枯れた大地 (1)
そこにたどり着こうとしてはいけない
そこなどどこにもないのだから
本当にあるのはここだけ
今という時にとどまれ、体験をいつくしめ
一瞬一瞬の不思議に集中せよ
それは美しい風景の中を旅するようなもの
日没ばかり求めていては、夜明けを見逃す
__ブラックウルフジョーンズの言葉より引用
掠れて乾いた傷だらけの手に息を吹きかけて指先を暖めた。砂埃が吹き荒れるひび割れた大地で私は遠くの井戸から水を運び、枯れ枝を拾うのが仕事だった。
「さっさと運びなピグミ、もう赤ん坊じゃないんだからアンタもここの奴隷だ。もうアタシの飯はやらないよ」
布の切れ端を着たボサボサ頭の女が、砂埃で濁った目を私に向けるとまたバケツを肩に担いで先を行く。風が強く吹いて頬に当たると砂埃でひどく痛かった。
恨めしく風の吹いてきた方を睨むと地平線に僅かばかりの夕陽が乾いた大地を赤く染め、カサカサの指の節くれから滲む血の色とよく似ていた。
一羽の鷹が声を上げ、雲の上を滑空して夕日に向かってこの地に目もくれず飛んで行った。鳥でさえ、ここには何も無いのを知っている。
私が生まれた地は首都のラグゥサから遠く離れた痩せた土地。地方権力者が小さな領地で権力を振るう小さな屋敷だった。
昔は魔石や鉱石の採掘で栄えていたようだが、限られていた資源が少なくなっても先代の領主は贅沢三昧の生活を変えられず土地は一気に荒れた。切り盛り出来ない乾き切った大地と、見限った土地の人が減ってもここの領主は領地にしがみついたそうだ。
奴隷は財産だという、たった一人の屋敷の主人は私の両親に子供を育てろという命令だけをくだし、私は生まれた瞬間に亜人のうさぎ耳を染色され、識別用の奴隷の烙印を押され育てられた。
父親も母親もそのまた両親も生まれた時から代々この家の奴隷、私が生まれたのも心が通じ合った訳ではなく、本能的に求めあった獣のような成れの果て。
劣悪な環境で育った二人には、家族という概念を持ち合わせていなかった。慈愛や庇護などなく、教育というものを知らずに生かされているだけで育った両親は理解できる言葉も少なく、与えられた仕事をこなして食事をもらうだけの生活が当たり前だった。
両親と違った奴隷もいたけど、その人たちは外から攫われてきた人たちで、生存本能の強い元から居た両親のような奴隷に蹴落とされ血を流し死んでいった。屋敷から逃げても、この地は隠れる木もなくどこまでも平面で、あの頃は世界はここだけだと思っていた。
一人で走り回れるようになってからは、両親は私の面倒を見るのを解除されて同じ奴隷として扱われた。
砂埃で年中埃っぽい床を這い、力を込めて磨いていたら台所の方から何かが割れる音がした。様子を見にいくと私と同じ染色されたうさぎ耳の男が落ちた皿を見つめていた。
あれはこの屋敷で主人が使う上等な品だ。呆然と見下ろしていた男の代わりに砕けた破片を拾っていたら、仕事でボロボロの私の手を掴み乱暴に引きずられた。
「ご主人様、ピグミがまた皿を割りました。こやつの処罰はどうしましょうか」
憤慨した屋敷の主はまだ幼い私も容赦なく叩く。同じ兎の耳の男は私を見下ろし、止めようともしなかった。
私の面倒を見るのは仕事が増えたくらいにしか思っていなかった両親は、事あるごとに屋敷の主人に私の報告をしては時に自分たちの失敗にも利用した。粗相をした奴隷は叱責され時に鞭でひどく叩かれ、報告をした奴隷に食事を奪われる。
私は極度の栄養不足で体は極端に小さく、少ない食事で体力が持つように順応したのか体は成長を止めた。いいことだ、打たれる面積は少ない方がいい。
その日は風が少なく、砂埃に目を霞ませられることもなく空を見渡せた。いつもより枯れ枝も拾いやすく、岩陰に小さな薄桃色の花を見つけた。乾いた大地を割って生えたそれは、生まれて初めて見る色だったのかもしれない。私がしばらくその花に目を向けて、ふと風が止まったので空を見上げた。遠い雲の奥、むき出しの大地が空に浮かんでいた。
「ねぇ、あれなに……?」
いつものボサボサ頭の女に尋ねた。私の指差す方角を辿り、女はゆっくりと空に向かって顔を上げた。女が黙って見つめていると遠く屋敷の方角に馬の嗎が聞こえ、奴隷たちが一斉にそちらを向いた。十頭ほどの馬や翼の生えた生き物たちが屋敷を取り囲んでいる。
取り憑かれたように奴隷たちが枯れ枝を放り投げ、一目散に屋敷に駆けて行った。
