第3-1話 自称カミサマとの遭遇




     3




 全てを吐ききって身体に強い倦怠感を覚えた。最後の力を振り絞って水を流し、トイレの床に腰を下ろす。そのまま座り込んだのは立っていられないからだ。


「やれやれ、いきなりこんな仕打ちとは酷いねぇ」


 ふぅ、と吐息をつくようにして、便器の中から男が再度、頭を出した。あの顔めがけてリバースしたというのに、男の顔にはそれらしい嘔吐物の痕跡は見られない。


「…ば、化け物?」


 恐る恐る問いかける。こういう心霊体験が一度もなかったわけではない――何しろ幼馴染によって心霊スポットを連れまわされて、怖い思いを何度かしている――が、ここまではっきり見えて、きちんとした言葉を話す化け物は生まれて初めてだ。元気な時ならきびすを返して自室へ戻り、ネットで念仏の一つでも検索するだろうが、生憎その元気がないのが悔やまれる。動けないというのはイコールで逃げられないというのも同然だから。


(こういう時って、どうしたらいいんだっけ?)


 なんとか逃げられないかと、目の前の謎の男を見つめる。自分と同じような黒髪で人間らしいパーツを持った生き物に見えるが、どう見たって生身じゃない。便器から頭を出している時点でそれは予測がつく。けれど、こんな「生き生きとした」お化けだなんているものだろうか。

相手は晃佑の心中とは裏腹にやや不機嫌そうな表情を浮かべ、口を開いた。


「化け物とは失礼な。僕は神様さ」


 よいしょ、と掛け声をかけると、男は便器から頭だけじゃなく、上半身を乗り出して晃佑を見つめる。


「ふぅん…どうやら強い力と、僕に合いやすい波長を持っているらしいね。君、生まれは山の方?」

「ええまぁ、この土地じゃないのは確かですけど…って、何普通に話しかけてんだ、この幽霊は!」

「幽霊じゃないよ、神様だって言っただろう?」

「こんな便器から顔を出す神様が居てたまるか!」


 本当のパニックに陥った時と言うのは、得てしてうまく脳が働いてくれないらしい。お化けから話しかけられて普通に言葉を返してしまった。しかも、そのお化けは自らの事を「神様」と称している。


 なんだこれ。こんな不思議体験、あってたまるか。


「…それともあれか、これは夢か?」


 頬を抓ってみるが、吐いたばかりの手に力が入る筈もなく、痛みなんて感じない。


 やっぱりこれ、夢か。その割には酷く頭が痛いし、未だに胃の中がムカムカしている。


「夢でもないよ。おめでとう、ここに来て人間に会えたのは君が初めてだよ」


 ニコリと笑顔を向けられ、悪酔いではない眩暈が晃佑の目の前を揺らめかせた。


「夢でもない…? じゃあ目の前にいるこれは何だ。妖怪か? え、でもトイレの妖怪って花子さんじゃなかったっけ? こいつは男のようだから花男さん??」

「だから妖怪でもないって。最初に言ったでしょ、『神様』だよ。ちょいと訳ありでね、みつ象女はのめ埴山はにやまひめの二神に力を借りて現世に現れてるんだ」


 便座に肘をついて頬杖ついた状態で話しかけてくる自称「カミサマ」に、晃佑は呆然としたまま口を開けなくなった。


 え、どういうこと。今、どういう状況なんだ?


 自分は確か、屋上でバーベキュー歓迎会の最中で。その最中、いささか飲まされすぎたようで、悪酔いしてトイレを探し求める旅に出て…それで、屋上からここまで来て、ようやく胃の中の物を出してすっきりしたところ、で合っている筈だ。

 では、目の前の便器から出てきた謎の男はなんだろう。額に手を当てて一つ吐息を零すと、晃佑は瞬きを数回してから再度前を見遣る。


 うん、間違いなく居るように見える。インフルエンザの薬で幻覚を見ることがあると言うが、もしかするとこうやって見えるのだろうか。


 相手は目の前でニコニコ笑って頬杖ついたまま、こちらの出方を待っているように思えた。

 ――相手に敵意はないようだし、仕方がない。目の前にあるものを否定しても始まらないし、もし幻覚だとしたら自分が寝たらきっと消える。そう割り切って、ようやく口を開いた。


「…訳ありで現世に現れてる、って事だけど。自称『カミサマ』は、この世に来て、何してんの? トイレに出没してここの住人を怖がらせてんの?」


 自分で言ってみたが、その理由はなさそうに思えた。何故ならここの住人にそんな噂を聞いた事がない。精々、立て付けが悪くて時々開かなくなるといった事しか聞いていないのだから。


「野暮用…といって納得してくれそうにもないだろうね。そうだな…」


 自称カミサマとやらは逡巡しゅんじゅんするように視線を彷徨さまよわせる。相手は今、何を言おうと考え込んでいるのか。幽霊や妖怪でもこうして言い淀む事があるのだなと、物珍しげに相手を見つめた。


