i 子犬は鎖で繋がれている
クヅキとライドウが初めて会ったのは、かれこれ10年ちょっと前のことである。
古い石造りの国立学術院は底冷えがひどく、外套を脱ぐとやや寒かった。
内衣に暖かい紋衣をつけて来なかったことを後悔し、ライドウはため息をついた。
建物が広大すぎて全体を網羅する暖房機能などない。個々が自分の回りを自分で暖めるのだ。来るのが久しぶりだとそんなことも忘れている。
「Ssrrundngr, mlclsr, vbrtdbyv, brtngthm, agclpwr. Rrngs, 50cmsqr. 」
周囲の空気が僅かに振動して暖かくなった。これでいい。
黒く磨きあげられた廊下は、歩く者の姿を鏡のように映す。
短く刈り上げた髪は濃いめのブロンドで、彫りの深い顔立ちは若々しい。長い睫毛に縁取られた翠の瞳はやや冷たく光る。
均整の取れた体躯はしなやかな筋肉に包まれて、石床を踏んでも足音一つ立てない。
人はこの容姿を彫像のようだと称えるが、自分ではあまり気に入っていなかった。
この見た目は、いくらなんでもあまりに
忍び歩きに使っている
用事のある学術院の図書館は、この国最大の知識集約地だ。といえば格好いいが、要はもっとも歴史の古い学院だというだけである。
手当たり次第に記録を積んできただけで、もはや整理も系統立ても不可能な智の魔窟。
調べものの使い勝手は悪い。ただ、大抵のものはここにある。あるいは埋もれている。
館内へ入った途端に無数の視線を浴びせられた。
学生、職員、研究者、魔術師。どいつもこいつもライドウの方は顔も名前も知らない。しかし向こうは一人残らずライドウのことを知っているらしい。
声など掛けられても面倒だ。一切の視線を無視して歩調を強める。
心配するまでもなく、話しかけてくる人間はいなかった。いや、話しかけられる人間などいなかった。
彼らにとってライドウは既に伝説級の存在だった。
幾つもの部屋と階段を抜けてライドウが向かったのは奥の禁書室だ。高位魔術師と特別に許可された人間にしか入室を許されない。
そんな所にたむろするような連中は、さすがにライドウの記憶に顔や名前が多少はある。
群がって来ようとする有象無象を不機嫌にあしらって蹴散らさなけらばならなかった。
「――ヴォルク殿下」
深みのある声がライドウの本名を呼び止める。
聞き覚えのあるその声は無視するわけにいかないもので、ライドウは仕方なく足を止めた。
「……タラタ師。いや、今は院長だったか」
視線の先で初老の男が優雅に一礼した。
「はい。お久しゅうございます、殿下」
そして上げられたタラタの顔は、見事な愛想笑いを浮かべていた。
「ヴォルク殿下は相変わらずお若いですな」
嫌なことを言う、と思う。
タラタ自身も時を緩やかにした一人のはずだが、見た目が二十歳と初老ではその意味合いが違うらしい。
「……院長も健やかそうでなによりだ。それにしても、こんなところで遊んでいていい役職なのか、学術院の長というのは」
不快感は面に出さず、ただ言葉に刺をのせた。
タラタは愛想笑いを引っ込め、深々と頭を下げる。
「これは、ご不興を被りました。どうか平にご容赦を」
「いい。気にするな」
「痛み入ります。さて、殿下。本日はどのようなご来意で?」
ライドウは、うんざりした気持ちになった。
大魔術師の称号を持つ王族の長老ヴォルク殿下が来たとなれば、立場上お相手をしないわけにはいかないのだろう。殿下学院入場の報せを受けて院長自ら先回りしていたに違いない。
「別に。……ちょっとした、つまらん調べものだ」
「左様ですか。ではご迷惑ながらお側で勉強させていただきたく存じます」
単に下におけない相手だからか、なにか機嫌とりでもしたいのか。“殿下”が滞在する限り近場を離れられないとは、また難儀な話だ。
まさかふとした思い付きで、特に目的もなく来ただけだとは言いづらい。
意味もなく適当に禁書棚をうろついてみても、タラタは律儀に一定の距離を保ってついて来る。あるいはライドウの行動を監視しているともとれる。
ライドウの有する絶大な魔力と強大な魔術は、国一つ軽く転覆させられるようなものだ。また肩書きだけとはいえ、地位と名声は余人の手出しできるものではない。
ライドウにちっともその気がなくとも、国のお偉方から危険視されるのは致し方ない。
そんな奴がふらりと訪れたりすれば、まぁ見張りたくもなるだろう。
