絶起、祝勝、転落、決別。
【絶起】ぜっき。絶望的な起床の意で、現代の若者言葉。「──しないように早く寝る」「
「なぜだ……」
時計の針は八時四十五分を指している。絶起だ。もはや一限開始時刻から十五分経過している。走れど喚けどもう間に合うことはない。四次元に干渉できる未来型ロボットでもいなければ。
まあ、既に悟りの境地に到達し、絶望などしていないからこれは絶起ではないな。もはや涅槃だ。そういう問題ではないか。
はあ。大学生になってからというもの、一日に満足していないのか
安心して充足感に満たされても、逆にぐっすり眠りすぎて寝坊するとは────ん?
気だるい人工的に暖められた空気の合間を縫って、美味しそうな匂いが床で寝ていた俺のとこまで届いてきた。どうして。
「これは……」
キッチンを覗くと、アボカドと卵らしきものを乗せたトーストが丁寧に盛り付けられいた。しっかりラップにも包んである。
朝食なんて久々だな。本当に有難い……。
「いや、なら起こしてくれよ?!」
そうだ、なんで一緒に寝泊まりした人間がいたのに一人で寝坊してるんだ。まさか起こしてくれたのに起きなかったとか……。いやいや、まさかまさか。
兎にも角にも有難く頂戴しようと、皿を持ち上げると下に付箋があるのを見つけた。メモか何かか? いや──これ、橘の手紙だ。
『おはよう。朝ごはん作って置いたから。
あと、ちゃんと授業行きなさいよ。
起こしても全然気付かなかったんだから。』
「そのまさかでしたか…………」
性格を反映したような流れるような文字に、思わず表情が綻ぶ。手紙とはこんなに温かいものだったか。
いや、これでは完全に母親と息子のやりとりではないか。駄目だ、本物の夫婦ではないのだから甘えては。
それに、人に甘えるのは……嫌いだ。
一人で立っている二人が寄り添う形でなければ、恋愛感情などなくとも関係はすぐ共依存のようになる。この結婚生活において、それはどうしても避けなければ。俺と橘に限って、万が一にもないとは思うがな。
「さて、一限は諦めたしゆっくり食べるとするか」
トーストの皿と付箋をテーブルに運ぶ。
いやしかし、こういう付箋ってのは捨てづらいな……?いやメモ書き程度のものだし、大事に仕舞っておくのも気持ちが悪いだろうが……。
「ん、なんだこれ」
人事部長一瀬が橘の付箋の異動先を思案しつつ、付箋を見回していたら裏にもなにか書いてあるのを発見する。
『P.S.言い遅れたけれど、おめでとう。』
「おめでとう……?」
一体何のことだろう。
俺の誕生日は半年も前なんだけど……だとしたら言い遅れすぎじゃないか?
*
それから数日後。
最近どうも橘の様子がおかしい。
おや……ことはのようすが……みたく進化しそうな訳では勿論なく。寧ろ退化しそうなくらい、反応が鈍いのだ。
「……あ、ルー買い忘れちゃった」
キッチンで一人料理に勤しむ橘がポツリと一言こぼす。今日の献立はカレーということだったが、どうやらそれは叶わなさそうだ。
「じゃあ……肉じゃがにすればいいわね」
そこはさすが長年料理してきたことを思わせる機転の良さだが、目はどこか虚ろで、様子がなんとなく危なっかしい。普段頼れる雰囲気を醸し出してるだけにその変化は顕著だ。
そして思い返せば、橘がこうなったのはあのお泊まりの日からだったように思う。あの日突然お泊まりしたいと言い出した理由も、まだ聞けていないし……。
テーブルで何食わぬ顔で課題をやってはいるが、俺の視線はサクサクと根菜を切る軽快な音が鳴る方へどうしても向いてしまう。
包丁で怪我しないかと内心ヒヤヒヤだ。
「……あの」
「え、なんですか」
怒気を
「そんなじっと見守られなくても料理くらいできるわよ!」
「わ、わるい……」
「ったく、さっさと課題終わらせなさい」
「本当に大丈夫なんだよな?」
「大丈夫じゃないのはあなたの単位でしょう」
「ぐう」
なんだ、変わらない橘じゃないか。寧ろいつもより元気そうだ。なんなら惚けたような橘の方が可愛かったまである。ちっ。
ホッと安堵の息をついて課題に向き直ると、そこには面倒な数式がうじゃうじゃと蔓延っていた。はあ、なんで文系なのに大学数学してるんだ俺は。まあ自分で選んだ授業なんだけど……。
────ガチャーン!!
「!?」
唐突な破壊音に脊髄反射で振り向くと、大小粉々に割れた大皿が床に散らばっていた。盛り付け用に出そうとしたところを落としたのだろう。
「ほら言わんこっちゃない」
橘がスリッパを履いていて、良かった。
とりあえずそこに安心しつつ破片を処理しようと新聞紙を探す。しかし、
「え、わ、ごめんなさい……ちゃんと片付けるわ……」
何が起こったのか理解できていないのか、おろおろした様子の橘。そして慌てて素手のまま皿の破片を拾い集め始めたのだ。
「おい、危ないぞ。待ってろ、ちゃんと新聞紙で集めてやるか──」
「触らないで!!」
「えっ…………」
今絶句したのは俺ではない。
怒鳴った橘琴葉自身だった。
事実、彼女の言動に彼女が一番困惑していた。自分のことを信じられないような、不安な表情。血の気が引いているのか、一層顔が青白く見える。
「ごめん、なさい……。とにかくこれは私がするから」
申し訳なさそうにそう言って、橘は新聞紙とビニール袋を使って丁寧に破片をひとつずつ拾い始めた。
彼女の身に何が起きているのか。否、彼女の心に何が起きているのか。
それが全く掴めないまま、俺はただ何も出来ず見ていることしかできなかった。
「ご、ごめんなさい……! お皿割っちゃって……本当にごめんなさい……本当に……」
拾い終わるや否やそう言って、深く深く頭を下げた。彼女の人生において、こんなエラーが起きたのは初めてだったのかもしれない。
そう思えるほど、人が変わったように、ただひたすらに、本気で謝っていた。
しっかり相手の目を射抜くほど見て話す橘ではなく、半分目を瞑ったまま。俺に謝ってるというよりは、もはや身体がバグを起こして勝手に橘を謝らせているような……。
「…………今日は本当にごめんなさい。肉じゃがはあと五分ほど煮れば大丈夫だと思うから」
最後にそれだけ言い残して、彼女は逃げるように家を出て行ってしまった。
俺には何かを返す時間も、勇気も、残されていなかった。
そして、これはなんとなく分かっていたことだが──
これを機に橘はここを訪れなくなった。
クリスマスを一週間後に控えて、同棲生活は突然の終わりを迎えたのだった。
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