07 タツミくん、お腹がすく


 クヅキとともに踏み込んだパン屋の売り場は意外とこじんまりとしたもので、そのことにタツミは驚いた。

 カウンター式の陳列ケースがひとつあるきりである。


 でもまぁそれだけならば、素朴な普通のパン屋だと言えただろう。


「確かにここは裏通りよ?」


 カウンターに佇む妖艶な美女が言う。


 胸の谷間を強調した深紅のドレスは、どう見ても到底真っ当なパン屋ではありえない。


 これが一階パン屋の主人にしてクヅキたちの大家だった。


「でも表向きは食べ物屋だし。死体は困るのよねぇ」


 じゃあ裏向きはなんなのか、などとはクヅキも突っ込めない。


 店先は一見素朴な普通のパン屋だが。女主人の背後、店の奥からなんか呻き声のようなものが漏れ聞こえてくる。


 それを全力で無視して、クヅキはひたすら頭を下げた。


「仰る通りです。本当にこの度はご迷惑をおかけし申し訳ありません」


 後ろでぼへっと美女に見惚れていたタツミも慌てて倣って頭を下げた。


「もしかして嫌がらせのおつもり?」


「滅相もありません」


 大家は頭を下げ続ける店子を見下ろしながら気だるげに息をつく。


「どういうつもりでうちの前に置いてくれたのかしら?」


 特に怒鳴るでもないその声が若い男二人には怖い。


「つもりもなにも。ただ、ちょっとした手違いがあったというか行き違いがあったというか」


「手違い、ねぇ。まさかライドウの仕業じゃないでしょうね?」


 初めて大家の口調に凄味がまとう。


 なんというか、ライドウとこの大家はあまり仲がよくない。


 もともとライドウに紹介された物件だ。だからどうやらこの二人は古い知り合いのようだとクヅキも察しているが、その関係性がよく分からない。


 もちろんタツミはもっと知らない。

 なんで自分はここにいるんだろうと思いながら縮こまった。


「まさか、違いますよ。モズクが間違えて置いてしまったんです」


 まぁライドウに片付けを任せたのだから、やつが指示したものかもしれないが。

 ともかくここでライドウの話が出てくると謝罪はさらにややこしく難しくなる。


「あら。モズクちゃんなの? なら……仕方ないわねぇ」


 頬に手をあて大家はそう言った。

 大家はモズクがお気に入りである。ただ、別にかわいいもの好きだからとかではない。


 初対面のモズクとライドウがあわや殺しあいになったとき、モズクがあと一歩でライドウをぶち殺せそうだったことにいたく感激した、のだそうだ。


 曰くライドウを殺せるのはモズクちゃんしかいない、と。


 だから一体二人はどういう関係なのか、正直知りたくもない。


「仕方ないけれど、死体のせいで迷惑した事実は変わらないわ。雇い主さんはどう誠意を見せてくれるの?」


 たとえお気に入りでも問答無用で許す、とはならないらしい。


 誠意と言われてとりあえずクヅキの頭にはお金ぐらいしか浮かばなかった。


「……失礼でなければ、営業を妨害してしまった分だけでも、弁償させていただきます、が」


 そっと相手の反応を窺う。

 大家は心外そうに顔を背けた。


「あら。貴方にはわたくしがそんなにお金に困っているように見えるのかしら?」


 慌ててクヅキは細かく首を振る。

 大家がお金に困っていないのは事実で、クヅキもそのことはよーく知っている。


「いえ、そういうつもりは、」


「なら別の形にしてくださる?」


「……」


 別の形と言われてクヅキはほとほと困った。


 実のところ、大家は別に怒っているのではなく、困っているのを見て楽しんでいるのである。

 そういう性癖の人だ。

 だからあまり関わりたくはない。なかった。


 困り果てるクヅキを見て大家はしのびやかに笑う。


「ところで。そのは手土産、なのかしら?」


 “後ろの”ことタツミは、美女にねっとりとした視線を投げかけられてぷるぷると震えた。

 彼にはなんだかよく分からないが、とりあえずなんか怖い。


 クヅキも後ろをちらりと振り返り、二人の目が合う。

 え、俺、手土産にされるんですか。そう訴えるタツミが捨てられる子犬みたいだった。


「…………違いますよ。あなたの好みはもっとマッチョでしょうが」


 さすがにここでタツミを犠牲にするつもりはない。


「あらぁ。それはもちろん、逞しい男がくず折れてぐずぐずになっているのを見るのは最高だけれど。ヘタレが泣いて許しを乞うのを見るのも好きよ?」


 後ろでタツミがひゅっと鳴くのが聞こえてきて、クヅキはあーなるほどーと思った。


「やめてください。こいつはうちの新人なので。手出し無用でお願いします」


