第3章 本音 // 弱音
真冬の向日葵との邂逅
「ふあぁ」
大きなあくびと共にベッドから起き上がる。
時計の針は一時を指していた。もちろん────午後だ。
昨夜はコンビニの夜勤で四時まで働いて、帰宅後すぐベッドに入ったので、恐らく五時前くらいに寝たのだろう。だとしたら一時起きはむしろ早起きだ。八時間睡眠は健康な生活を送るのに十分ではない。個人の感想です。
今日は土曜日なので、三時から個別塾のバイトがある。まだ寝れるといえば寝れるが、今日は早起きしてあることをすると決めていたのだ。
……すっかり昇りきった陽の光が、今俺を鼻で笑ったような気がする。そろそろ地球の方が俺に適合してくれたらいいものを。
……とまあ、橘と同棲し始めてから治りかけていた俺の生活リズムは、すっかり元通りになってしまった。おかげで夜勤は全く眠くならずに済んだのだが。月曜の朝が恐い……。
──ピコピコ。
不意にメールの着信音が鳴る。メッセージじゃなくメールが来るのは珍しいので、何事かと少し緊張して確認する。まあメッセージが来ることも滅多にないんですけどね。
「あ、今日だったかサークル」
確認してみると、件名は『リマインド:今日のディベート会について』だった。
そう。バイトで多忙な印象の俺だが、一応所属しているサークルがひとつだけある。それがディベートサークルなのだ。
月に一回でしかも自由参加というゆるゆるな雰囲気が気に入って入会を決めたのだ。が、今年はあまり行っていない。後輩も入り、人間関係のコストが高まったのが原因だ。今日も行く予定ではなかった。そもそもバイト終わってからじゃ間に合わないからな、仕方ない。
「よしっ、着替えるか」
俺はメールを閉じてちゃちゃっとジャージに着替える。
向かう先はあの、例の緑地公園だ。
俺の記念すべき生放送デビューの場所。もう二度と出ないが。あれのせいで大学内での視線が恐ろしい。芸能人の苦労が少し分かった気がした。
────私、この人と結婚するの。
橘がカメラ越しにそう宣言した広場までやってきた。日曜の昼間ということもあってか、公園内には家族連れや学生が多くいる。歩道の脇にも丸まった猫が数匹。かわいい。みな橘琴葉の名言が生まれたこの聖地を巡礼しに来たに違いない。
「……いやそんなに広まってたら俺が死ぬけどな」
一人で小さくツッコんで、俺は準備運動に励む。そして、ゆっくりと緑地公園の周回コースを走り始めた。昼下がりとはいえ、空気は冷蔵庫から漏れ出た冷気のように肌寒い。縮こまった身体を徐々に温めていく。
運動していないと二十歳から腹出るらしいよと誰かに聞いて始めたランニングだったが、今ではすっかり考え事をするための趣味になっていた。とはいえ、夏の時期はあまりしていなかったが。マラソンは冬の季語だから仕方ない、なんて言ったら歳時記に怒られるな。
……そんなことよりも、今考えるべきは勿論。
「橘のやつ、三日も未読無視ってどういうことだよ……」
そう、皿を割ってしまい出て行ったあの日から、橘は家に来なくなった。どころか、俺のメッセージにも反応しようとはしない。今までこんなことはなかった。いつもなら三分とかからず返信するようなマメな性格なのに。
そんなものなのか。
橘にとってはこの同棲生活は何も言わずに終わらせられるような些末なもので。
恋愛感情なしに結婚なんて、やはり子供の妄言で。橘はそれを遂には馬鹿らしいと思ったのだろうか。
そんなものなのか。俺らが始めた日々は。
「そんなものなのか……」
自分の外に問いかけたくて、小さく口に出してみる。曲がり角から急に現れた犬を連れたおじさんに聞かれた。気持ち足取りを早めて、すれ違っていく。恥ずかしいなこれ……。
そういえば、橘はまだアイツのことが好きだったりするのだろうか。
俺もそうだが、橘も恋多き人間ではない。再会した時の口ぶりからしても、大学に入って好きな人ができたという様子ではなかった。しかし、高校時代の恋が終わってるとは限らない。現にここにまだ終わらせられていない人間もいるわけだし……。
もしそうだとしたら、こんな生活に嫌気が差してもおかしくはない。皿を割ったのはただのきっかけで、ずっと不満が溜まっていたのかもしれない。今頃自由にアイツと笑って……。
──私も……一瀬ほど信頼している人なんていないけど……。
ふと再会した日の言葉が蘇る。
ポトフが好きなことを覚えていた橘。泊まりに来た橘。朝食を作ってくれた橘。皿を割ったことを謝っていた橘。からかう時の生き生きとした橘……。
「もうわかんねえ……」
思考がぐるぐる回っていたら、いつの間にか敷地を一周していた。また、あの聖地に戻る。
今日は十二月十九日。
宣言通りならあと六日後に結婚ということになる。お試し期間はクリスマスまでなのだ。
