく後ろめたそうな表情と、叱られて悄然としているゲンちゃんの姿とがどこかで重なったからに違いない。
そうかあ、と昇は思った。ゲンちゃん、PCゲームにハマってんのかあ。
確かに、ゲンちゃんの机は職員室の端の方にあるし、こっそりゲームをやろうとすればできないこともなかろう。
しかし、昇には当然来るべき次の疑問が湧いて来たのだった。
一体何のゲームだろう?
まさか、ウインドウズに付属のソリティアやマインスイ―パではあるまい。
何だろう?
昇の関心はその一点に集まり、数学の授業は上の空だった。
やがて午前中の授業は全て終わり、昼食の時間になった。昇は、学食で食べるという嘉幸に付き合って、サンドウィッチの包みを抱えて廊下に出た。
「漫画、どうもありがとうよ」
混み始めた学食に席を取ると、昇は嘉幸に漫画十巻の入った紙バッグを手渡した。嘉幸はほっとした表情で受け取ったが、今度は心配そうな表情で、
「もう、全部読み終わったよね?」
と訊ねた。昇は苦笑して、
「ああ、もう三回も読んだ。面白かったぜ。さんきゅ」と言ってアップル・パイの包みを破いた。そして、パイにかぶり付きながら、「おい嘉幸、面白そうなこと、見つかったぜ」
と言った。嘉幸も顔じゅう耳にして、
「え? 何?」
と訊ねた。昇は健司の話をそのまま伝えた。ついでに、自分がみた職員室でのゲンちゃんの印象も伝えた。
「ふうん」嘉幸はカレーライスのスプーンを咥えたまま小さく唸った。「あの生真面目一徹なゲンちゃんが、ねえ…」
「な、意外だろ?」昇は言った。「あのゲンちゃんが、職員室でゲームに夢中だなんて、想像もできやしねえよな」
「ああ」嘉幸も同意した。「だけど、何のゲームだろうね?」
昇はサンドウィッチを置いて、テーブルをどんと叩いた。隣に座っていた生徒がちらりとこちらを見た。
「そこなんだよ」昇は言った。「一体、あのゲンちゃんもハマるゲームって言ったら、何だと思う?」
「分かんないなあ」嘉幸は遠くを見る目で言った。「想像も付かないや」
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