「説明するとちょっと面倒なんだけど、聞いてもらえるかな?」


 笑顔の筈の相手の表情がどこか少し、寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。






 頬杖ついていた彼は身体を起こし、便器の中から腰辺りまで出して便座に腰掛けるように体勢を整えると、ゆっくりと語りだした。


「僕ね、本当は『道祖神どうそじん』と言うんだ。他にもくなどの神、たむけの神、さいの神…とまぁ、いろんな名前がついてるけどそれは省略」


 省略されるほど名前があるのかと晃佑はキャパオーバーしそうな頭で思ったが、ドウソジンという名前だけは聞き覚えがあった。


 道祖神、ねぇ…。それって、母の地元でよく見かけた石の事だろうか。


 昔、母の実家に遊びに行った時、田んぼの畦道あぜみちや道の脇などいたるところに置いてある男女の姿が刻まれた石の置き物を不思議に思い、母に質問した事があった。母からは「それはドウソジン様よ」とだけ教えられたのだが、子供の頃からそれがなんなのかよくわからず、ドウソジンという名前の石の置き物、程度にしか考えた事はなかった。

 しかし、その道祖神が何故、都内にある建物のトイレの中から顔を出しているのか。

ますます説明がなければわからない事だらけになりそうだ。


「んで、よく知らないんだけど、ドウソジン様ってなんなの」


 晃佑の問い掛けに、自称神様は微笑んで答える。


「道祖神ってのは簡単に説明すると、道の辻で悪いものを遮ったり幸せが出て行かないように防いだりする、境界を司る二人で一つの神様だよ。陰を意味する女神と陽を意味する男神に分かれてるんだ」

「なんか二人で描かれてる石の事か?」

「あ、知ってた? そうそう、それが双体そうたい道祖神どうそじんって言って、アレが本来の僕らの姿なんだ」


 胡散臭さに拍車が掛かった。目の前にいる姿とあの石の姿が一つに重ならないのは、石では衣冠束帯で描かれている男神の服装が、目の前にいる男では現代社会の若者よろしく、ジーパンとTシャツだからだろうか。

 神様の威厳もあったものではないので、晃佑はこれからこの男を「トイレ妖怪、花男さん」と認定することに決めた。花子さんも洋装だし。


「あ、花男さんさ。話の中で『僕ら』って言っただろ? って事は片割れがいるって事だよな。片割れは一緒に来ないの? その用事とやらにさ」


 ふと思った事を問いかけると、話し始める前に見せた笑っているような悲しんでいるような、複雑な表情を浮かべて晃佑に視線を送る。


「うん、それが僕の野暮用。僕がこの現世に出没している理由は、その双神を探す為、なんだ」

「…探す?」

「うん、彼女は今、僕の側にはいない。僕が彼女の力を吸い取って消してしまったからね。神として存在出来なくなった彼女は、転生という形をとってこの現世へと魂を送られてしまったんだよ」


 眉を下げ、寂しげに告げる花男さんの声に、晃佑はばつの悪い表情を浮かべた。


 そういうことは先に言えよ。そしたら、変に触れずに話題を変えたのに。


 二の句が告げずにいると、代わりに花男さんが雰囲気を変えるように小首を傾げた。


「ね、それよりちょっと気になったんだけど。さっき僕の事『花男さん』って呼ばなかった? 僕、そんな名前じゃないんだけれど」


 え、今更そこにつっこむの?


 実は先程か何度かその名前を口に出している。反論してこなかったのでそれでいいものだと思っていた。


「トイレの花子さん、ならぬトイレの花男さん」

「何それ。僕、妖怪でもないんだけど! しかもそんなダサい名前じゃなくて、ちゃんと名前だってあるんだからな」


 憤慨したように告げる花男さん。


だって、神様には全く見えないし。この話を信じるすべもないわけだし。現状は花子さんよろしくトイレに居ついてるわけだからそれでいいじゃないか。


 正論を突きつけると、自称カミサマも弱いらしい。目を泳がせて口笛を吹くような真似をしてみせた。空っ惚けたつもりなのだろうか。


「大体さ、さっきの話が本当だとして。この世に出てくる理由はあれでいいとしても、出てくる場所が何でこのシェアハウスのトイレなわけ? しかも男子トイレって…」


 呆れ混じりの溜息をついて、疑問点を繰り出す。現世に来ている理由云々よりも、住んでいる晃佑からしてみればそれが一番気になるところである。


「え、だって……最初に言ったけど、協力してくれてるのが罔象女と埴山媛の二神だからだよ」


 たどたどしく返事して、花男さんは神様の現状について語りだした。


「そもそも神が現世に立ち入るのにはかなり制限があってね、神は人間の生活に基本的には関与しない事になってる。まぁ、生活と密接に結びついてる神とかは、多少力を使う事を許されてるんだけど」


