1 仇も情けも我が身から(5)

「孫だろ? なんでおまえが次期総支配人じゃないわけ?」


 女性は酒焼けなのか声が低く、しゃべり方も乱暴なので男性のようだ。


「祖父からも話がありましたとおり、僕は未熟なので」

「それにしたって、たったひとりの孫を差し置いてさぁ」

「歳星は祖父が任命した僕の教育係でした。僕などよりずっと優秀です」


 冷静に、かつ丁寧に高階は答えるが、女性は鼻であざわらった。


「いかにも優等生な坊っちゃんのお答えだな。どうすんだ、あの気取り屋の歳星が跡目を譲らなかったら。こっちもな、高階と安心して共存したいんだよ」

「まあまあ、ねえさん」


 隣から、女性の連れらしい長い髪を縛った若い男が口を挟む。


「飲み過ぎだよ。太白さん、困ってるじゃない」

「うっせえ、わたしは心配してやってんだ。おい、お代わり。あと肉山盛り!」


 女性の声に、レセプタントが料理を取りに向かおうとした。

 あっ、とあやねは口を開く。タイミング悪く、皿を下げるスタッフとレセプタントがぶつかった。


「ああっ」「きゃあっ」


 とっさにあやねは割り込み、崩れる皿を体で受け止める。皿についていたソースが制服の胸元にかかって茶色くなった。


「申し訳ございません。お客さま、だいじょうぶですか」

「え、いや、こっちはべつに無事だけどよ」


 あやねが皿を抱いたまま頭を下げると、パンツスーツの女性が戸惑い気味に答える。たしかにソースはかかっていないようで、ほっとした。


「失礼いたしました。新しいグラスとお皿をお持ちします」


 目配せでレセプタントとスタッフをうながし、あやねは皿を持って歩み去る。レセプタントとスタッフも、何事もなかったように一礼して場を離れた。

 スタッフが追いかけてきて、あやねに謝った。


「すみません、あんなに大量のお皿をお下げすることはあまりなくて」

「わかります、疲れましたよね。ほかの方に交代しましょう。着替えてくるので中座しますけれど、すぐ戻ります」


 すれ違ったべつのスタッフに八番テーブルを頼み、あやねは汚れた胸元を隠しつつ会場を出る。急いで控室に駆け込んでドアを閉め、はあ、と息をついた。


「はああ、なにこれ、こんなの経験したことないよ」


 スタッフの前での冷静な態度を放り投げ、へなへな、とあやねはその場に座り込んだ。こんなバタバタした現場は初めてだった。

 特定のテーブルばかり気にして、進行がまったく頭に入らないのはまずいな、と思う。いま何時かもさっぱりだ。ほかに不手際がなければいいのだけれど……。


『だいじょうぶですか、花籠さん』


 インカムに声が入って、あやねは我に返る。


「え? あっ、高階部長ですか。先ほどは申し訳ありません」

『いえ、花籠さんのおかげでさほど大事にならずに済みました。僕もあれがきっかけで解放されましたから。ありがとうございます』

「それは不幸中の幸いというか。あの、いま、進行はどの辺です?」

『歳星のスピーチ中です。このあと、小一時間ほどで終わりですよ』

「よかった……あ、いえいえ、すみません」

『こちらこそ申し訳ない。スタッフの手がまったく足りないのにお客さまがなんの不満もなく楽しんでいただけているのは、花籠さんのおかげです』


 あやねの心がふわりと和む。

 高階は自分を未熟だといっていたが、ちゃんと相手を気遣い、正しく仕事ぶりを評価できる。そういう人間はなかなかいない。ただでさえ対人面で理不尽な目に遭いがちなサービス業だ。上に立つ者の一言が、どんなに現場の人間の心を救うか。


「いい方ですね。高階さんのような上司のもとで働けたらよかった」


 東京の会社でのつらかったことを思い出し、あやねはしみじみ思ってしまう。


『……そう、でしょうか。あまり、そんなふうにいわれたことはないですが』


 高階は戸惑う声で答えたあと、神妙な口調でいった。


『あなたには本当に感謝しています。この大事なパーティでも、問題を起こそうとする者が紛れ込んでいるかもしれない。少しでもトラブルは少ないほうが、僕も目を配れます。下手に外部から……警察などの手が入って大事にもなりたくない』


 微妙に不穏なことを高階はいった。


『とりあえず、あと少しです。お願いします』

「は、はい。いま、戻ります!」


 あやねは元気よく返事をすると急いで着替えを済ませ、控室を出た。

 会場に戻ると、スピーチはまさに終わったところのようで、大きな拍手が上がっている。

 壇上の歳星は拍手を浴びてにこやかに一礼していた。得意ぶるでもなく、人前で称賛を浴びるのが当然というような、自然な態度だ。


〝どうすんだ、あの気取り屋の歳星が跡目を譲らなかったら……〟


 八番テーブルのパンツスーツの女性が、太白にいった言葉が頭をよぎる。

 事情をよく知らない部外者の自分が、心配することではない。臨時スタッフとしてかかわっても、しょせんはただの旅行客だ。

 と思いつつ、ホテルスタッフや高階から聞いた話が気になって仕方がない。

 懇意だったはずの派遣会社との契約不備。

 前担当者のひどい不手際。

 バンケットプロデュース課で相次いだ、スタッフの離職。

 すべてここ最近の話だ。

 そして、引退記念とはただの名目、実は代替わりのお披露目である大事なこのパーティ。なにか起こってもおかしくはない……。

 あやねは場内を見回す。

 心配していたほど料理は減っていない。さすがに客の飲食のペースは落ちたわけだ。いや、落ちてもらわないと困る。

 このまま無事に終わってくれと祈りつつ、ざわめくテーブルのあいだを動いて食器を下げていく。


「花籠さん、すみません」


 すると、レセプタントのひとりに声をかけられた。



【次回更新は、2019年10月22日(火)予定!】

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