3 蛙の面に水より涙(7)
「……な」「ええっ? ……あ」
驚く公孫樹と同じく紅葉も驚くが、はっと思い当たる顔になる。
「そうか、ナメクジである紅葉さんの体には、湿気が必要だったと」
太白のつぶやきに、あやねはうなずく。だが公孫樹は無愛想にいった。
「そんなつもりはない」
「でも、結果的には紅葉さんのためになりました。草鞋亭ではお茶をお替わりしてばかりで顔色も悪かったのが、池を通ったら元気になられましたから」
「それは真実ですか、公孫樹さま」
紅葉は戸惑う顔で公孫樹を見上げる。
「そんなお心遣いをしてくださったのに、いったいなぜ奥さまにこんな無体を?」
「もしや、わざと縁談を破棄させるためですか、公孫樹さん」
太白が口を挟む。紅葉は「そんな」といって青ざめる。
「おかしいと思いました。僕は〝そう遠くには行かないから〟とあやねさんに伝えた。公孫樹さんはそれをすぐそばで聞いていました。しかもここは高階の結界内です。あやねさんを襲っても、逃げ場はありません。九戸の御曹司が、結果も考えずに行動するほど愚かだとは、僕は聞いておりませんので」
〝……弁明をしろ、公孫樹〟
あやねは先ほどの太白の言葉を思い返す。
憤りながらも、彼はきちんと冷静に考えていたのだ。この馬鹿げた行動には無理がある、理由があるはず、と。
「そこまで、公孫樹さまはわたくしを嫌っていらっしゃるのですか。わざとそんな真似をして、この縁組を破断にしたいほどに」
「違います、紅葉さん」
哀しげな紅葉に、たまらずあやねがいった。
「家同士の縁組なら断りづらいと思います。面と向かってお断りして、紅葉さんに恥をかかせないためにも、自分の落ち度での破断にしたかったのでは。嫌いならば、紅葉さんのために水辺を選んだりしないはずです。そうでしょう」
公孫樹はこぶしを握り、面目なさげにうつむいていた。紅葉は意を決したように、公孫樹の前に歩み寄る。
「聞かせてくださいませ、せめて本心を。ほかに想う方がいるという噂は本当なのですか。この縁組を破断したかったのは、その方のためなのですか」
顔をそむけていた公孫樹は、そこで初めて紅葉に目を合わせる。
「……すまない」
ふいに大きな体を深く曲げて、公孫樹は頭を下げた。
「紅葉どのを嫌っているわけではない。ただ、どうしても忘れられぬ方がいるのだ。それを黙って縁組するのは不誠実だと、思いつめてしまったのだ」
「どなたなのです、公孫樹さまが想う方は」
「南陽家の一族のものだ、と思う」
紅葉は大きくまばたきし、あやねと太白も顔を見合わせる。
「数十年前のある日、紅葉どのの家にうかがったときに見かけた美しい……」
恥じ入るように、公孫樹はうつむく。
「……と、殿方だ」
「殿方?」
紅葉が訊き返すと、公孫樹は大きな体を縮め、ますますうなだれる。
「雄も雌もない幼体の俺は、ひと目見て忘れられないほど魅了された。しかし、直後に俺は雄の身となり……こんな想いのまま南陽家と縁組して、もし再会したら平静ではいられまい。それに思い返すと、その方はいまの紅葉どのによく似ていた」
「……公孫樹さま」
「なおさら、紅葉どのと顔を合わせるのが辛い。俺がすべての責を取るゆえ、どうか破談にしてくれぬか、頼む。太白どの、奥方」
公孫樹はあやねと太白に体を向ける。
「自分の馬鹿な考えで迷惑をかけた。特に奥方には恐ろしい思いをさせてしまった。心からすまない。許してくれとはいわぬ。このまま俺の
そういって、公孫樹はまた頭を深く下げた。壁のような大きな体が、ひどく小さく見えた。先ほどの怖さが噓みたいで、あやねは痛ましくなる。
その様をじっと見つめていた紅葉が、口を開いた。
「公孫樹さま、わたくしもおうかがいしたいことがありますわ」
「なんだろうか」
おそるおそる顔を上げる公孫樹に、紅葉はにっこりとほほ笑んだ。
「その殿方というのは、もしや」
というと紅葉は腕を掲げ、大仰な袖で自分の顔を隠した。次の瞬間、
「──こんな姿だったのではないか」
ばさりと下ろした袖から現れたのは、美々しい男性の顔。
頭巾の奥で、公孫樹は大きく目を見開いた。あやねもあんぐりと口を開けた。
太白だけは「そういうことでしたか」と納得した声でつぶやく。
紅葉は得意げに、驚きで固まった公孫樹を見返す。
「公孫樹。〝僕〟が〝わたくし〟だという可能性には、思い当たらなかったのか」
「い、いや、考えもしなかった。だが、そうか……不思議ではない」
ようやくのことで、あやねは理解した。
ナメクジは雌雄同体。
だったらどちらの性に変化してもおかしくはない。
「僕はどちらの性にもなれるが、あなたが雄となったから雌の体でいようと思ったのだ。あなたの気持ちを知っていれば、そんなことをしなくてもよかったのにな」
「そんな……紅葉どの……」
手を差し伸べる紅葉に、公孫樹は申し訳なさそうに首を振る。
「焦がれた相手に声をかけられなかった臆病さも、想うだけで確かめられず短慮な振る舞いに出た愚かさも、恥ずかしい。この手を取る資格など、俺にはない」
「僕が望んでいるというのに? ああ、もうぐだぐだいうのはやめろ」
紅葉は手を伸ばし、ぐいと公孫樹の頭巾を引き下ろすと、現れた浅黒くいかつい顔に綺麗な顔を近づける。
「僕が好きか、好きなら結婚するか。はっきり答えてくれ」
「お、おっ、俺、俺はっ、その、もちろんその、あの」
おろおろする公孫樹に紅葉はほほ笑む。それからあやねと太白に顔を向け、あちらへ行けというように手を振った。
「ここから先は僕らだけの話だ。ふたりきりにさせてくれ」
「す、すみません」「あ、ああ、わかりました」
【次回更新は、2019年11月17日(日)予定!】
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