第55話ゾロ目企画第2弾作品【走る男】

  【走る男】


 定年を過ぎて僕には何も残っていないと愕然とした、仕事に全てを捧げる人生だったのだ。


 ある日走ってみようと思った。

 学生時代にはあらゆるスポーツに手を出していたが、どれも人並み以上の結果なんて残していない。


 まずは2キロ走ってみた、脇腹は痛くなるし膝もガクガクだったけど何とか走り終えた満足感はあった、その日をきっかけに毎日走り続けた。走りに余裕が出てくると周りの景色に目が行くようになった。


 走り始めたのは冬のある日、妻の美沙子はいつまで続くのかと疑っていたが、雪の日も小雨の日も休まず走り続けていた、さすがに土砂降りの日は休まざるをえなかったが、僕が住む光が丘三丁目は坂道が多い、子どもたち2人が通った小学校やいつも遊んでいた公園の前を走る

 今でも目に浮かぶのは長女の美月の入学式

 ピンクのワンピースを着てはにかんだ笑顔と誇らしげな美沙子の顔。

 そんな幼かった娘も今では2児の母親だ。


 仲良しだった友達の麻里ちゃんも大きなお腹で実家のあるこの町で出産を迎えるみたいだ。

「美月のおじちゃん」と声をかけられた時はびっくりしたけど、お転婆だった麻里ちゃんが立派な奥さんになっているのをみて懐かしかった。


二丁目の山口さんの家には男の子が生まれたようで立派な鯉のぼりが風に揺れている。


今年大学を卒業した息子の航太も晴れて社会人になる、鯉のぼりを嬉しそうに眺めていた小さな男の子だったのにと感慨深い。



 妻は1年前から英会話を始めた、還暦を過ぎたところだったけれど熱心に通っている。


 そんな美沙子に負けてはいられないと思ったのが走るきっかけだったなんて口が裂けても言えない。

 子育てを終えた頃から美沙子の好奇心はムクムクと芽生え始めてありとあらゆる習い事を始めた、フラダンスにカラオケ教室にウクレレ教室そして英会話である。


 とりあえず食事の用意はされている、昼飯を1人で食べることにも慣れて来た、思えば主婦は1人で食事をする事が多かったのだと思う。子育ても大変だったのに、僕は仕事に追われてほとんど協力できなかった。

文句も言わずにいた妻を誇りに思う。


だからこそ1人で食事することが寂しいなんてそんなことは言えるわけが無い。


「そう言えばさぁ、市民マラソン大会が参加者募集してるから、挑戦してみたら」

 

美沙子の助言で参加することにした。


 僕は毎日走る


 なんのために走る?


 そんなこと分からないけど僕は走るんだ。


 ある日美沙子が言った

「そろそろ通常の会話も出来るようになったし世界一周の旅に出ましょう!結婚する時にいつか歳をとったら一緒に世界一周しようって約束してたでしょ」


そんな約束していたなんてすっかり忘れていたし、その目標のために英会話を始めたのだということに僕は驚いた。




子育ても落ち着いたんだし、これからは2人で生きて行くんだ。

死ぬまで一緒に生きて行くんだ。



さて、その前に市民マラソンの完走を目指して頑張ろう。


履きなれたランニングシューズの紐を締めてドアを開けた。




「了」



 ……………………………………………………


 仕事帰りに良く見かけるオジサンがいます。

 一生懸命走ってる姿をみて書こうと思いました。


そんな夫婦になりたいとの思いを込めて……




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