慣れたことだった。すり寄ってくるにしろ、まとわりついてくるにしろ、空気のように全て無視すればいいだけだ。
タラタも心得たもので、まさに空気のように侍ってくれている。
たとえ後でタラタが誰かにライドウの行動の逐一を報告するとしても、それは彼の自由だ。
適当に取った本の禁呪に目を走らせながら、ライドウはつまらないなと思った。
この身は、恐ろしく不自由なく満たされている。
その自覚はあった。
力も若さも知能も技能も知識も地位も金も名誉も後ついでで容貌もなにひとつ不足するものはない。
大抵の欲望も願望も叶えてきたし、後ついでで女に困ったこともない。
それなのにこのつまらなさは、一体どういうことなのだろう。そしてそれは果たして後どれほど続くのか、考えるだにうんざりとする。
ここへ来ればせめて知識欲のひとつも満たせるかと思ったが、下町で大衆ゴシップ紙を買って読んだ方がまだ楽しめたかもしれない。
あまりにもつまらなすぎて試す気にもならない禁呪はただただ目を滑る。
ライドウはため息をついて本をもとに戻した。
「ヴォルク殿下は、最近はどのような分野を研究なさっておいでで?」
殿下の不興を読み取ったタラタが気を利かせて、ライドウとしては大きなお世話なのだが、そっと話しかけてきた。
「最近な。……シヌラ魔術の氷点下におけるグルイグ数値の齟齬解消と展開の研究だ」
てきとーについた嘘だった。自分でもなにを言ってるんだかよく分からない、てきとー論題である。
「なるほど、興味深いですな」
当然意味が分からなかったのだろう。タラタがやや顔をひきつらせてうなずく。
しかしまさか
そして、彼の立場と面子を考えれば分からないなどと言うわけにはいかず、さらに分からないことを隠すためにその論題へ深く突っ込むこともできないはずだ。
なお、正直に言えば、ここ数年で最後に熱中したのは“まじぱん”で超リアルなスズメを作って動かして飛ばすという遊びだった。でもそれも疾うに飽いているが。
思った通り、タラタはなにか言葉を継ごうとして、でもなにも言えず、結果として黙った。
その程度の覚悟で気軽に声など掛けるな、と思う。
あるいはタラタが院長としての誇りや傲慢さを捨てて謙虚に教えを請うてくるのなら、ライドウだって超絶技巧を凝らしたまじぱんの作り方を教えないでもない。
でもそんなことは起きないだろう。それが魔術師という生き物だ。
話題に困ったタラタは、ふと思い出したように言った。
「ああ、殿下。ヴォルク殿下の研究と比べますといささか見劣りするでしょうが。なかなか興味深い物をお見せできるやもしれません」
その言い方は、いくらかライドウの気を引くものだった。別に興味深い物が見られると期待したわけではない。
ただ、タラタの芝居がかった物言いは、できれば知られたくなかったという本音の裏返しに感じられたのだ。
「ほう、それは。楽しみだ」
タラタはライドウをさらに奥へ誘った。
どうやら学院は、あまり口外されたくない何かをしているらしい。
もちろん、王族へのご機嫌とり程度で見せてくれるのだから、別に法的にまずい代物ではないだろう。
隠したかったのは、なにか新魔術か定理か。とにかく成果なり名声なりを学院で占有したいものに違いない。
まぁ暇つぶし程度にはなるのではないか。
そう思って大人しくタラタについていく。
図書館の中でも奥まった禁書室の、その中の最も奥。つまり図書館の最奥部。こんなところへ来たのはいつぶりだろうか。特に用もないから恐らく数十年単位だろう。
他の魔術師だって余程の用でもなければ来ないところだ。人影もほとんどない。
ただ書棚の影の大机を幾人かが囲んでいた。
「皆、そのままで」
タラタが、立ち上がりかけた研究者たちを押し留める。
「どうぞ、殿下。こちらで少々お待ちいただけますか」
ライドウに席を勧めてからタラタは姿を消した。
少し離れた椅子に腰掛け、なにをしているのか机に向かう研究者たちを眺める。
そして気づいた。
机の隅に子供が一人、首輪を填められ鎖で繋がれている。
幼い、四五歳かそこらで。その細い手首と足首にも太い鎖をつけられて。ぺたんと床に座っている。
クヅキとライドウが初めて会ったのは、かれこれ10年ちょっと前のことである。
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