第9話 アルテ、怖くて震える

 アルテはオルキンスの個人研究室にいた。

 決して広くはない部屋だが、壁のほとんどを本棚に囲まれているためか辺りには紙の匂いが充満している。


 ふとテーブルの上にある本が目に入った。分厚くて重たそうなその本の表紙には『事典』の文字。アルテがマスターの部屋で金剛石を確認するために見た本と同じものだった。

 アルテはおもむろに手を伸ばす。


「触れるな」

「はいぃ!」


 突然うしろからかけられた低い声に驚き、サッと手を引っ込める。

 音もなく入ってきたオルキンスはドアを閉めて、事典を乱暴に本棚へと押し込む。

 アルテはこの狭い空間にオルキンスと二人だけ、という状況にすこしだけ胸がざわついた。一歩、また一歩と下がり、オルキンスと距離をとる。


「なにをコソコソと動いている。金剛石が欲しいのだろう?」

「あ、はい、欲しいです!」

「だったら大人しく待っていなさい」

「はいっ」


 アルテの一所懸命な行動に感化されたのか、または諦めたのかはわからないが、オルキンスは折れてくれた。しかもなんと情報なんかではなく、金剛石そのものをくれるというのだ。こんなに上手くいってよいのかとアルテは疑問に思ったが、こんなチャンスを逃すわけにはいかないと考えた。


 アルテは背筋をピンと伸ばして両手を前で合わせるという、いつもマスターの前でとっている姿勢を維持する。棚からビンを持ってきたオルキンスのアルテを見る目がふいにやわらかくなったように見えた。


「これが、金剛石だ」


 アルテの瞳は、ビンの中でわずかに青い光を放つ金剛石に釘付けになった。そして息をするように声をもらす。


「……きれい……」


 アルテはおそらく今、初めて『美しい』という感情を覚えた。表面は真っ黒でただの炭みたいに見えるが、欠けた部分は呼吸をしているかのように青い光が小さく明滅している。

 そんなアルテの姿をまじまじと観察していたオルキンスの口元が怪しく吊り上った。


「アルテ君、きみも認識しているとおり、この金剛石という鉱石は非常に価値の高いものだ。申し訳ないのだが、タダで渡すわけにはいかない」

「あ、はい。7,000……ですよね。足りないならこのお財布もあげます」

「いや、そんなものではまったく足りんよきみ」

「え、えっと……」


 アルテは口ごもる。そしてオルキンスの瞳を見て、一歩あとずさった。

 原因はまったく見当もつかないが、彼の視線や雰囲気になぜか『危険』を感じたためだ。

 オルキンスはなにも言わずにゆっくりと近づいてくる。

 オルキンスに一歩せまられるたびに、アルテはそれに合わせるようにしてあとずさる。

 トン、と背中がドアにぶつかった。

 そこへ今度はオルキンスの腕が伸びてきて、逃がすまいとするようにドアに手がかかる。


「え、あの……オルキンス、さん……?」


 オルキンスは無言のまま、にやりと笑った。

 その瞬間、アルテは全身からスーッと血の気が引くような気がした。血液が通っているわけではないが、あまりの恐怖に体が硬直したのは確かだ。

 ただそんな中でも、アルテの腕は無意識的に動いた。自身の胸を守るように交差させたのだ。


 オルキンスはその行動にクツクツと喉を鳴らして笑った。真意の見えない意味不明な恐怖がアルテを襲う。

 そしてオルキンスは低く小さな声で囁いた。


「……金が足りないのなら、体で払えばいい」


 ゾワッとまた全身をなにかが逆立つようだった。

 意味はまったくわからなかったが、とにかく怖いと感じた。

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