001 お隣さんとの出逢い

人生において、絶対的な幸せとは何か…仕事で成功して金を稼ぐこと?いや、違う。可愛い女と寝ること?いや、違う。天と地がひっくり返っても変わらない幸せ…それは美味しい料理を食べることである。



「あの…すみません。この場所への行き方わかりますか?」


田中翔は神戸の大学に通う二回生である。


平凡な苗字を持つ彼の唯一の長所は、人から声をかけられやすいことだった。街を歩けば知らない人から道を尋ねられ、観光地にいけば写真を撮ってくれと頼まれる。


優し気に見える目じりの下がり加減、ゆったりとしたどこか隙のある動作。翔は人から近づかれやすいオーラを全身に身にまとう青年だった。


「あー、ここならハーバーランドの近くだね。この駅から西明石・姫路方面のホームに上がるといい。大阪・京都方面のホームに行っちゃ駄目だからね。神戸駅で降りたら、ハーバーランドはどこですか?って近くの人に聞いてみるといいよ。神戸市民ならみんな知ってるから教えてくれるはずだ。」


白い帽子を被った中学生ぐらいの女の子が、ぺこっとお辞儀をし、ホームに上っていくのを見送る。


軽快なステップで、少女はさっそく教えたのと反対方面のホームに上がっていこうとする。スカートの裾から白く細い足が見え、その美しさに一瞬目を奪われながらも翔は我に返った。


「違う違うっ!そっちのホームじゃない!」


翔は大きな声で呼びかけながら、逆側の階段を指さした。


少女は慌てた様子で階段を下り、無事に目的地へ向かうホームの階段を上がって行った。


これまでも数多くのご老人、外国人、迷子の子ども等に声をかけられ、彼の20年の人生で助けてきた人々は数え知れない。


人に声をかけられやすいことは、本人の意図するところではなかったが、嫌な顔一つせず彼らを助けてきたのは、彼が誠実に人と接しようと常々意図しているところであった。


神戸の繁華街に位置するレストランでのバイトを終え、翔は疲れた様子で下宿先に戻った。


等身大の鉄人28号の巨大な模型がそびえ立つ公園から、五分ほど歩いた閑静な住宅街に位置するぼろアパートである。


先月、隣の部屋の中年男性が、夜中に荷物をまとめてワゴン車に詰め込んでいるのを目撃した。おそらく夜逃げ的な何かだろう。


それ以来、隣からは何の生活音も聞こえず、ずっと空き室になっているようだった。


部屋の電気をつけ、すぐさまシャワーを浴びた。


飲食店の厨房でのバイト終わりは、体中に油の酸化した臭いがついてしまう。


シトラスの香りを漂わせ、すっきりした気持ちであがると、時計の針は既に午後10時を回っていた。


冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出そうとした時、隣の部屋から「ゴトッ」と、何か物が落ちたような音が聞こえた。


隣の部屋は空き室になっていたはずだ。戻らない住人にオーナーが痺れを切らし、新しい入居者が決まったのだろうか。



しばらくの静寂のあと、鈍い電子音が部屋に鳴り響いた。



僕の部屋のインターホンを誰かが押しているようだ。こんな時間に来訪者なんて珍しい。そもそも一人暮らしの大学生の部屋への来訪者が珍しい。


翔は少し警戒心を抱きながら、ドアの覗き窓から来訪者の正体を確認した。


黒いショートボブの髪型の、可愛らしい顔をした少女が佇んでいる。


少し緊張して、どこを見ればいいのか分からないというふうに、伏し目がちにキョロキョロと周りを見渡していた。


流石にこんな小さな少女に襲われる危険性はまずないだろう。チェーンを外し、翔は玄関の戸を開けた。


「あの…、夜分遅くにすみません。きょうっ、あっいや、本日、隣に越してきた、立花桃花と申します。以後、よろしくお願いしますっ!」


伏し目がちにペコペコお辞儀を繰り返しながら、早口で桃花と名乗る少女はそう告げた。


「あの、これ。つまらないものですが…。」


「あっ、ご丁寧にどうも。ありがとうございます。」


桃花から紙袋を手渡されたとき、伏し目がちだった桃花とやっと目が合った。


「あっ…。」


一瞬桃花は目を丸くし、驚いたような表情を見せた。


「うん?」


「いえ、何でもありません!夜分すみませんでした。」


もう一度深くお辞儀をし、桃花はコンクリートの廊下をスリッパでぱたぱたと叩きながら、隣の部屋に戻っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る