19話 読図と国土地理院

 荷物に団体装備である食糧を積み込むと寝袋や炊事道具などの幕営地でしか使わない道具を全てメインザックにしまっていなくてもそれなりの重さになった。秤で重さを量ると秤の針は六キロの目盛りを指していた。六キロか……文字にしてみると大したこと無い気がしてくる。


  実際に先程高校生の先輩達が重さを量っていた時の秤の針は十三キログラムの目盛り近くまで回っていたのだ。あれと比べればかなり軽いだろう。メインザックだとは言え大まかな団体装備を俺達のメインザックに入れている為か鬼登先輩のザックも九キログラムとそこまで重くは無い。


「点呼前までにトイレ、パッキング、水分量の管理ちゃんとしとけよ。水はあまり入れたら荷物が重くなるが、一リットルじゃ多分足りないと思うから水筒満タンに入れておけ」


  十一時までにはまだ少し時間がある。俺はザックの蓋をしめて集積し、設置してあるトイレに駆け込んだ。トイレは俺が想像しているよりも綺麗だった。虫の量は多いが普通に街の公園にある公衆トイレよりも便座が綺麗な気がする。嫌な臭いもそれ程しない。


  山を管理している人が丁寧に掃除して下さっているのだろう。それには感謝しなくてはいけない。床も落ち葉などが落ちているものの定期的に掃除が行われている事が分かる。トイレには


 《いつも丁寧に使って頂き、感謝してます》


 と書いてある貼り紙があった。


  水はトイレのすぐ横にある蛇口から給水可能だ。俺の金属製の水筒は一リットルしか入らないが、スポーツドリンクを持参している為、量は十分に足り得るだろう。先輩曰く市販のスポーツドリンクは浸透圧の関係で薄めた方が水分と塩分の吸収効率が良いらしいが、よく分からない為そのままにしておく。


  時計の針が十一の刻を打った。


「よし、中学生。一班から順に隊列組んで並んでくれ」

「「――班!ザックアップ!」」


  野原先生の指示が出るや否や各部隊の隊長は一斉に声かけを始める。《ザックアップ!》と言う声に合わせて俺はザックを背中に背負い、紐を縛って肩紐の位置固定し、腰と胸のバックルを止めた。カチッと言うバックルを止める音が周りから聞こえ、俺もその音に合わせて胸と腰の紐を縛り長さを調節する。


「大体隊列は班長が最後尾でサブリーダーが先頭だ。体力が無い奴から倉尾に続け」


  鬼登先輩の指示で俺達は隊列を変更した。俺達の班は倉尾先輩を先頭にしてそこに俺と明道が続く形となる。てっきりリーダーが先頭なのかと思っていたが、リーダーは最後尾なのか。


「山は傾斜がある。隊列が離れれば離れる程先頭の人と後方の人との傾斜の差は大きくなる。そうなると前後で歩くペースが変わる訳だ。それに最後尾だったら部隊の全貌が常に確認できる。前が遅れたら後ろは気付けるが後ろが遅れたら前は中々気付けない。だから先頭のペースメーカーは二番手が担うのが妥当だ」


  俺の不思議そうな表情に何かを察したのか鬼登先輩はボソリと呟いた。言われてみると確かにそうだ。それに今鬼登先輩が話して分かった。後ろから投げかけられた声は良く通る。前にいる人の声はその人が後ろを向かない限りはあまり聞こえないのだ。これでは指示も通らないだろう。


「俺達は第六班だから最後尾だ。ちゃんと地図開いて歩けよ?お前らにとって最初の登山だから多分途中で簡単な読図チェックはやると思う。読図に関しては倉尾が上手だからあいつに教わると良い」


  読図……地図を読むのだろうか?ある程度なら地図は読める。だが、山の地図は等高線が大量に引かれており、何が何だか分からない。良く注意して見なくてはならないだろう。


「多分最初だからペースはゆっくりで、先生もポイントごとに止まってくれる筈だ。基本は前の倉尾に着いて行くだけだから力む必要は無い」

「ありがとうございます」


  次々と先頭が山道を進んでいく。それに沿って俺たちも坂道を登り始めた。石段を数段登ると右側には大きな桜の木が見える。春シーズンと言う事もあってか、中々見事な桜だ。


  その先にある石の鳥居を潜り、足を踏み出して先まで続いている石段を一歩一歩俺は登る。傾斜はかなり急で、ゆっくり歩いている筈なのに俺は汗ばんでいた。左右の石塔を見送るとこの神社特有の杉の巨木が目に入った。


「大きい……」


  まだ山を登り初めて数十秒。それなのに俺は景色に魅入ってしまっていた。普段の都会では感じる事の出来ない非日常。それがこんなに美しいものなのか。そう思える程に。


  朽ちた切り株を横目に数歩進むと『馬野神社うまのじんじゃ』と書かれた神社の大鳥居とそこに鎮座する二体の狛犬が目に入った。そこで前列の歩みが止まる。


「良し、じゃあ一旦ここで地図見てみようか。もちろん場所は分かるよね。少し時間とるから一年生は先輩達に教えて貰ってね」



  野原先生だ。勿論場所は分かる。舐めているのか?主要地点が分からなくてどうするって感じだ。そう思った俺は先輩のザックダウンの指示を受けて荷物を降ろし、集積するや否や即座に地図の馬野神社と記載されている付近の山道を指差した。


