橘特製アボカドエッグトースト
「げ、橘もこれから自習か?」
「う……、一瀬も?」
「あ、ああ……」
まだ日も昇りきらない早朝。某有名予備校の最寄りである地下鉄の駅を出た直後、私は自転車を引く彼と偶然出くわした。
二次試験を目前に控えた、そんな日のことだった。
「随分張り切ってるな? もうあと数日なんだしこんなに朝早く来なくてもいいだろ」
「あなたこそ遠いのに自転車で。朝は弱いんでしょう?」
「はは……」
向かう先が同じ塾である私達は自然と横に並んで歩く。出会い頭の軽いジャブのような会話も、もう今となっては習慣のようなものだった。
ちらと一瀬の少し鼻の高い横顔を覗く。
帰宅部の証である白い肌に、真面目で利発な印象を与える黒縁の眼鏡。どうしてだろう、一瀬の眼鏡姿が懐かしく感じる。不思議に思ってじーっと見ていると、目の下がどうも濃く黒い。
「何見てんだよ」
「あなた、もしかして寝てないの?」
「ま、まさか。今更こんな時期に根詰める奴がいるかよ」
分かりやすく目を逸らされる。どうやら図星のようだ。
というか、この人は図星の時に「まさか」と返す癖があることに自分で気づいているのかしら。面白いから絶対教えてあげないけれど。
「ふふ」
「なんだよ」
一瀬がなぜこんなに試験直前まで熱心に勉強しているか。
否、それは受験生なら当たり前なのだけれど。しかし一瀬は夏からずっと模試ではA判定が出ている。それどころか全国模試でも一桁の順位を取るほど優秀な成績だ。ここまで根詰めて勉強しなければならないほど焦る必要はどこにもない。
その理由を、私は知っている。どうしても勝ちたい相手がいるからだ。
「私は負けないわよ」
「お、お前……」
そう。私がかくして朝早くから塾に来ている理由も彼と同じだ。試験本番の点数が彼との最後の勝負の舞台。
東大は合格発表と同時に文理ごとに順位まで開示されるのだ。
「結局定期テストでも模試でも、一度も勝てなかったからな……」
「でも睡眠はちゃんと取らないとだめよ。どうせ勝てっこないんだから」
「言ってろ」
いつもならもっと理屈や論理で言い返すのに、今日ばかりは早々に切り上げた。目はほとんど開いていないし、
はあ。まったく、これで落ちたらシャレにならないじゃない。
「あなた、朝はちゃんと食べたんでしょうね?」
「あー。二時くらいにミンテア三粒くらい食べたぞ」
「それご飯に入らない。ていうかやっぱり寝てないじゃないの!」
「いや、十五分は寝たって」
「あなたね……」
見兼ねた私は塾に入るや否や、自習室に向かう一瀬の腕を無理やり引っ張り、ラウンジと呼ばれる飲食スペースに連れて行く。抵抗する力もないのか、いとも簡単に座らせることができた。
「おい、なんだよ……」
「はい食べて」
「え、これ」
今朝自分で作ったおにぎりを手渡す。でもそれを言うのは少し恥ずかしいので、お母さんが作ってくれたの、と嘯いた。
「いや悪いって」
「いいから」
「お、俺朝はパン派だし……」
「何よその言い訳。早く食べなさい」
強引に押し切ると、一瀬は渋々と言った顔で丁寧にラップを捲って食べ始めた。
ちなみに私は、朝は絶対和食と決めているので、もしこの人と結婚したら合わないでしょうね。万が一にもないけれど。
「する? 結婚」
え────。
一瀬から唐突に放たれた言葉に絶句する。どんな表情をしているか確かめたいのに首が回らない。
「別にいいわよ」
加えて私の口がひとりでに走り出す。いつの間にかここがどこかも分からない。浮遊感。まるでこれが現実ではないかのような。まるで、まるで夢みたいな……。
「ん……、夢……」
霞んだ視界に映っていたのは見慣れない白天井。
私の部屋じゃ、ない……?
