ii 君子は危うきに近寄らない


 その部屋はあまり広くない。


 うず高く積み上げられた布や紙に囲まれていて、たった一つの扉以外は壁も見えない。

 空気は埃と黴に満ちている。それに慣れているクヅキでも時折しわぶいた。


 物心ついたときには、クヅキはもうこの部屋に繋がれていた。


 だから外の世界を知らない。

 いや、本当だったら外の世界を知らないこと自体を知らなかっただろう。

 でも少年は気づいていた。


 この狭い部屋には“世界”がある。


 学術院最奥の、秘められた保管室。

 古今東西あらゆる魔導紋が地層のように積み上げられている。


 紋は世界の理を描いたもの。

 いつかの時代にだれかが描いた世界の姿そのものが、この部屋にはたくさんあった。


 別にだれに教えられたわけでもない。でも、人間の話す言葉を覚えるより早く、与えられる命令の意味を覚るより先に、クヅキは魔導紋を育った。

 あまりにも当たり前に周りに溢れていて、息をするように馴染んでいる。


 目の前にある紋を一人指でなぞる。

 雲に覆われた天空から雨滴の降りそそぐ様を描いたものだ。

 クヅキは実際の空も雲も雨も見たことはない。だから情景としては浮かばない。

 それなのに、どういうものかは知っている。紋と術式の形として識っている。


 恐らくこのクヅキの感覚を理解できる人間はいないだろう。

 あるいは、この紋を描いた古代人なら、分かったかもしれない。

 けれど彼らはもういない。


 クヅキは静かな夜に見知らぬ景色を形だけなぞった。

 紋はどれもが美しい。だからきっと世界も美しいのだろうと思いながら。


 外が朝になってほどなく人間が一人ご飯を持ってくる。

 クヅキは、それはあまり好きではない。

 一日一回のそれにはちゃんと必要最低限の栄養がある。でも十分な量ともいえない。

 そのせいで飢餓が常態化していたが、それが当たり前になっているクヅキはそれが飢えだとは知らない。なんだか分からない焦燥イライラだとしか思っていない。


 仕事の時間、この保管室の扉は開け放たれる。

 クヅキは、仕事は好きだ。

 言われた通りにすれば、必ずご褒美がもらえた。とても甘いそれは、クヅキの無自覚な飢えを癒してくれる。


 仕事で隣の部屋へ出ると、小さな窓に切り取られた外の世界が少しだけ見えた。

 鎖が短いから近づいては見れない。人間に気づかれないように、ときどきそっと外を盗み見て楽しんだ。


 別にクヅキはこの生活に不満はない。

 黴臭い小さな部屋も。動きを縛る鎖も首輪も。それが普通である。


 ただ。ただひとつだけ息苦しく思うのは。

 あふれるように美しい紋が頭に浮かんでも、それを描いて形にすることができないこと、それだけだ。



 ***



 ライドウは気を引かれ、座り込む小さな子供に近づいた。


 少年はライドウを見上げてきたが、黙って動かずじっとしている。

 痩せた小さい体と色の悪い顔。あまり健康そうではない。呼吸もやや喘鳴じみているから、肺が悪いのかもしれない。


 首輪に手を伸ばす。怯えた子供は目をつぶって身を強ばらせた。


 魔導紋の象嵌された銀色の首輪は魔力を帯びてチラチラと煌めいている。

 管理番号のついたそれをライドウは知っていた。


「ああ、お前、無魔力か」


 ちょっと引っ張って確認すると、首輪の魔力に首がうっすら赤くなっている。間違いないだろう。


 手を離してやると、子供は心地悪いづそうに身をよじった。


「お前はなにしてるんだ、ここで」


 戯れに聞いてみる。


「いつからいるんだ、お前」


 子供はライドウの目を見つめるばかりで、答えはなにも返ってこなかった。

 言葉が理解できなかったか。


 魔力のない人間は動物と同じである。

 魔力が筋肉に強く作用するように、脳の働きにも作用している。

 それが、人間と動物の思考力の違う理由だろう。

 だから必然的に魔力のない人間の知能は動物並みだ、ということになる。


 だということになるのだが、目の前の無魔力の少年は、なにか言いたげに唇を小さく動かした。


「お。さすがに言葉は分かるのか」


 考えてみれば、犬猫だって飼い主の言葉をある程度理解するだろう。

 いくら魔力がなくとも言葉ぐらい分かりそうなものだ。


 むしろ返事をよこさないのは、首輪に刻まれた術のせいだろう。

 吠える犬をしつけるのによく使う、鳴くと魔力が撃ち込まれる紋がついている。

 無理矢理声を出させて痛めつけて楽しむような、そん悪趣味はライドウにはない。


 それよりも、この子供にどの程度の知能があるかが気になる。

 知るのは簡単だ。手っ取り早く魔力で思考を覗けばいい。


 適当に頭を掴んで魔力を流し込んだ。


 ほんの一瞬、僅かに流し込んだだけのつもりだったが、子供は相当驚いたらしい。鎖が鳴るほど逃げてライドウをにらんだ。


「おっと。悪い悪い。にらむな」


 魔力はなんの抵抗もなく脳を走ったが、形のある思考のようなものは微塵も読めなかった。せいぜい、とっちらかった断片程度だ。


 一瞬すぎたのか、なにも考えていないのか。

 なにも思考していないようには見えないのだが。


「ほら、少しだけ。痛くはしないから。な」

 