「ここですよね?」

「お前、そこ違うぞ」


  すぐ様指摘が飛んだ。


「え?でもここに馬野神社って書いてありますよ?」

「違う。聞かれてるのは馬野神社付近じゃなくて、今いる正確な場所だ」

「え……」


  俺は分からなかった。山の地図など碌に見た事も無い俺は地図の見方すら知らない。だからおおよその場所を当てずっぽうに指差しているのに過ぎなかったのだ。


「じゃあ逆に聞くが一ミリズレたら実際には何メートルズレる?」

「ええ……と二十五メートルですか?」

「そうだ」


  俺達が配布して貰った国土地理院の地図の縮尺は二万五千分の一だ。その場合地図上で一ミリの誤差が生じる。それだけで実際には二十五メートルの誤差が生まれてしまうのだ。


「二十五メートル先を見てみろ。そこはここと同じ場所か?」

「いえ、違います」


  二十五メートルも誤差が生まれればそこは全く場所が異なってしまう。つまり、一ミリもズレてしまえば全くと言って良い程地図を読んだ事にはならないのだ。


「まぁ、良いじゃないか、最初はみんなこんなもんだよ。じゃあちょっと説明するね。ここら付近に送電線とか砂防ダムとかの記号があれば最初に場所が絞れるんだけど、そう言うのは最終手段だ」


  鬼登先輩に変わって倉雄先輩が地図の読み方について説明を始める。この地図を読んで場所を特定する事を読図と言うらしい。どうやら明道も俺と同じように間違えた様子で良芽先輩に指導して貰っている。


「じゃあ、道のカーブとかで見たら分かりやすいですね」

「いや、それがね、それも最初にやったらダメなんだよ。カーブで見るのってやっぱり取り付きやすい分初心者が陥りやすいミスなんだよね。いや、場所によっては間違いでは無いんだけど、少なくともここではカーブを示唆するべきでは無いね」


  俺は前方の登山道を眺め、緩やかに道が曲がっている事を確認して発言したのだが、それによって導き出した答えは軽やかに倉雄先輩に却下されてしまった。……読図って面倒くさいな。今の時代GPS使えば良いやないか。俺はそう思った。


「まず見るべきなのは地図では無い。一番確かなのは自分の目なんだ。それに今何の為にこんな事やるんだ?って思ったでしょ?」

「はい」


  倉雄先輩の知的な目が光った。俺の考え……いや、素人が考えそうな事は大体分かるって事か……。でもこの読図をやる必要性があまり出てこない。GPSが使えない状況を想定して……何やらうんやらと言われても俺はここまで正確に読図をやる意味を見出せなかった。


「案外山では電波も通る。ほら、地図を見てごらん。これが送電線の記号だよ。標高千メートル程度の低山であれば大抵の場所で携帯電話が使える。勿論ネットもだ。この県民の森に至ってはwi-fiまで使える。だけどね、君は地図がもし間違っていたら……。とか想定した事はあるかい?」

「え?そんな事あるんですか?」

「勿論だよ。だって毎年地形は変わるよ?国土地理院だって、衛星で観測してたりするから多少の誤差は出るさ。だけど、読図をマスターしておけば地図が例え間違っていたとしても地図自体が間違っている事にも気が付ける」


  倉雄先輩の話を聞いて軽く目眩がした。今までそんな事は考えた事が無かった。国土地理院の地図自体が間違っている。そんな事は普通思わないだろう。いや、例え間違っていたとしても気付ける訳が無い。因みに送電線の記号は地図上に横切る様に引かれている直線だ。記号のなかでは基本中の基本。最も分かりやすい目印と言っても差し支えは無い。


「……とは言ってもそんなに頻繁に間違っていたらこっちも困るけどね。要するに地図が例え間違っていたとしても地形を正確に把握出来るようにしておけば問題無いって事さ。大分話が外れてしまってすまない。それを今後君が出来るように今からオレが読図のやり方を教えよう」

「ありがとうこざいます」


  俺はあまりの情報量の多さについて行けて無かったが、とにかく凄い事は分かったので咄嗟に思わず返事を返してしまったのだった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 読図……地図を読む事。やり方については次話で話します。大雑把に場所がわかるのでは無く、誤差0.5ミリ程度まで抑えられるのがベストです。


 国土地理院の地図……かなり正確に作られている地図。二万五千分の一が一般的(だと思います)。ごくたまに地図自体が間違っている事があります。


 山の電波事情……今の時代、割と電波は通ってます。電子機器不安って方……低山のキャンプ場の場合普通にネットも使えますね。場所によってはwi-fiも使えます。山中は電波は悪いですがちゃんと通ってます。GPSは機内モードでも使えるので、割とどこでも使えて便利です。


 ザックダウン……班長、リーダーの指示で荷物を下ろす。団体行動を守る事は命に直結します。(※時には自分の判断でして下さい)

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