それまでどうすればいいのか、今の俺には何もわからなかった。ただ、このまま待っていてはいけないことだけは確かだ。
……よし、決めた。
「一人じゃだめだ、やっぱり遅れてでもサークル顔出すか」
*
もうすでに活動が始まってから一時間は経っている。
バイトが終わるや否や学校に直行して来たはいいが、やはりもう帰ってしまおうか。
そんな風に、俺は教室の扉の前で迷っていた。
途中で入るのって視線集めるから嫌なんだよな、無駄に緊張する。しかもあの生放送騒動で注目されるのは免れない、か……。はあ。自分の小心さに嘆息しながら、やはり引き返そうかと思っていると──
「自分の気持ちを塞ぐなんて駄目に決まってます!」
暗雲を切り裂く閃光のように明るい声が、部屋の中から聞こえてきた。思わずその声に振り向いて、少し扉を開けて声の主を探した。
そこには独り立ち上がって熱弁する、真冬の向日葵のように浮いた女の子がいた。
大きな蒼のリボンと明るい茶のポニーテールが健康的に映えていて、これぞ夏の化身みたいな、そんな雰囲気を纏っている。
「あんな子後輩にいたっけか……」
しばらく目を奪われるほどの存在感と可憐さ。こんな子を忘れたはずはないだろう。俺が行ってない間にまた新入生が入ったのだろうか……。あ、しまった。
「あー!! 一瀬先輩じゃないですかー!」
じっと見ていたら目が合ってしまったのだ。そして指を差されてしまった。ていうか、なんで俺の名前知ってるんだ?
「一瀬先輩だ」「あれがあの」「おお……」「生放送で見た……」
と思ったら、何やら周りも俺の登場にざわつき始めた。
そうか、知られたとしても仕方はないか……。
「やっと来たのか一瀬。もう終わるとこなんだがな」
白ぶちの眼鏡をかけたサークル長の
皆は最後までディベートを続けてくれと深山さんがメンバーに指示を出し、一応謎の夏の女の子も含め議論が再開された。
「先輩」
「もう今日は来ないかと思ったぞお前、どうして来たんだ今更」
「誰です? あの子」
「俺の話聞けよ!」
「えーと、誰ですかあの子」
「俺とあの子どっちが大事なの!?」
こんな感じで後輩の無慈悲なイジリにもノリ良く付き合ってくれるいい人だ。この人の前だと少し自分も
「お前なあ、あんな可愛い子と結婚宣言したのにあの子のことも気になるのか? あの子も確かに可愛いもんなあ」
「そういうんじゃないですよ、あんな子いましたっけ?」
「いや今日初めて来た。体験だってさ」
「こんな時期にですか? 珍しいですね」
「なー」
会話が一区切りしたところで、もう一度夏子()が座っていたところに目を向けた。が、もうそこにはいない。今日のディベートはもう終わった様子で、皆片付けや談笑に励んでいたが、問題の彼女だけは見当たらない。もう帰ったのか……?
「一瀬先輩!!」
「わっ、夏子。急に出てくるな」
後ろから急に肩を叩かれて、思わず仮名をそのまま口走ってしまった。
案の定、怪訝な顔をする夏子。
「夏子って誰ですかぁ! あたしの名前は
意識してやっているのか? 誘うような上目遣いに緊張してしまう。それにこの、甘えるような口調。これは相当苦手なタイプの人間だな……。
「そ、そうか。悪い、朝比奈さん。俺は一瀬だ……ってもう知ってるみたいだったけど」
目を極力深山さんの方に逸らして、俺は一応朝比奈との会話を続ける。
「そりゃあ有名ですから知ってますよ! あ、あと花蓮でいいですからね」
「お、おう……」
絶対呼ばないが。呼べないが。
「さっきは聞きそびれたけど、どうして今更このサークルに入ったんだ?」
続いて深山さんが質問してくれたので、安堵の息をつく。ふたりで会話を持続させるのは大変だからな。
しかし、これに対する朝比奈の返答に、俺は耳を疑うことになった。
「そりゃあもちのろん、一瀬先輩のためですよっ!」
後ろに垂らしたポニーテールを揺らし、語尾にハートマークでもついていそうな可愛い語調で、彼女はそう言った。目を合わせられた俺は慌てて下を向く。
「おお、お前は何を言っているんだ……?」
深山さんも驚いているが、俺はそれ以上に動揺していた。
「えー、そのまんまの意味ですよ~。それ女の子に言わせます~? まあでも、先輩のためなら仕方ないですねっ」
なんなんだ、一体。
十二月に夏の魔物に取り憑かれたとでもいうのだろうか。
俺はいまそんなことを考えている場合ではないはずだったような……。
「あたし、先輩のことが好きなんです!!」
……なんなんだ、一体。
周りも気にせず高らかに言い放つ彼女はにこやかで。
その快晴のような爽やかな笑顔が、ただ、ひたすらに眩しいと、そう思ったのだった。
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