後日談 ~稲藤のにやにや顔を添えて~

「そういや、またこう一限いなかったことね?」

「月曜の朝イチは厳しいものがある」

「それなー」


 時少し遡ること三日。ランドルトC&お泊まり騒動の翌日である。

 俺は後ろの方で、いなふじと三限の講義を受けていた。


「まあ俺はちゃんと間に合ったけど」

「稲藤そういうとこ真面目だよな、倫理観バグ男のくせして」


 ご挨拶代わりに軽く毒づく。

 こいつは複数の女子と関係を持っているような男なのだ。いい加減本命の子を見つけろよと思わないこともないのだが、あまり深く干渉はしていない。面倒だしな。


「ははー。そういう浩貴はまた夜更かし? 四時寝かな?」

「いや、昨日は一時には寝た」

「ええ?! 浩貴がそんな早くに寝るなんて今日真夏日じゃん」


 講義中なので小声ではあるが、無駄に大仰な反応をされる。まあこれもいつものことなので気にしない。

 

「うっせ。……昨晩は橘が泊まりに来たのもあってな」

「は、お持ち帰り? てかお前結婚ってどゆことだよ! ちゃんと説明してくれんだろーな?」


 あ、そうか。こいつもあの生放送で知ったのか……。

 でもあの件では稲藤の知らせに助けられたからな。ちゃんと説明しておくか。



「──……だからまあ、信頼関係さえあれば結婚は出来るんじゃないかと。じゃあまずは半同棲から始めてみますか的な……」

「へえ、すげえな。価値観バグ男じゃん」

「柔軟と言え」


 俺は手短に橘と同棲するに至った経緯を話した。

 生放送内で、一応橘は恋愛感情がない関係だと答えてはいたけどな。それだけでは稲藤含め視聴者にはむしろ一層訳が分からなかっただろう。


 ……つまるところ、何も鎮まることなどなかったのだ。


「は~、長かったなー」

「未だに105分授業は慣れないよな」


 やっと修行のような苦行のような、長い長い授業が終わり一息──したのも束の間。

 教室の外へ出た俺に待っていたのは、好奇の視線と噂話だった。


「おい、あいつ昨日の生放送の男じゃね?」

「え、橘琴葉の婚約者ってやつ?」

「琴葉ちゃんと毎晩ヤってんのかな」

「そりゃあんな可愛い子だったらするでしょー」

「マジ許せねぇ……」


 ……まあ、こうなるよな。


 生放送の影響はやはり凄まじかったらしい。

 通り過ぎ行く人間の大半が俺の顔をチラチラと見たり、友達とひそひそ話したりしている。螺旋階段を下るときに至っては、上から何人か見下ろしている連中もいた。

 誰も彼もけして俺に近づこうとはせず、安全圏で〝橘の婚約者〟という見世物を観覧している。見ないようにしても、ノイズのような声が耳元で聴こえる錯覚に陥る。

 正直、これは……。


「思ったよりすっげー人気者になってんね?」

「人気というよりは話題、だけどな……」


 こんな大衆の目に晒されても、嫌な顔せずすんなり付いて来てくれる稲藤には少し救われる。一人でいたらいつもの自分でいられる自信はない。こうして落ち着いたフリができるのも、落ち着いている奴が隣にいるからだ。

 ま、こいつはただ鈍感なだけなんだろうけど。


「でも橘の方は俺なんかより大変だろうし、何より自分で決めたことだからな」

「って言ってる割に参ってる顔してんな?」

「まさか」


 無論参っている。普段人目につかないように生活している人間は、注目されるだけでも精神の摩耗は計り知れない。珍しくしっかり食べた朝食が今にも昇ってきそうだ。

 はあ……。

 正直、予想以上の人数だな。スクリーンショットでもされて写真が出回ってしまったのだろうか。だとしたら相当キツイ。肖像権が平気で軽んじられるこのご時世だ、もはや一瀬浩貴の顔もフリー素材の仲間入りになってしまう。せめて使うならお金をくれ。違う、使わないでください。

 

「ふーん……」

「なんだよ」


 やけにこちらを神妙な面持ちで見てくる稲藤。

 また良からぬことを企んでいるんじゃなかろうな……? 


「やー? なんもないよん」


 ニタニタしながら甘ったるい口調でそう返す。やっぱりこの男企らんでるな? 