 屋敷神とか歳神とかね、と付け加える。


「さっき言った罔象女と埴山媛は水の神と土の神。二神でトイレの神とされることも多いんだ。だから、出てこれるのはトイレの中だけ。女性用トイレに出る事も出来るけど、さすがに僕が男だから遠慮したよ」


 成程。神様にもいろいろあるんだな。神様の事情と言うものも興味深い。


「それに、僕に手を貸そうという神は少ない。それは神が普段は中立を保っているからが理由の一つだけれど、付け加えて僕は対の女神の力を吸収して完全体になっている。それを良く思わない神もいるからね」

「それじゃあ、花男さんは神様たちに嫌われてるってこと?」

「一部にはそうだろうねぇ。ところで、またその名で呼んだね?」

「だって、名前知らないし」

 あっけらかんと告げると、花男さんはふくれっ面をしたまま少し考えた後、ポツリと呟いた。

「――むつ

「ムツ?」

「そう、出来ればそっちで呼んでよ」


 ムツ…ムツねぇ。その「ムツ」って何なんだ? ムツゴロウの略だったりするのか?


 不思議そうな顔で問いかければ、更に不服そうな顔をして口を開いた。


「違う。みちのくを意味する『陸奥むつ』から来てるの。『りく』の漢字一文字でムツ」

「みちのくって東北を指した言葉だっけ?」


 問い掛けに陸は頷いて答える。その漢字だと、どっちかって言うと「戦艦陸奥」を思い浮かべてしまうのだが。家を出る前にやっていた戦艦ゲームを思い出して、ちょっと懐かしかった。






 むつと話している途中で、ドタバタとトイレに駆け込んでくる足音が響く。

そんなに急ぐほど切羽詰っているのだろうか。全く、トイレに駆け込むとは忙しない。

とはいえ、一つしかないトイレの個室を自分が占領してしまっているので、ここを使うなら自分も退かなければならないだろう。未だ座り込んだままの状態を思い出し、立ち上がろうと床に手をついた瞬間。


「ミキちゃんっ、無事か?」


 叫び声と共に勢いよく個室の扉も開けて中に入ってきたのは、幼馴染の暁だ。

 そういえば鍵をかけていなかった。その状態で自分が目の前の便器に――正確には便器から出てきている男に、だが――話しかけているのを見られたら暁に変な噂を立てかねられない。

 ハラハラしながら暁を見遣るが、気づいていないのか、暁は便器に特に興味も示すことなく自分へ話しかけてきた。


「具合どう? 生きてるー?」

「…生きてるに決まってんだろ、馬鹿。大体な、この有様で無事に見えんのか、お前は」


 座り込んだまま吐き出すように応えながら、暁を半眼で睨みつける。そのまま横目で便器に目をやれば陸が「おや?」と面白そうな表情で暁を見ていた。


 けしかけたりすんなよ、絶対。


「あっはっはー。ま、悪態つけんなら復活した証拠だろー? 上にいた時のお前、青ざめてたもんなぁ」


 朗笑しながら見下ろしてくる暁は、やはり晃佑にのみ話しかけてきている。便器から出ている男の事は眼中にない様子だ。


(どういうことだ? 暁には、見えてない…のか?)


 晃佑の目には、はっきりとそこに変質者もとい自称神様、陸の姿が映っているのだけれど、幼馴染の目にはそれが全く見えていないようだ。


「…暁、そこになんか見えるか?」


 便器を指差し、問いかける。


「んー? ゲロでも零したかー?」


 後で掃除手伝ってやるよ、だなんて軽口叩いてくるだけで、やはり期待した反応はない。

 そう理解した途端、晃佑の背筋に冷たいものが走る。

 先程まで話していた「何か」が人間以外のものだということを、今更ながら思い知った。



 ――あれは、なんだ?



「……無駄だよ。他の人に僕の姿は見えない。言っただろう? ここにきて人間に会えたのは君が初めてだって」


 ニコリ、と擬音語まで聞こえてきそうなほどのまばゆい笑顔を浮かべられ、晃佑の許容量は限界を迎えた。


「え、マジ、で……?」


 青褪めた顔がますます青くなる。暁も晃佑の様子がおかしい事に気づいたが、様子がおかしいのはきっと具合が悪いからだと思われた。


「……晃佑…もう部屋戻って休んだら?」


 全さんには言っとくからさ、と言われ、晃佑は素直に頷いた。


「あ、また明日にでもここ来てよ。本題話せてないんだからさ?」


 去り際にトイレからそんな声が聞こえたが、考える事を放棄した晃佑はさっさと自室に戻り、ベッドに潜り込んで休んでしまうのを優先させた。





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