2 壁の穴は壁でふさげ(2)
◆
緊張で顔を強張らせ、あやねはダイニングテーブルに腰掛ける。
ダイニングルームは、なんとスイートルームの二階にあった。いわゆるペントハウスのメゾネット形式の部屋だ。
階下が見下ろせる吹き抜けの造り、白を基調としたさわやかなカラーリング。窓から見えるベランダは、緑豊かな空中庭園。
いつも半径三メートル内で暮らす大庶民のあやねは、
クローゼットの上等な衣服を着るのがためらわれ、結局持ってきた服を着ている。そんなあやねの全身からは、しきりにお高い匂いが立ち上っている。バスルームにあったバスソルトのせいだ。
こんな匂いをぷんぷんさせて朝食なんて、逆に失礼だったかも。だけどいまさら洗い直せない。ああもう、どうしよう。
考えすぎてぐるぐるするあやねの前に、流れるように食器が並べられていく。朝から着物姿の綺麗な女性たちが、鮮やかな手付きでサーブしてくれているのだ。
「花籠さま、高階がお待たせして申し訳ございません」
「はっ!? はいっ」
かたわらに控えるバトラーに声をかけられ、あやねはまた飛び上がる。バトラーは、中年の素敵な男性、いわゆるイケオジ。声も渋くて、いわゆるイケボ。
「朝食前に急ぎの書類に目を通さねばとのことです。間もなく参りますので」
「いえ、ほんとに、おかまいなく」
あやねが首と一緒に両手も必死に振って答えたとき、
「お待たせしました、花籠さん」
リビングから続く階段を、高階太白が軽やかな足取りで上ってきた。
朝というのにきっちりスーツ。ノンフレームの眼鏡は理知的で美しい顔によく似合い、
「よく眠れましたか」
バトラーの引く椅子に腰を下ろしつつ、高階は尋ねる。
「は、はい。気絶したみたいに朝までぐっすりでした」
背中に汗をかく心地で、あやねは答える。そうしてそこで、やっと実感する。
そうだ、わたし、この目の前のまばゆいイケメンに結婚申し込まれたんだ。
たぶん、たぶん……めちゃくちゃ、裏のある申し出として。
「断りなく、お部屋をお取りして失礼しました。あのあと、花籠さんが倒れられて、ホテルの救護室で懇意の医師に診察してもらったところ、疲労とショックとの診断でしたので。
どうりで、あのあとの記憶がないわけだ。
「いえ、こんなものすごい部屋で寝るなんて、めったにない経験ですから」
「それはよかった。疲れも取れたようですね」
「太白さま。いつものメニューでよろしゅうございますか」
バトラーがフレッシュジュースを高階のコップに注いでから、尋ねた。
「いや、軽いもので。それとサーブが済んだら彼女とふたりきりにしてくれ」
「……かしこまりました。控えておりますので、いつでも」
バトラーは
自分が頼んだのはお粥だった。お粥だけのはずだった。だが目の前に並んでいるのは大きな三つの黒いお盆。中央にお粥の入った小ぶりの鉄鍋が置かれ、周囲には小皿に盛られた種々様々なトッピング。
「まず、右端はアワビ粥。国内産高級黒アワビをやわらかく蒸して肉厚に切り、載せたものです。真ん中は鶏粥。コラーゲン豊富な
流れるようなバトラーの説明だが、あやねはもう、相づちすら打てない。
まるで異国語のようで、脳を経由しないで耳から耳へと抜けていく気がする。
向かいの高階は、いわゆるコンチネンタルブレックファースト。
みずみずしいサラダと色とりどりの果物、美しい焼き色のクロワッサン。いい香りがただようコーヒーとフレッシュジュース。どう見ても、あやねにはあちらの量で充分だし、むしろ
「それでは、ご用の際にはそちらの呼び鈴よりお呼びください」
バトラーは給仕の面々とともに一礼し、困惑するあやねを置いて、ぞろぞろと階下へ降りていく。ドアが閉まる音がして、高階とふたりきりになった。
「あのっ、高階さん」
豪華な朝食よりなにより
「昨日のこと、あれは現実ですか、本当ですか。いったい、どういう」
「それはあとで、まず朝食を。昨夜からなにも口にしていないのでしょう」
といわれたとたん、盛大な「ぐぅう」というお腹の音が美しいダイニングに鳴り響いた。あまりにお約束で、あやねの顔が真っ赤に燃え上がる。
「す、すみませ……あの、べつにそんなお腹が空いているわけでは」
「昨夜が夕食抜きなら当然です。どうぞ、お好きなだけ召し上がってください」
「はあ、はい……。では、いただきます」
あやねはぎこちなくレンゲを取り上げ、一口すくって、おずおずと口に運ぶ。
「お……美味し……!」
あまりの美味しさに感動して、レンゲを握る手が震えそうになる。
じわりと広がる具材の
「よかった。お気に召したようですね」
高階の声で、夢中で食べていたあやねは我に返る。すみません、と反射的に謝りそうになるが、サービス業として謝罪よりもっというべき言葉があると気づく。
「はい、こんな美味しいお粥は初めてです。あの、ありがとうございます」
「厨房に伝えておきます。僕も安心しました」
という高階の手元を見ると、クロワッサンをちぎるばかりで、一口も食べていない。サラダもフルーツも、コーヒーもフレッシュジュースも減っていない。
高階さん、もしかして、緊張してる?
「それで昨夜のことなんですけれど。あの……高階さんのお申し出の話とか、わ、わたしがトイレで見た……光景とか
あやねが切り出すと、高階はふっと息を吐いた。
「失礼しました。こちらから、切り出すべきでしたね」
高階はクロワッサンの欠片を皿に戻し、背筋を正すと、真剣な表情でいった。
「まず、結婚の申し出についてですが、端的にいいますと、あなたを〝配偶者として雇いたい〟ということです」
「雇う……つまり、ビジネス、ですか」
【次回更新は、2019年10月26日(土)予定!】
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