「……あれは世界樹のある浮島、可哀想な子供を迎えにきてくれる島だ」
いつも私の事を密告するうさぎ耳の奴隷の男が薄桃色の花をちぎり、私の手に持たせると頭頂部を撫ぜた。大きくてゴツゴツした手が離れると、高く跳躍して他の奴隷と同様に屋敷に駆けていった。先にたどり着いた奴隷たちが馬に乗った人達に襲いかかっているが、次々と倒れて行く。ボサボサ頭の女はまだ浮島と言われた空の大地を見上げていた。
「私はここが浮島だと言われて育ったが、本当は違ったのだな……世界樹に住む女神様がお前を迎えにきてくれたよ」
女は髪の隙間から私に一瞬目を向けると、浮島に背を向け私を置いて屋敷に走って行った。
私は某然と佇み、二人の背中を見つめていた。なぜみんなが慌てて走って行ったのかわからず、皆と同じようにしなければまたあの太った大男にムチで叩かれてしまうのかもしれないとトボトボと屋敷に戻った。
「なんて劣悪な環境だ……この奴隷たちは完璧に洗脳されていたのか」
「そ、そのようです。ここの領主を守ろうと向かってきましたがほとんどが亜人で、部下たちも獣に襲われたと思って斬ってしまい……捕縛できた者もほとんどが自害しました」
屋敷に首都の大人たちが押し入ってきたのは、私が十ぐらいの歳だっただろうか。
古い習慣を続ける領主は山賊のような真似事をしてでもこの地にしがみつき、その暴虐ぶりが首都のラグゥサまで届き騎士団と教会が出動した。
この領地だけで生きてきた両親は社会というものを知らず、奴隷たちと屋敷の秩序に従い主を守ってみんな死んだ。最後まで奴隷を使って抵抗した飼い主が死ぬと、主の世界ということを信じてきた奴隷は神を失って自害した。
どす黒い血が乾いた大地に染み込んでいた。この赤が出すぎた奴隷は動かなくなるのを知っている。私は両親の死体の前で立ち尽くしていた。
「こんな幼い子まで……お前の両親は奴隷制度が廃止されたことを知らなかったのか? ここに売られてきたんじゃ?」
私は床に転がる二人の死体を指差して、甲冑を着た男の顔を見上げた。
「まさかこの領主を守ろうとした二人が両親なのか……」
「この二人から飼い主様の新しい奴隷が出てきた、ピグミそう聞いた」
「そんなことが……これから君は」
金属の服を着た騎士隊長という人は顔を歪め言葉をつまらせて私から顔を背けた。
これから?そんなもの決まっていた。私は横たわる二人の間に行き、同じように大地に横たわった。みんなが動かないのなら、私も同じようにしなければまた叱られる。
胸の前で薄桃色の花を抱き、薄雲の空を黙って見つめていた。死というものを、よく理解していなかったんだと思う。
教会の服を着た人が膝をついて空を背に、私を覗き込んできた。一瞬夜がきたように思った真っ黒な髪、汚れのない肌はこのお屋敷の一番高いお皿より滑らかで、胸に抱えた花のような頬の色をしていた。瞳は虚ろではなく疑心もない澄んだガラスのように反射する。
初めて見る美しい顔というものだった。
「お前は、生きるんだ……」
彼が言った。土から剥がすように体を起こされると大きな体で抱きかかえられ、マントでくるんでくれた。春がきて、もう息もできないほど寒い時期でもないのに抱きしめられるのは何故だろうと疑問に思った。
雪が降り止まない寒い日にあのボサボサ頭の女がしてくれたのを思い出した。顔に落ちてきた雪が溶けて、私の頬で水になったのを覚えている。
今は温かい春の季節だから雪は降っていないのに、私の頬に水が滴る。目から雪が溶けているのが不思議だった。この気持ちがなんだかわからなかった。初めて溢れ出た涙がなにかわからず、けど動かなくなった二人を見ると止まることはなかった。その男は嗚咽を漏らす私の背中を優しく撫でてくれた。
土を被せられた二人の間に薄桃色の花を置き、空に浮かぶ浮島を眺めた。世界樹の女神様は恵まれない子を迎えにきてくれるそうだ。だがここ何十年か、女神様は浮島に人を招くのを嫌がるようになったらしい。
「ピグミ……俺と、いきませんか」
空を見上げる私の横で、黒髪の男が少し緊張した表情で私を見下ろす。何も答えずいたら男はまごまごとしだした。
見上げると男は真摯な眼差しで私に目を向けてくれている。私はその男の手を取った。
女神様は私たち家族を迎えに来てはくれなかった。けど、代わりに彼が来てくれた。
クローサー、私の愛しい人。
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