第56話【幸せのレシピ~詩的な物語~サクラ】

【幸せのレシピ~詩的な物語~サクラ】2020.3.22



 神社の前には道路を覆うほどの大きな楠の木があり、見上げると枝がゆったりと風に揺れている。

 上の方の枝には私の部屋の窓と同じように陽が当たってキラキラと光っている。

 あの枝のあたりにはきっと地上とは違う風が吹いているのだろうとぼんやり思った。


 少し歩いて長く一人暮らしをしたマンションを振り返った。


 いつも前だけを見て振り返ったことなどなかったなぁと思いながら白い壁の建物を見ると私の部屋の窓あたりにだけ、やわらかい西日が当たっている。


 時間に追われて通勤していた癖が抜けなかった私がこうして空を見上げている。


 目を閉じるとこの街で暮らした今までのいろんな自分が通り過ぎた。

 いつだって一生懸命だった。


 自分の体温を与えるようにぎゅっと抱きしめ、あたためてくれた母はこの日を空から見ているのだろうか。


 私と共に生きて行きたいと言った彼が数歩前で立ち止まり、振り返って私を見つめていた。



 あの日の母さんのように優しい眼差しで……温かくて大きな手を差しのべながら


「何だか3年って振り返ったら、あっという間だったね」

 拓巳はちょっぴり懐かしそうな顔をした。

「1度だけ危ない時があったけどね」彼の手に触れながら私は拗ねたような顔をして彼を見上げた。

「それはお前が言い出したからだろ」

 私の右手を優しく包みながら……


 ◇◇

 今は笑って話せるけれど、あの日の事は絶対に忘れないだろう。


 車の速度で流れていく星空を懸命に目に焼きつけたあの日の夜

 別れ話をした私は性懲りもなく強がろうとした、言い終わる前に私の瞼は熱くなり、涙がぽたぽた溢れてしまった。

 そんな強がる私の手を離さずにいてくれたのは拓巳だった。


 遠く離れた街で同じ月を眺めたあの夜も

 悲しい夢を見て泣きながら目覚めた朝も

 スマホから聞こえるいつもの声にホッとしたっけ。


 たくさんの寂しさを超えて来たからきっと今がある。


 幸せのレシピは人それぞれで、まったく同じものなんてきっとない、でもどこかにきっとあるんだと思う、自分をたいせつにしていればきっと見つかるのだろう。


 今年も桜は咲く

 今までと同じように


 雨上がりの薄水色の空に大きな虹が架かっていたあの日も

 いつも通った小学校の玄関横の桜の木にも、幼い頃家族でお弁当を広げた思い出の公園でも、忘れることなくちゃんと咲いてくれる。


 繋いだこの手を離さぬように歩いて行こう

 温かいこの手を……離さぬように歩いて行こう



 ~END~

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