1 仇も情けも我が身から(3)
「す、すみません」
柱の陰から出て頭を下げると、男性が穏やかに声をかける。
「宿泊のお客さまですか。こちらは宴会場ですが、迷われたのでしょうか」
「いえ、えっと、そうではなくて……あの」
「よろしければご案内しましょう。どちらのお部屋ですか」
どうしよう、とあやねは悩む。正直に謝ってこの場を退散すれば済む話。いま聞いたことは、部外者の自分にはなにひとつ関係がない。しかし良心がうずく。
あやねは生まれつき、〝ひとの役に立ちたい〟という気質が強い。
お節介といってもいい。ひとに必要とされたい性分だった。
シングルマザーで苦労した母に迷惑をかけず自分ひとりの力で生きる、と同時に母の役に立ちたい、と思って育った生い立ちのせいもあるかもしれない。
だから、この場を見過ごせなかった。
接客業として当たり前とはいえ、大変な状況でも時間を割いて案内を申し出てくれる彼を、同じサービス業として見捨てることもできない。
「実はわたし、こういう者です」
とっさにバッグを探り、習慣で入れている名刺入れから名刺を差し出す。
男性は受け取り、眼鏡の奥から目を落とした。
「株式会社東京バンケットサービス……花籠あやね?」
「はい、そちらでバンケットプランナーをしております」
あやねは証拠として、手元のスマホで会社のサイトを表示して見せる。求人部門のコーナーで、あやねの写真が使われているからだ。
いつだって緊縮にうるさい会社だった。あやねが辞表を出しても、すぐさま写真を差し替えたりはしないだろう、と踏んでいたが案の定。
それにいまは有給消化中で、一応まだ社員だ。
「失礼ですが、お困りの様子を偶然耳にしまして、お力になれないかと」
男女のスタッフが顔を見合わせる。男性が思慮深そうに口を開いた。
「プランナーがどのように力を?」
「現場のことはよく知っています。演出や手配だけでなく、実際にパーティではリーダーとして仕切っています。経験に不足はありません」
「経験についての信頼ではないんです。これはただのパーティではない。あなたは、事情をご存知ですか」
男性は穏やかに問い返した。だが、まなざしは真剣だった。事情、とあやねは一瞬答えに迷う。先ほど見た案内の看板を思い出す。
〝……引退記念パーティ会場〟
総支配人の引退記念ならば、取引先も招いた大事なパーティのはずだ。
「ええ、はい。いくらかは」
言葉少なに答えると、男性はじっと測るように見つめる。間近で見ると美術室の彫刻のように
「あなたが〝こちら側の人間〟だという保証はありませんが……」
こちら側? いったいなんのことだろう。
だが問い返す前に男性はうなずいた。
「わかりました。お願いします」
「部長!」「高階部長!?」
背後で男女スタッフが声を上げると、男性はいった。
「責任は僕が取ります。時間がない。花籠さん」
「は、はい」
「足りないのはホールスタッフです。あなたならどうしますか」
試すような問いだった。あやねは考えつつ答えた。
「動かせる従業員を集めていただければ、采配はわたしが。ラウンジ・カフェのスタッフならサーブも慣れているでしょう。カフェの営業は夕方までですよね」
「わかりました。急ぎ、人員の手配をしましょう。ああ、申し遅れました」
男性は男性スタッフに命じると、内ポケットから名刺を取り出す。
「僕はこういう者です。どうぞ、よろしく」
あやねは名刺を受け取って目を通す。
『青葉グランドホテル事業統括部部長
ひえっ、とあやねの背筋が伸びる。
事業統括部長なら、この最高級ホテルでかなりのお偉いさんだ。
まだ二十歳半ば、精々アラサーくらいなのに、そこまで出世するとはよほど有能らしい。
しかし、高階という名前も引っかかる。なにか聞き覚えがある気が……。
「今回のパーティでは部長とお呼びください。僕も接待役で出ておりますので、よほどのトラブルでなければ場を離れられません。現場の采配は、あなたにかなり頼ることになります。その分、相応の報酬をお支払いします」
