同定

 このエッセイ上だけではなく、仕事上でも調査員を名乗っているが、現地調査だけが仕事ではない。

 計画策定や報告書作成、環境影響評価は調査会社社員の仕事として、フリーランスの調査員の仕事には他に、同定どうてい作業がある。


 同定と言うのは、生物学の分野では種の名前を調べることを意味する。


 昆虫は種類が非常に多く、日本国内だけで数万種が生息するとされている。

 もちろん、地方によって分布する種は限られるし、そのすべてが確認できるわけではない。一日調査をして、うまく行って一人で百数十種ほど。

 といっても、これらの名をすべて現場で記録することなど当然不可能なので、採集し持ち帰った標本の名前を調べてリストアップする作業が必要となる。

 そこからさらに、絶滅危惧種などの重要種がいなかったかを確認する。


 そこまでの結果を発注元の会社に報告して、あとはそちらの仕事である。


    ◆


 新種を記載するとき、タイプ標本(模式もしき標本)と呼ばれる種の基準となる標本が指定される。

 簡単にいえば、学名―つまり世界共通の名前を論文で記載する時に、例えばカブトムシならばこれがカブトムシ、と指定された標本が存在し、ある個体がそれとじ種であるとめられれば、その個体もカブトムシと言えるわけである。

 ただし、通常博物館や大学などで厳重に保管されている世界でただ一つのタイプ標本をいちいち参照するわけにはいかない。


 そのため同定の際には、専門家の書いた図鑑や論文を参考にするわけである。


 しかし、この図鑑というもの、なかなか高価である。

 仕事の必需品のため、費用は経費で落とせるが、いかんせん先立つものがない。


 手塚治虫の名の由来となったことで知られるオサムシの図鑑、二万五千円強。

 国宝である玉虫厨子たまむしのずしの材料として知られるヤマトタマムシを含むタマムシ科の図鑑、二万円弱。

 の図鑑、四分冊で全部合わせて十万円也。

 その他、色々多数。


 法外というなかれ。

 需要の少ない商品はどうしても高価になりがちなのは、どこの世界でも同じだろう。それにこの手の専門性の高い図鑑は、あまり一般の人が買ってもかえって役に立たないと思われる。最近の図鑑は写真が美しいので、好きな人は見ているだけでも楽しいだろうが。

 それよりも何より、それだけの研究成果の結晶なのである。この図鑑というものは。

 これがなければ、大量の論文を収集することになる。実際専門図鑑の出ていないグループはそんな感じである。


 とはいえやはり、全部は揃えきれないので、専門外のものはその分野が専門の人に同定依頼することが多い。


    ◆


 下ネタで恐縮であるが、この同定どうていの二文字、普通はパソコンやスマホでは変換できない。

 「どうてい」と入力すると、道のりを意味する道程という言葉と、もう一つ別のあまり人前では使えないような言葉が出て来て、たいていそれで漢字変換は終わり。あとはひらがな、カタカナ、アルファベットなどが出てくる程度だ。


 ちなみに筆者のパソコンには『同定』が単語登録してあるし、スマホは何度か使っているうちに学習した。


 とはいえ、たまに変換をミスって変なメールを仕事相手に送りそうになる。送信前のチェックで気付いて慌てて訂正するが。

 最終チェックは大事である。


 それよりも問題となるのは、電車で移動中に仕事の話になったとき。

 仕事の用語とはいえ、あまりどうてい、どうていと繰り返されると、周りの目が気になることがある。自分が気にしすぎなのかもしれないが。


 違うんです。こう見えても自分にも妻と子供が……じゃなくて、昆虫調査の話をしているだけなんです。


 えっ? 虫の話の方がよっぽど引かれるって?

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