キリギリス
むざんやな
かつて松尾芭蕉が奥の細道の旅の途中、石川県小松市の多太神社に奉納された斎藤実盛の兜を見て詠んだ句である。
小学校のころ、この句だけ聞いてヘルメットの下敷きになってつぶれているキリギリスを想像していた。
なお、この「きりぎりす」、子供の頃の筆者が想像していたキリギリスではなく、現代で言うコオロギの事である。
都会育ちのため、子供の頃は普段キリギリスの声など聴く機会はなかった。
毎年夏休みには、父の会社の保養所に旅行に行っており、その周りでは草むらで声高く鳴いているキリギリスをはじめ、普段都会ではほとんど見られない虫たちの姿を観察することができた。それで、芭蕉の句で現代のキリギリスが出てきたわけだが。
時は流れ、父は数年前に他界。会社に何があったかは知らないが、保養所も会社とは全く関係のないリゾートホテルになっていた。諸行無常である。
◆
きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む
小倉百人一首にも選ばれた、この
キリギリスは霜夜に鳴いたりはしない。真夏の炎天下、やや背の高い草むらの中で鳴いている。
この「きりぎりす」はおそらく、現代で言う「ツヅレサセコオロギ」だろう。
秋深くまで、リ・リ・リ・リ・リ・リ・リ・リと連続した音で鳴いている虫である。
◆
さて、このキリギリスであるが、実は本州に生息しているのは一種ではない。
以前から、キリギリスには複数の種類が含まれている、という噂は聞いていた。1998年に論文が発表されたようだが、少々マニアックな学会誌に掲載されており、直翅類、つまりバッタやコオロギ、キリギリスの仲間を専門に調べている人以外にも知られるようになったのは2006年に発行された図鑑からだろう。
本州のキリギリスは少なくとも二種いて、兵庫県・岡山県から東に生息するヒガシキリギリスと鳥取・広島・島根・山口の各県に生息するニシキリギリスに分けられる。
なお、これら県の境には、1000mを超える山々を含む中国山地がある。
また、ニシキリギリスはさらに、四国・九州から奄美諸島にまで分布している。
昔は、鳴き声だけ聞いて記録用紙に「キリギリス、●個体、鳴き声により確認」と書いていればよかったのだが、最近では兵庫県で確認されたからヒガシキリギリス、ここは広島県だからニシキリギリスという風に記録している。
いや、実際にはもっと複雑だし、今後さらに複雑になるかもしれない。
ややこしい事に、本来ヒガシキリギリスの分布域であるはずの大阪・京都・奈良あたりにも、ニシキリギリスと思われる種が記録されており、その三府県には二種が分布することになっている。そのあたりでは、鳴き声だけでなく採集して外見による区別も必要となって来るのだが、それも一筋縄にはいかないらしい。
さらに、現在ニシキリギリスとされている西日本に生息するグループも、先述の近畿中部のグループの他、四国のグループ、九州南部のグループ、対馬、壱岐、五島列島、大隅諸島、奄美諸島という感じで細かく分かれる可能性があるそうだ。
ただしそれは遺伝子による分析などが必要で、その後も研究は進んでいないようである。
このように、外見では区別困難だが、遺伝子を調べると明らかに別種、という例が最近いくつか報告されている。昆虫だけではなく、トカゲやメダカなんかもそうだ。
とはいえ、そうなってしまうと個人事業でやっている調査員などにはお手上げである。
いや、調査会社だって難しい。確認種リストにキリギリスを一種増やすために分子解析とかやっていたら、とても割に合わない。
そうなるとやはり、キリギリス属の一種というかんじで、種名を決定せずに報告するか……さもなくば四国で確認されたからシコクキリギリス、九州南部で確認されたからミナミキリギリスということに……あれ? 九州南部ってどこから?
参考文献
日本直翅学会 編, 2006. バッタ・コオロギ・キリギリス大図鑑. 687pp. 北海道大学出版会, 札幌.
佐伯英人, 2012. ニシキリギリスとヒガシキリギリスの識別点の検討. 愛媛県総合科学博物館研究報告, (17): 5-17.
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