2 壁の穴は壁でふさげ

2 壁の穴は壁でふさげ(1)

「はわ────ああぁっ」


 がばっとあやねは飛び起きた。

 おかしな夢をいっぱい見た。最高級ホテルのパーティでバンケットスタッフとして働いて、トイレで倒れている顔がふたつある女性を介抱したら、ホテルの事業統括部長というイケメンからいきなり結婚と同居を申し込まれた。

 結婚願望もファンタジー願望もさらさらないのに、なぜそんなあり得ない夢を見たのか。よほど上司のパワハラや、母と親戚からの圧にうんざりしていたのか……。

 と思ったとき、ふと我に返った。


「ここ、どこ?」


 見覚えがない、というレベルではなかった。

 まず広すぎた。自分が借りていた1Kのマンションより、十倍は広い部屋。

 高級木材がふんだんに使われた室内、ファブリックやリネンの色調はエレガントなブラウンで統一されている。ごうしやなカーテンが下がる窓も広くて大きい。

 ベッドはキングサイズ、手触りも着心地もいい上等のパジャマまで着ている。

 夢見心地で、ベッド下にそろえられたスリッパに足を通し、窓から外を見ると、なんと緑の木々が植えられたプール付きのテラスがあった。

 なんなの、ここはどこの豪邸なの。あやねは窓ガラスに貼りつきぼうぜんとなる。

 そのとき室内にコール音が鳴り響いた。振り返ると、ベッドサイドテーブルの電話が鳴っている。ガラスに手と顔の跡を残し、あやねは恐る恐るベッドサイドに歩み寄り、びくびくしながら受話器を取り上げる。


「は、はいっ?」

『花籠さま、お目覚めでございますか』


 渋くも優しい男性の声だった。しかしまったく聞き覚えがない。


「ど、どちら様、でしょう?」

『わたくしは、特別スイートルームの専属バトラーでございます』

「専属……バ、バトラー……?」


 バトラーとは、なんぞや。

 もちろんバトラー=執事である。

 それくらい、あやねも知っている。しかし「どちら様ですか」と尋ねて「執事です」と返ってくる世界に、あやねは住んでいない。

 だからバトラーとはなにする者ぞという疑問しか浮かばない。


『当ホテルは、バトラーサービスを採用しております。スイートルーム内の電話は、わたくし直通でございます。なんなりとご用をお申しつけくださいませ』

「は、はあ……いや、いまは、特に」


 執事に頼む用事なんて庶民オブザ庶民のあやねには、ひとつも浮かばない。


『高階が朝食をご一緒したいと申しておりますが、いかがでしょうか』


 高階。

 聞き覚えのある名前に、やっとあやねは現実に引き戻される。


「えと、つまりあの、ここって青葉グランドホテルなんですね? なぜここにいるかわかりませんが、わたし、荷物を宿泊先のホテルに預けたままで」

『花籠さまのお荷物は、リビングルームにございます』

「ふへ?」

『勝手ですがお名前よりご宿泊予定先を調べ、運ばせました。花籠さまの昨日のお召し物は、クリーニングから間もなく戻ってまいります。寝室のワードローブに衣装をご用意しておりますので、お好きなものをお使いください』

「へあ、はあ、はい……色々と、ありがとうございます」


 理解と世界を越えた展開ばかりで、返事をする声に力が入らない。


『ただいま時刻は午前七時ですが、ご朝食は何時がご希望でございますか。またメニューは、和食、洋食、中華、どれがお好みでございますか。ほかにご希望のものがございましたら、ご用意させていただきます』

「えと、は、八時半くらいに。メニューは、軽いので……おかゆとか」

『では、その時刻に。どうぞおくつろぎくださいませ』

「は、はい。あの、ありがとう、ございます」


 あやねは礼をいって受話器を下ろす。とたん、脱力してベッドに腰を落とした。

 起き抜けから想定外のことばかりで、精神が焼き切れてしまいそう。でも、呆然とする間はない。とりあえず、トイレとお風呂だ、とよろよろ立ち上がる。

 だがそのトイレは、いっそ住めそうな広さのうえに赤いカーペットが敷かれ、自分のお尻より一億倍は値が張りそうな、黒に金の装飾の便器だった。

 これが現実でも早く目覚めたい、とあやねは力なく扉を閉めた。



【次回更新は、2019年10月25日予定!】

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