「!?」
ベッドにもたれかかれているように眠っていた彼を見つけて、一気に目が醒める。
そうだ、昨晩は一瀬の家に泊まりに来て……。
「そのまま寝ちゃったのね私……」
突然押し入って勝手に寝落ちるなんて、いくら親しい仲とはいえ失礼極まりないことをしてしまった。少なくとも私が床で寝るつもりだったのに。
毛布をどかして一瀬を起こさないように静かにベッドを出る。夜型の彼はちゃんと早くに寝られたのだろうか。混濁の記憶の中、一瀬が毛布をかけてくれたのは朧げに覚えていた。
今日くらいは目覚めのいい朝を過ごしてもらいたいものね。
……なんて思ってしまうのは、きっと懐かしい夢を見たせいだ。ほぼ事実と相違ない夢なんてあるのね。最後は完全に時空が歪んでしまっていたけれど。
スマホの時計を見ると午前七時。女子大生の朝は長いと聞くけれど、私は恐らく人より短い。いつもなら三十分ほどで家を出ることができる。
洗面所でさっと着替えて、顔を洗う。冬の朝の冷たい水で肌が引き締まる。タオルで優しく押すように顔を拭いて、化粧水を丁寧に塗り込んでいく。
ふと、小さな鏡ごしに自分をじっと見つめる。
昨晩しっかり乾かしたおかげか髪はあまり跳ねていない。ほっと安堵の息を衝く。寝落ちしたとはいえ、いつでも寝られる準備を整えていたのは偉かった。自分で自分を褒めたい。
ブラシで胸のあたりまで伸びた髪を梳かしながら、もう随分長いこと切っていないなと思い返す。春になったら少し切ってしまおうか。
一瀬はどっちが好みなのだろう。もし長い方が好きだと言ったら翌日バッサリ切ってあげようかしら。
化粧は普段殆どしていないので、これで身支度はおしまい。ここまで約二十分。
八時には出られそうね。
「さて、一肌脱ぎますか」
卵焼きでも作ろうかと、冷蔵庫を開けたものの一時停止。瞬間、今朝見た懐かしい夢が脳裏にフラッシュバックしてきた。
──俺朝はパン派だし……。
「まぁ、今日くらいはね」
卵に伸ばしかけていた手で、やっぱり卵を取り出す。あとマヨネーズ。
加えて、常温保存しておいたアボカドの、ごつごつとした皮触りを幾つか確かめ、熟れていそうなひとつを俎上に乗せる。
結局、最後の最後の戦いで負けちゃったのよね……。
正直負ける気は全くしていなかった。一瀬とは高校三年間幾度となく競ってきたが、一度も負けたことがなかったからだ。
合格発表の時を思い出しながら、さく、さく、とアボカドをアーチ状にスライスしていく。その小気味のいい音と、朝の清々しい空気が私を軽率に回想へ
二位という数字を見た時、まさかとは思った。しかし彼は、勝ったことを私に直接伝えようとはしなかった。結局彼が文系の首席合格者だと知ったのは、入学後になってから。しかも、風の噂によってだった。勿論、気を遣ったか、わざわざ言うことに気が引けただけだろう。でも、いつも全力で競い合っていた私達においてのその〝遠慮〟は、些かばかりの距離を私に感じさせた。
それもあって、二年の冬になるまで一度も会わなくなったのだけれど。
チン。
トースターの音でたった一年のタイムスリップから連れ戻される。
アボカドを切る前に、セットしておいたのだ。この上に、アボカドの切り身とスクランブルエッグをのせ、マヨネーズと塩胡椒で味付けをするのだ。
たったこれだけだけれど、一瀬の朝ごはんにしては上等だろう。
どうせいつも朝なんて何も食べてないんだろうしね。
私の分の朝食を食べ終わって、支度を済ませて時計を見ると八時五分前だった。
授業は八時半からなのでそろそろ出なくては。
しかし、驚いたことにこの家の家主はまだ起きる気配すら見せない。ロングスリーパーだとは知ってはいたけれど、まさかここまでとは。
慎重に近づいて肩を少し揺する。
「あなた、今日一限からでしょう。そろそろ起きないと遅刻するわよ」
「んー……、どう……して……」
起こされたくないのか、嫌な夢でも見てるのか、眉をひそめて何かむにゃむにゃ口にする。
「どうして……お……とまり……」
「ふふ、ごめんなさいね」
どうやら悪夢の犯人は私らしい。二度ほどゆっくり頬を撫でる。
別に深刻な事情がある訳ではない。しかし、何故か言うのを憚られたのだ。いや、きっと理由はあの時開いた──と感じた『距離』なのだろうけど。
「すー……」
うつ伏せでぐっすり眠る一瀬の顔は、あまりに油断し切った顔だ。寝てるのだから当たり前なのだけれど。でもそれがなんだか『うさぎとかめ』の兎みたいで。
自分が亀だなんて微塵も思わないけれど、彼にはもう少し寝ていてもらおう。気持ちよく寝ているのに起こすなんて悪いしね。
「夢の中のあなたも寝不足だったし、ゆっくり寝かせてあげるわ」
からかうようにそう言って、私はひとり家を出た。
開いてしまった距離を縮めるために。
私は頑張らなくちゃ。
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