生き物の名は

 普段は自然と縁のない方でも、ふとしたときに見かけた花や虫の名前を知りたいと思うことだってあるだろう。


 それでは、次にどうするかというと、知り合いに詳しい人がいれば聞くぐらいで、わざわざ図鑑を調べたりはしないと思う。いや、それ以前に普通の人は手元に図鑑がないのではないか。


 図鑑類は安くても数千円はするし、専門的なものであれば一万円を越えるものも珍しくない。

 また、大型書店の図鑑コーナーに行けば、似たような本がたくさんあるが、知識がないとどれを選べばよいかもよくわからない。でもそれなりの知識を得るには、ある程度図鑑を読まないといけない。


 図鑑を選ぶために、図鑑に載っている知識がいる。

 服を買いに行く服がない、なんて言葉があるが、それに近いものがあるのではないだろうか。


 そして、本屋で選ぼうにも、さすがに立ち読みのできるような代物じゃない。

 大きいし、重い。

 いや、そういう物理的な問題だけではなく、ぱっと立ち読みして判断できるほど情報量は少なくない、というのもある。

 ただ、写真の美しさは一目瞭然であるし、情報量の多さとか、掲載種数の多さなんかで選ぶのもありかもしれない。


 くどいようだが、やはり高い。

 筆者のように調査同定を生業としているものなら経費で落とせるが、特に子供には高い。

 普通は二、三冊買っただけで小遣いがなくなる。下手をするとお年玉とか叩いても一冊買えるかどうか、というものも。


 ただ、筆者の家に関しては、幸いにも祖父が孫のためにか――実は詳しくは記憶にないのだが――色々と図鑑を買ってくれていて、子供の頃の筆者は暇を見てはそれを眺めていた。

 まだ娯楽としてのゲームなどなかった時代。漫画やアニメ、特撮などは多少はあったが、それよりも図鑑の方に興味を惹かれていた。

 子供の頃に思い描いていた昆虫学者にこそなれなかったが、それらは確かに、今の仕事や趣味につながっている。


    ◆


 こう言っては何だが、図鑑にもいくつか問題点がある。昔の図鑑なら特に。

 いや、問題点と言っては作った方々に失礼だろう。

 使用上の注意点というべきか。


 というわけで、筆者の失敗談(?)をひとつ。


 おそらく小学校の高学年くらいの時だったと思う。

 当時住んでいた家の近くで、不思議な虫を見つけた。


 その虫は一見してトンボのような姿をしていたが、トンボにはないはずの一対の細長い触角を持っていた。

 念のために書いておくと、本物のトンボにも触角は確かに存在する。ただ、細くて短いためほとんど目立たない。


 子供の頃の自分にとっては、初めて見る虫であった。

 持ち帰り、家にあった図鑑で調べてみた。


 だが、比較的わかりやすそうな特徴を備えているはずのその虫を、手持ちの図鑑の中で見つけることはできなかった。


 図鑑といってもすべての種が載っているわけではない。そんな基本的なことを知るのは、まだまだ先の話である。


 そして、その図鑑はもう手元にないので、実際に載っていなかったのか、単に見落としただけなのかは、もう定かではない。

 もちろん当時はちゃんとした分類学的手法に従って種を絞り込む、なんて真似はできるはずがない。

 ただ、トンボに似ているけど長い触角がある、という一点だけを手掛かりに、ひたすら絵合わせで手元の虫を図鑑の絵を見比べていく。

 そうして、この虫はこの図鑑には載っていないという結果となった。まあ、見落としの可能性は否定できないが。


 そこで、まだ幼かった自分は一つの結論に達した。

『新種かもしれない』


 となると、次の方法はただ一つ。いや、実際は一つじゃないけれど、当時子供に思いつく方法は一つしかなかったのである。


 すなわち、『詳しい人に見てもらう』。


 コロナ禍のここ数年は行われなくなったが、夏休みの終わりが近づくと、博物館などで標本の名前を調べる会というのが実施される。子供の頃には家から少し離れたデパートでもやっていたような気がしたが、だんだん減ってきている気もする。


 これも記憶があいまいだが、ちょうど近く――といっても電車で三駅ほど――のデパートで昆虫関係の特別展示のようなものが行われており、詳しい人がいれば見てもらおう、ということになった。

 しかし、展示だけで詳しい人はおらず、謎は謎のままとなった。


 ちゃんとした標本の作り方も知らず、小さな紙箱に入れていただけの虫の亡骸はすぐにバラバラになり、新種騒ぎもあっという間におしまいとなった。

 そんなに簡単に新種なんて見つからないよね、というあきらめと共に。


    ◆


 今ならばわかる。


 その虫の正体は、ツノトンボ科のツノトンボもしくはオオツノトンボのいずれかであろう。もちろん、当時も新種でも未記載種でもなかった。

 それと、今ならその二種の見分けも難しくないが、さすがに詳細までは覚えていないのでどうしようもない。


 なお、つのというのは、カブトムシや鹿などの頭にある硬い突起のことだけではない。昆虫の場合は、触角をツノと呼ぶことがある。

 トンボに似ていて触角が目立つのでツノトンボ。そのまんまのネーミングである。


 しかし、似ているのは外見だけで、実際には全く別の生き物である。


 ツノトンボ科は、トンボの仲間――専門的に言うとトンボもく――とは異なり、アミメカゲロウ目というグループに属する。

 アミメカゲロウというと聞き覚えがないかもしれないが、有名なものだとアリジゴクの成虫であるウスバカゲロウ科も同じ目に属している。

 漢方薬の材料となる水生昆虫、孫太郎虫まごたろうむしの成虫であるヘビトンボも以前は同じ仲間であったが、最近では独立したヘビトンボ目というグループに分けられた。


 トンボが不完全変態、すなわち幼虫から蛹を介さずに直接成虫となるのに対し、ツノトンボを含むアミメカゲロウの仲間は完全変態を行い、卵から幼虫、蛹、成虫と姿を変える。


 これも後で知ったことだが、このツノトンボ、博物館などに新種じゃないかとよく持ち込まれるそうである。

 

    ◆


 以上、昆虫の名を知ることが難しいことを示す一例であった。


 もう少し続く。

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