あやねは身の引きしまる気がした。高階は女性スタッフに向き直る。
「彼女に制服と必要な資料を。それでは、僕は打ち合わせがありますので」
高階は会釈し、さっと背を向けた。奥の扉へ消える長身をあやねは見送る。
まったくの初対面なのに、こちらを信頼して任せてくれる判断の速さ、誠実さ。
むやみに疑うような狭量さもない。こちらのボランティアで片付けてもいい申し出なのに、報酬もちゃんと約束する。
度量も技量も広いひとだ、とますますあやねは感じ入った。
でも、そんな有能なひとなのに、なぜ他部署から風当たりが強いのだろう。
(ううん、そういう疑問よりも、いまは精一杯力を尽くさなくちゃ)
「制服のある控室はこちらです。歩きながらですみませんけれど」
あやねは女性スタッフに案内されつつ、名刺交換をする。
どうやら彼女は『事業統括部 バンケットプロデュース課』所属らしい。早足の彼女のあとについていきながら、あやねは問いかけた。
「ホールスタッフは派遣でも、パーティの手配は外部ではないんですね」
「ええ。パーティのときだけ、内情を知った派遣会社にホールスタッフをお願いしています。ただ……数日前に、課のチーフを含む何名かのスタッフが、一身上の都合だと突然辞めてしまって。
はあ、と女性スタッフは肩を落とした。
「配属されてまだ二年なので、経験が足りなくてなにがなんだか」
「ずいぶんとトラブルが重なりますね」
「……本当に、そのとおりですよ」
あやねの何気ない問いに、女性スタッフの顔は強張った。
なにかいわくがありそうだったが、内部事情なのかそれ以上の説明はなかった。
控室でばたばたと着替えを済ませ、受付や
派遣らしいレセプタント(一昔前の呼び名ならコンパニオンだ)たちもいた。彼女たちは、今日こられなくなったホールスタッフとはべつの会社から派遣されたようだ。
接客は彼女たちに任せて裏方に徹すればいいかと、あやねは少しほっとする。
「急ですが、キャプテンとして今回のパーティを担当する花籠です」
手書きの名札を胸につけ、あやねは資料を手にスタッフの前に立つ。
「すでに打ち合わせは済ませていると思いますが、もう一度確認を」
「あの、今回これが初めてのミーティングですが」
「へ?」
「ふつう事前にミーティングしませんか。少なくとも前日には」
「それが……退職した前チーフが、ホールスタッフもレセプタントも、いつもと同じ派遣会社だから、今回は事前ミーティングは必要ないといっていたので」
いいにくそうに、女性スタッフは答える。
「ずっと取引してきた派遣会社なので、だいたいの流れはわかっていると。わたしも引き継いたばかりで、そういうものかと受け取ってしまったんです」
あまりにおかしい話だった。トラブルが重なりすぎているし、このホテルの担当者の手際も悪すぎる。こんな
それとも、最近になってから杜撰になったの?
あるいは、わたしがおかしいの?
自分の知っているやり方と違うからって、違和感を抱いているだけ?
だが追及する時間もないし、そんな場合でもない。あやねは渋々引き下がる。
「えっと、それでは、改めてミーティングを始めます」
しかたなくあやねは口を開きつつ、手元の資料に目を落とす。
『青葉グランドホテル総支配人・高階啓明引退記念会』
──高階。
あっ!? とあやねは資料を凝視する。
やっと案内の看板を思い出した。
「どうしたんですか、続けてください」
「は!? はい、すみません」
女性スタッフに促され、あやねは資料を読みながらミーティングを始める。だが内心は激しく混乱していた。
高階啓明って、高階部長のご親族?
つまりもしかして、彼は総支配人の身内?
だったら、若くして事業統括部長という肩書があるのもわかるけれど。
疑問だらけの状況。不明点ばかりの現場。
とはいえ、やることは自分がこれまで手がけてきた仕事と同じだ。そこだけが救いだった。
【次回更新は、2019年10月20日(日)予定!】
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