 危ないおじさんな台詞を吐きつつ手を伸ばす。子供は鎖の長さいっぱいまで逃げて小さく唸った。


「ああ、分かった。ほら、なんもしないよ」


 この子供はライドウの物ではない。さすがにここまで嫌がられて、なお手を出すわけにはいかない。

 ライドウは伸ばした手で頭を撫でてやった。

 子供は嫌そうに首を振り、小さな口を動かした。


「Ddtctdsvrddrr」


 首に走る痛みを分かっていながらも吐き捨てずにはいられなかったらしい、言葉。

 それは、ライドウの聞き間違えでなければ、古代術式語だった。現在では魔術ぐらいにしか使われない死語である。


 ライドウに驚きが走る。


 意味は。ライドウですら少し考えなければ意味など出てこない。

 確か。現代生活語ではぴたりとくる単語はないが。訳せば、そう、「激烈に臭い」か。


「え」


 ライドウのことをクサイと言ったのか。思わぬ言葉にライドウは動揺した。

 確かに昨日ニンニクを大量に食べたけども。人里に来る前に体臭対策はばっちりしたつもりだ。失敗してたのか。


 子供は本当に嫌そうな顔をしている。

 思わずライドウは自分の匂いを確認した。が、体臭が自分で分かるはずもない。

 焦った。

 焦って、子供が古代術語をしゃべったこととか、どうでもよくなった。


「お待たせいたしました、ヴォルク殿下」


 嫌なタイミングでタラタが戻ってきた。

 近づいてくるタラタをライドウは疑いの目で見る。こいつも何食わぬ顔で話し掛けてくるが、内心は殿下臭いとか思ってんのか。あーもーやだ。


 タラタが様子のおかしい殿下に首をかしげる。


「殿下? どうかなさいましたか?」


「いや、別に」


 ライドウは余計なことを教えてくれた子供をにらんだ。

 そうすると、なんだか子供もふてぶてしい顔でにらみ返してくるように見える。

 こいつ。絶対かわいい小犬とかじゃない。


「おや。クヅキと遊んでくださっておいででしたか」


「クヅキ?」


「はい。この子の愛称です。数年前からこちらで飼っております」


 よくこの可愛いくないやつを飼ってるな、という言葉をライドウは飲み込んだ。


「しかし、高貴な方のお相手ができるようにはしつけておりませんので、もしやなにか失礼などありましたでしょうか?」


 ライドウの不機嫌そうな様子にタラタが見当をつけたらしい。

 まさにその通りなのだが、まさかクソクサイと言われた、とは言いにくい。


「別に。少々待ちくたびれただけだ」


 不機嫌をタラタのせいにした。


「それは、誠に申し訳ございません」


 タラタは深々と頭を下げて詫び、手に持った大きいファイルを恭しく差し出した。


「どうぞ、殿下。こちらはまだ部外秘のものです。どうかお取り扱いにご注意ください」


 ずいぶん勿体つけた物言いだ。

 受け取ったそれをライドウはぱらぱらとめくって見た。

 見て、タラタの勿体ぶる理由が分かった。


「……古代の紋か、これ全部」


 挟まっているのは、紙へ模写された紋のデザイン図。しかし、その紋は普段見慣れたそれではない。


 遥か昔、もっとも魔導紋術が隆盛を極めた時代に作られたものだ。


 当時の技術はほとんどが失われている。

 度重なる侵略、王朝の交代、民族移動で物理的に技術が失われ、古代と呼ばれる時代が終わり、中世の術式魔術の隆盛により紋文化は一度完全に終わっている。


 再び紋に注目が集まったのは、近代に入ってからである。