 いやいや、もしかしたら俺のことを気遣おうとしているのかもしれない。数々の女の子の心を掴んだこいつは、そういう気配りも得意だからな。きっと俺が参ってることを見抜いて……。


「ねね! ぶっちゃけ琴葉ちゃんとどこまでいったわけー?」


「!?」


 な、なにをしているんだこいつは・・・。

 稲藤は唐突にぶっ飛んだ話題をぶっこんできた。しかも、周りにも聴こえるような大声で。

 刹那、周りの野次馬たちが物凄いスピードでこちらに首を曲げ、すぐ目線を戻す。当の稲藤本人はそれを確認してしたり顔。右耳を覗かせる銀のヘアピンがふたつ、きらりと光る。


「ばっ、お前これ以上話題増やしてどうすんだよ」


 思わず稲藤の口を手で塞ぎ、小声で文句を言う。が、俺の手はすぐ振り払われ、代わりに稲藤が俺の肩に腕を回し、身体を強引にぐいっと寄せてくる。


「ええっ、お前らキスどころか手も繋いでないの!?」


 またも周りに聞かせるように大きな声で言う稲藤。俺は何も言っていないのに誰の言葉を反芻しているんだ、と周りは不思議がらない。俺が喋ったかどうかが分かるほどの距離じゃないからな。

 ……ははっ、そういうことかよ。いかにも稲藤らしい。


「だから言ってんだろ? そういうのじゃないんだよ俺たちは」

「はあ? 意味わかんねえよ。あの琴葉ちゃんだぞ? 色々したいとか思うっしょ?」

「ないな」

「ない!?」

「まだ俺には忘れていない人もいるからな」

「何年も前の女の子のことまだ好きだから!? へえ! じゃあ本当に家事とか手伝ってもらってるだけなんだな!?」


 俺は少しばかり大きく頷く。

 今俺たちがいるのは校舎の中央にあるラウンジ。多くの人が行き交い、またこの場で休憩している。そして、皆が少し大きめの稲藤の声に聞き耳を立ているのだ。

 稲藤は皆が知りたがっている事を俺に面と向かって聞く、いわば代表記者のようなものだ。その役を買って出てくれたのだ。有象無象の噂話を、事実で塗り替える為に。


 あまり大きな声を出すのは得意じゃないが、俺も気持ち遠くに向けて話した。少しでも橘に対する嫌な「目」や「口」が減ってくれたらと、そう思ったのだ。

 こうして自分も当事者として目を向けられることは確かに辛い。だが同じような体験をすることで、橘の気持ちを口先ではなく体感として理解できる気がして、それは良かったと思う。少し格好つけすぎかもしれないが、同じ場所に立てないというのは寂しいからな……。


「んじゃあ四限は空きコマだし、そろそろじっくり話を聞こうかね?」

「なんだよ話って」


 次の授業が近づき、周りに人がいなくなったのを確認して稲藤は俺の頬をぷにっと指でつついた。

 フォローしてくれたことを感謝しようかと思ったのに、口角を上げてにやにやした顔を見たらその気が失せた。その辺素直になってもいじられるだけだなこいつの場合。


「お泊まりに決まってんじゃん! 忘れてにゃーからな?」

「いやほんと何もないって。さっきも言ったろ」

「さっきのは噂を鎮める為だろ? どうせホントはお風呂一緒に入って身体を身体で洗ってもらうイベントなんかも起きちゃって、沸き立つ肉欲のままに極上のスウィーツを戴いちゃったんだろ! やるなあ!」

「うるせえうるせえ、さっきよりでかい声出すな!」


 むしろ興奮しているのはお前だろ。てか妄想力が凄いな。

 いや、実体験が豊富だからか。え、じゃあ本当にそんなこと現実にあるのか……!?


「ぶっちゃけ、本当はしたいだろ? な?」

「うーむ……」


 そうは言われても、幼馴染であるという以上の感覚が俺にはない。確かに彼女の十分すぎるポテンシャルは昨日のお泊まりで嫌というほど思い知ったが……。


「興奮しそうにないんだよなー」

「なんだと・・・? お前さては巨乳好きだな?」

「は?」

「確かに琴葉ちゃんスタイルいいけど胸は控えめだからなー」

「そ、そういうことじゃねえよ!」


 いや、それも一厘くらいあるのかもしれないが。もし大きくても多少どぎまぎする程度だろう。

 そう言い切れるくらい、橘と重ねた高校三年間は別の意味で刺激的だった。

 橘と考えがぶつかる度に、橘がどう説得してくるのか楽しみだった。ふたりで寝ないで文化祭の案を考えたこともあった。

 そんなともに研鑽してきた相手に、今更異性として意識することなんて有り得ない。


「だからこそ同棲生活は上手くいってるんだろうな」

「そうかい。別に恋愛感情なしでもエッチすればいいのに~」

「どっかの倫理観バグ男みたくなるのだけは御免だ」

「ひっどいな~」


 何の気なしに頬を膨らます稲藤を見ながら、俺は少しだけ思いを未来に馳せる。


 ──この同棲生活は思った以上に上手くいくのかもしれない。


 今朝食べたアボカドエッグトーストを思い出して、少しだけ鳩尾の奥が温かくなった。

 それはきっとひとりでは得られないもの。

 お互いを理解しあったふたりだから得られる温もりなんだろうな……。



 しかし、実際はこの数日後から、再び一人の生活が始まることになる。

 俺は橘のことを何も理解などしていなかったのだ────。

 


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