3 蛙の面に水より涙(8)

 あやねはぴょこんとお辞儀をし、太白も一礼して、一緒に身をひるがえす。

 歩き出しながら、あやねはそっと太白に身を寄せてささやいた。


「こんな疑問は失礼かもですが、蛙の性決定ってああいうものなんです? ナメクジが雌雄同体なのは知っていましたけれど」

「蛙のなかには、幼体ではみな卵巣を持っていて、そのうち一部が雄に変態する種や、雄の痕跡器官が卵巣になる種もあります。日本のツチガエルは生息地域によって性染色体の核型が異なる珍しい種ですが、その一部は性分化後も、一定の条件下で性転換が可能と聞いています。妖かしならば、変異もさらにたやすい」

「はああ……なるほど」

「しかし、あれでよかったのでしょうか」


 冷静な太白も、混乱しているのか難しい顔で腕組みをする。


「同性で婚姻というのは……双方の一族が納得するでしょうか」

「わたし、仕事で何度か同性同士の方たちの結婚パーティを演出してきました。どれもいいお式でしたよ。自分を偽っても結局は、公孫樹さんのように偽りきれずにどこかで無理が出ます。自分らしくいられるのが、一番ですって」


 太白の腕につかまって飛び石を渡りつつ、そっとあやねは肩越しに振り返る。

 島の木立の陰で、公孫樹と紅葉が手を取り合っている光景が見えた。

 それはとても、とても幸福そうな姿だった。ふたりを光が包むようだった。


「なにより、ご本人同士が幸せなら、それでいいじゃないですか」


 幸せそうなふたりに、あやねも胸がいっぱいになる。

 だれかが喜ぶ姿を見るのは嬉しかった。自分が〝バンケットプランナー〟の仕事を選んだときのしよしんを思い出せてくれるような気がした。


「本人が幸せならばそれでいい。自分らしくいられるのが一番……ですか」


 太白は思慮深い声音でいった。


「僕は、高階の次期頭領にふさわしくあるべく育てられてきました。母が亡くなり、父がいなくなって以来、ずっと。この地の数多あまたの妖かしたちを束ねるために、なにがあろうと動じない威厳と冷静さを持つようにと」

「太白さん……」


 その声音の内にあるものを感じ取り、あやねは見上げる。


「自分自身であるように、とは一度もいわれなかった。いつだって僕に求められてきたのは、〝高階の次期頭領〟という役割です。だから、あなたのいう自分らしくとか、幸福であればいいとか、そんな考えは思いも寄らなかった」


 太白は、眼鏡の奥のまなざしを和らげて、あやねを見つめる。


「あなたは、僕の知らない見方と価値観を教えてくれる。それがどれだけ心強く、嬉しいことか。あなたに出会えてよかったと、心からそう思います」


 その優しい声が、なにか痛ましくなる。これまで彼は、どれだけ重圧を受けてきたのだろう。そうしてずっと、自分の望みや想いを押し殺してきたに違いない。

 あやねはたまらなくなって、とっさに提案した。


「じゃあ、一歩ずつ自分を出していきませんか」

「自分を出す? ……どういうことでしょう」


 けげんそうに問い返す太白に、あやねは熱を込めて返す。


「わたしと同居を始めて、遠慮したり我慢したりしてること、ないですか。だって人目がない自宅なら一番自分が出せます。その我慢を、やめませんか」


 太白は迷うように目を落とすと、いいにくそうに口を開いた。


「……僕の朝食を、いつも食べているパンケーキにしてもいいでしょうか。いい年にもなってそんなものが朝食なんて、おかしいかもしれませんが」


 意外な答えに、あやねはびっくりした。


「そんなことですか? ホテルの朝食でもふつうに出るメニューですよ」

「歳星にからかわれることがあるのです、いつまでも親離れしないのかと。パンケーキは、存命だった母が朝に作ってくれたものなので」


 そういえば歳星も「いつものパンケーキじゃないのか」といっていた。


「十五年前に母が亡くなり、父が哀しみでいんとんしてから、母と仲のよかった料理人が作ってくれるパンケーキが、僕を支えてくれました。いまでも、だれにどれだけいわれようと、必ず僕の朝食はパンケーキと決まっているのです」


 太白はいま、大事なことを話してくれている。あやねはそれを直感する。平静な顔で語っているけれど、きっとその背後には、いやせない寂しさと哀しみがある。

 あやねはそっと、太白の腕に置いた手に力を込めた。


「わたしも、母が作る小倉トーストが好きなんです」

「小倉トースト?」

「甘いあんと、たっぷりのバターを載せた、カリカリのトーストです。熱々の焼き立てで溶けたバターが、こんもり盛った餡に混ざって甘じょっぱいんです」


 トーストの味を思い出しながら、あやねは語った。


「母は看護師で夜勤が多くて、登校時間はいつも寝ていました。でも、大事な試験の朝だけは小倉トーストを作ってくれて、玄関まで見送ってくれました。忙しい母と話もできなくて、寂しく思うときがあっても、そのときはすごく安心したんです。母は、ちゃんとわたしに向き合ってくれているんだって」


 あやねは母が懐かしくなる。落ち着いたら電話してきちんと話そう。心配しないで。お母さんのおかげで、わたしは自分の力で歩いています、って。


「いいですね。いい……お話です」


 太白は、しみじみとそういってくれた。あやねの心がほっと温かくなる。

 育ちも境遇も違うし、セレブだし、妖かしなんてファンタジーな世界のひと。自分とはなにひとつ共通点がない。でも、子どものころの寂しさや、親の愛情を懐かしむ心を、こうして分かち合える。それがあやねには嬉しかった。


「あやねさん、その、あとひとつお願いがあるのですが」

「? はい、なんでしょう」

「納豆はお好きですか。もしお好きなら申し訳ないのですが、できれば一緒の食事のときは……避けていただけないかと」

「ああ、太白さんお嫌いなんですね? 匂いや味が駄目な方はいますし」

「いや、形です。大豆原料の食材や調味料はいいのですが。すみません、どうしても目にするだけで、十メートルは距離を置きたくなり……」


 真面目な顔で弁明する太白に、あやねはなんだか笑えてきた。いつも冷静沈着で有能な彼がこんなにも納豆嫌いだなんて、そのギャップが可愛い。

 ふと、太白があやねの正装を見ていった言葉が脳裏で響く。


〝たしかに、あやねさんらしくないですね〟


 自分を偽っても、きっと無理が出る。わたしは、わたし自身のままでいたい。そして太白さんは、その意志を尊重してくれるひとだ。

 結婚なんて考えたことはなかったけれど、太白さんみたいなひとなら……もしかしたら、いいのかも、しれないな。

 幸せのおすそ分けで満たされた胸で、あやねは飛び石を渡り終えても、太白の腕に手を置いていた。太白もあやねの手を置いたまま、歩幅を合わせてくれた。

 一歩縮まった距離で、ふたりは並んで草鞋亭へと戻っていった。



―― 3 蛙の面に水より涙/了 ――


【次回更新は、2019年11月20日(水)予定!】

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