 道具や機械への魔術の応用が研究されるにつれ、術式回路としての魔導紋が考案された。

 そのもとになっているのは、古代の紋の研究により僅かに剽窃した魔術定理である。


「ええ、殿下。これらはすべて保管室より発掘したものです」


 この国最古の図書館であるここには、その古い時代の紋が遺棄された部屋があった。


「……よく手を出したな」


 しかし、保管庫は長らく整理も研究もされずにきた。


 古い紋は強力でありながら不安定で、恐ろしく簡単に暴発する。

 魔力の高い人間が紋の積まれた保管室に近づくのは、火を持って火薬庫へ飛び込むようなものだ。

 古代紋という宝の山を前にしながら、学術院の魔術師たちは指をくわえているしかなかった。


 タラタは、危険をおして宝の山へ手を出したのだ。


「なかなか困難を極めますが。魔導紋の研究発展のためを思えばこそ、意義あることと存じます」


 殊勝なことを言っているが、つまりこの図録を出版、販売するだけでも相当稼げるということだろう。

 さらに身も蓋もない言い方をしてしまえば、新しく有用な魔術定理でも見つけられれば、企業にめっちゃ高く売れる。


 表向きは学術的な探求心。本音は名誉、名声、金。まぁ、そんなところだろう。

 いずれにしても、ライドウにはもはや興味のないものだが。


「よろしければ、殿下にもおひとつお見せしましょう」


 タラタはそんなことを言い、無魔力の子供に近づいた。


「クヅキ、殿下のために紋をひとつとってきなさい」


 机につけていた鎖を解くと、クヅキはふらふらと保管庫へ歩いていく。


「……なるほど。それで魔力のない子供を飼ってるわけか」


 保管庫からクヅキが紋を持ってきて、ようやくその役割が分かった。

 安全に紋を動かすために使っているのだ。


 クヅキはガラスのケースに紋を収めて机へ置いた。


「よしクヅキ、よくできたな」


 小さな袋を取り出してクヅキに与える。クヅキは嬉しそうに舐めた。


「なんだ、ご褒美か?」


「ええ。ただのジャムですが」


 渡されて見れば、小さなパウチのジャムだった。


「ご覧ください、殿下。危険ですので、ケースにもお手をお触れにはならないよう、どうぞご注意なさってください」


 促され、ライドウはケースを覗いた。

 図録ではない、本物の古代紋が、ガラス越しとはいえ、目の前にある。


「……」


 ライドウも素直に感嘆した。


「いかがですか、殿下」


「タラタ院長」


「はい」


「コーヒーが飲みたい。持ってきてくれ」


 唐突な要求にタラタは鼻白む。が、殿下の要求を無下にはできず、コーヒーを取りに離れる。


 邪魔者を排除して、ライドウは改めて紋を眺めた。

 隣で一緒に眺めているクヅキに気づき、ライドウは言った。


「Hvnvrsn, schbtflthng」


 ライドウが知るなかで最も美しいことを表す言葉だ。

 意味が伝わったのか、クヅキがライドウを見上げた。


「Sntthrghk」


 返ってきた言葉は「透明」というような意味だった。透き通ってきらきら輝く様、だろうか。


 紋を見て、ライドウはなんだか納得した。言われてみれば、光を描いた紋のように見える。

 ライドウは紋の見た目を美しいと言ったのだが、子供は紋の中身の話をしたらしい。


 はたと気づく。

 もしそうなら、クヅキにはこの紋が理解できている、ということになる。

