3 蛙の面に水より涙(6)
「え……?」
ぼそりとしたつぶやきにあやねが眉を寄せると、彼はいった。
「九戸の土地にはこんな昔話がある」
そういって、公孫樹はゆっくりと、あやねに向き直る。
「九戸の村の女たちに通う男があった。名も、住む場所もわからぬ男だ」
公孫樹は語りながら、一歩、一歩とあやねに歩み寄る。大柄な体に迫られて、あやねは無意識にあとずさる。
「派手な
公孫樹の体は壁のように、あやねの顔に影を落とす。
恐ろしいほどの威圧感に、あやねはどんどん背後に下がり、ついに立木に背が当たった。あれ、このパターン、今日べつの場所でもあった、よう、な。
「い、いえ、わかりません。なんでしょう」
震え声で答えたとたん、
「ふえっ!?」
ドス、と公孫樹が立木に手をつき、あやねは飛び上がる。
今日二度目の壁ドン。
壁というか立木ドンだが、巨大な体の公孫樹にこんな間近で退路をふさがれ迫られて、あやねは恐ろしくて恐ろしくてたまらない。
怯えるあやねに、公孫樹はいたぶるように答えた。
「それは……蛙の、卵だ」
「か、か、か、たま、卵!?」
震えすぎて、あやねはカニ玉みたいなことをいってしまう。そんなあやねを見下ろしながら、公孫樹はかぶっていた頭巾の口元を引き下ろす。
ひ、とあやねは息を吞んだ。現れたのはがっしりした男のあご。だがその開いた口からくねくねと伸びているのは、蛙のような長い舌だ。
蛙人間はこれ見よがしに舌なめずりをして、あやねを震え上がらせる。
「俺は人間の女のほうがいい。おまえを……」
公孫樹はずいと顔を寄せ、ドスの利いた声で
「──食わせろ」
「ひ、ひやぁああぁっ!!」
もういや、壁ドンなんて文化、いますぐ滅んでくださーいっ!
あやねが悲鳴を上げて身を縮めたとき、
「公孫樹!」
突如鋭い声と同時に、公孫樹の大きな体がすごい勢いで突き飛ばされる。
宙に舞った公孫樹は、どすん、とぶざまな格好で地面に落ちて尻をつく。あやねは倒れた公孫樹と自分のあいだに立つ長身を見て、驚いた。
「た、太白、さんっ!?」
「……貴様、高階の領域にいると知っての振る舞いか」
それは、あやねが知っている穏やかさの欠片もない声だった。全身を総毛立たせる凄みがあった。大声ではないのに、空気を震わす迫力があった。
こんな声も出せるんだ、太白さん、とあやねは呆然としてしまう。
「弁明をしろ、公孫樹。ことと次第によっては、九戸のものといえど許さぬ」
太白は一歩踏み出す。背中だけでもすさまじい気迫があった。
だが公孫樹はなにも答えない。頭巾を戻して顔をそむけただけだった。
「なにをなさっているんですの!」
紅葉が衣装を引きずって、飛び石を渡ってくる。
「悲鳴が聞こえて、いきなりものすごい勢いで走り出したかと思いましたら、公孫樹さまになにをしているの、太白!」
眉を吊り上げ食ってかかる紅葉を、しかし制する声が上がる。
「俺が、その人間の女を食おうとしただけだ」
「なっ……!?」
紅葉は振り返る。公孫樹は無言で立ち上がるが顔はそむけていた。
「高階の結界内で、しかも次期頭領の奥さまに手を出そうなんて……」
信じられない、と紅葉は身をわななかせる。
「それほど節操も見境もない方だとは思いませんでした。ええ、この縁組はお断りいたします。九戸家との取引も断たせていただきますわ!」
「ま、ままま、待って、ください」
あやねはかろうじて声を絞り出す。太白が振り返って駆け寄った。
「だいじょうぶですか、あやねさん。
「だ、だいじょうぶです。あの、公孫樹さんにお訊きしたいことがあって」
「こんなものに訊くことなどありませんわ。即刻ここから立ち去らせて!」
「いや、その前に少し時間をください。あやねさん、なにを訊きたいのです」
紅葉の抗議を太白がさえぎる。息を整え、あやねは公孫樹に向き直った。
「先ほどと同じ質問になってしまうんですけれど、あの、なぜ公孫樹さんは散策にこのルートを選んだのですか」
公孫樹は黙っていたが、紅葉の強い視線に押されるようにぼそりといった。
「……無意識だ。理由などない」
「いいえ、そうでしょうか」
あやねは、頭巾で顔を隠した公孫樹に向かって言葉を重ねる。
「わたしはバンケットサービスの仕事で色んな方とかかわってきました。無意識に見えても、ひとの言動にはちゃんと理由があるんです。それをヒアリングして、できるだけリクエストに沿ってパーティを演出してきたんです。いえ、いまはそうじゃなくてあの、公孫樹さんは……紅葉さんのために、池を通る道を選んだんですよね」
【次回更新は、2019年11月15日(金)予定!】
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