 さすがにまさかそんなあるはずないだろうが。


 触れないよう気をつけて、光だろうと当たりをつけたところを指差す。


「これが光?」


 クヅキは指先を見て、首を横に振る。


「違うのか。じゃあなんだ、これ」


 開きかけた口は、なにも言わず閉じた。痛いのは嫌なのだろう。

 嫌なのだろうが、なにを考えているのかライドウは知りたい。


 ものは試しとさっきのジャムを視界にちらつかせる。

 見事に釣れたクヅキはジャムを目で追う。


「……お前、これどういう意味だと思う?」


 ちらちらとジャムとライドウを見比べる。

 こくりと小さな喉が鳴って、ようやくクヅキは口を開いた。


「Lg, htd……sqrsnxpn, s……nndrfln」


 聞き取りづらくて意味がちょっと分からなかった。

 たぶん、光の屈折とか分離。あるいは散乱。なにを言いたいのか、ライドウは紋を見つつ考えた。


「……ああ。これ、虹か」


 さてどうだろう。

 本当にクヅキが紋を読めているのかどうかなど、分からない。

 ライドウの妄想かもしれない。

 クヅキは不満げにジャムとライドウを見つめている。


「ああ、やる約束だったな」


 封を切ってやると、嬉しそうに舐め始めた。

 その姿は無害な小動物にしか見えない。


 だが、もし紋が読めているとしたら。

 もし持ち出してくる紋も選別しているとしたら。


 ライドウは背筋に冷たいものを感じた。


 タラタがコーヒーを持って戻ってくる。


「お待たせいたしました。おや」


 クヅキがジャムを舐めているのに気づき、タラタはそれを取りあげた。


「殿下、申し訳ございません。あまり与えすぎますと、次の命令を聞かなくなりますので」


 飢えさせておかないと、ジャムで言うことを聞かせられない、ということだろう。

 クヅキは満足げに口を舐めている。小袋全部舐めてしまったらしい。


「ああ、悪い」


 コーヒーを飲みながら、ライドウはどうすべきか思案する。


「タラタ師」


「はい、殿下」


「素晴らしい研究だな。いいものを見せてもらった」


「ありがとうございます」


 空にしたカップを置いて席をたつ。


「おや、殿下。お帰りですか?」


 タラタは、肩透かしをくらったとでも言いたげな顔である。

 一枚噛みたがると思っていたのだろう。


「ああ。陰ながら成果の実ることを祈らせもらおう」


 これでも多年に渡って王宮やら魔術師会やらという伏魔殿を生き抜いてきた。

 そのライドウの勘が、あの子供の得体の知れなさは危ないと告げている。


 タラタは分かっていないだろう。

 彼らは火薬庫にを突っ込んでいるつもりだろうが。その棒こそが最も危険な爆発物かもしれない、ということに。

 果たして飢えとジャムでどこまで制御できるだろうか。


 ライドウはそんな危険な賭けに付き合いたくはない。


「邪魔したな。失礼する」


「殿下、外までお送りしましょう」


 ライドウは最後にクヅキの頭をわしわしと撫でてやった。

 子供はとても嫌そうに首をすくめた。




 クヅキとライドウが再び出会うのは、それからまだ数年も後のことである。

 なお、原因不明の事故で図書館が爆散してしまったため、ライドウがそこを訪れたのはこの日が最後になった。

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