「まあ残念。でも、そう。新人なの。ふうん」


 楽しそうにそう言って大家がタツミに近づいてくる。


「ねえ、あなた。どうせならわたくしのところで働かない?」


 からかうような声音。迫る赤い唇。鼻を打つ強い麦の香り。


 ぐぅぅぅぅーと、タツミの腹の虫が盛大に鳴いた。


「……」


「……」


「……すみません。あんまりいい匂いがするんで、我慢の限界で……」


 一呼吸の間を置いて、そして大家が吹き出した。


「あは、あははは。やだこの子、おもしろい」


 大家の笑いが収まるまでタツミは顔を赤くして、クヅキは黙ってひたすら待った。


「ふふ。お腹が空いているのなら、うちのパンを食べる?」


 あげくに美味しそうなクロワッサンを目の前に差し出され、タツミは窮境に立たされた。


 大家は慈母のような笑みを浮かべている。


 そっとクヅキを盗み見れば、……知らんとばかりにそっぽを向いてる。


「あの、いやでも、その」


 見てくれは本当に美味しそうなのだ。パンが艶めいて見える。

 しかしこれは、クヅキによると大変よろしくないおクスリ入りなのである。


 タツミは全力で首を振った。


「だ、大丈夫なので、けっこうです」


「あら、そおぉ? 食べたくなったらいつでもお店に寄ってね?」


 タツミをからかって嗜虐心が満たされたらしい。

 大家はほおと息をついて和やかな顔をクヅキに向けた。


「そうそう。そろそろ新しい薬術の紋を組もうと思っているの。償いがわりに付き合ってくださる?」


 クヅキの顔が僅かにひきつった。

 それは、一筋縄でいかない大変な作業になるだろうとクヅキは知っている。


 しかし、断ることもできない。


 クヅキはぎくしゃくと頷いた。


「は。喜んで」


「じゃ、またよろしくね」


 ひらひらと大家が手を振る。

 ひとまず謝罪は受け入れられた。


「それじゃあ表の死体はすぐに片付けるので」


 長居をしてもいいことはない。

 タツミの背を押し出すようにしてクヅキはパン屋を出ようとした。


「ところで」


 それを引き留めるように大家が尋ねる。


「あの死体はフレッシュなのかしら?」


「え、まぁ。新しい、けど」


 質問の意図がすぐには分からず、クヅキは答えた。


「そう。なら、うちで貰うから片付けはいいわ」


 美女の紅いルージュが弧を描く。


「あ、はい」


 クヅキは、大家がその死体をどうするのか知らない。知らないったら知らない。


 ともかくタツミを押し出し店から脱出した。


 店の前には哀れなチンピラの死体が転がっている。

 クヅキもさすがになんだか後ろめたいものを感じる。

 感じたので、タツミの背をさらに押してちゃかちゃかと階段を上り、現実から目を逸らすことにした。


 視界からチンピラが消える。後ろめたさもすっぱり消えた。


「ていうか、タツミ。まだ昼にはちょっと早いだろ。そんなに腹減ったのか?」


 タツミの腹が盛大に鳴ったことを思い出す。

 ある意味あれのおかげで助かったとも言えるが。


「す、すいません。朝食べてなくて」


 無事に職にはありついたものの、タツミはまだ実際には稼ぎをあげていない。それが引け目で、怖い兄に食事の催促などとてもできなかったのだ。

 というようなタツミ的深い事情をつっかえつっかえ説明すると、クヅキは不可解そうに首をかしげた。


「まだ稼いでないってお前、昨日の金塊は家に入れたんじゃなかったっけ?」


「あ、そうですね! 俺、兄に金塊渡してました!」


 つくづく金塊をくれてやった甲斐のない男である。


 どんなアホでも金の輝きは分かるだろうと思ったのだが。もっと分かりやすい少額の現金にしておけばよかった。と、クヅキは思った。


「ともかく。賄いぐらい食べさせてやるから、そういう時は言えよ」


 あとは餌付けが早そうだ。


 案の定、タツミは分かりやすく喜び、感激した。


「あ、あ。ありがとうございます!」


 しかし考えてみれば、そんな空腹状態でも大家のパンにはちゃんと食いつかなかったわけである。

 タツミはアホかもしれないが、たぶんただのアホではない。


 言うなれば、アホなりに一生懸命真っ直ぐ生きているのだろう。

 それなら、せめてその真っ直ぐさが報われて欲しいとクヅキは思う。


「というわけで、まずなんか食べろ、お前」


 二階にタツミを押し込む。


 入り口の部屋、クヅキの言によるとライドウの私室にはライドウがいた。

 昨日と同じく真ん中の一人掛けソファで本を読んでいる。


「あ! ライドウ!」


 クヅキがタツミを放り出し、ライドウに詰め寄る。胸ぐらを掴んだ。


「お前! 死体! モズクに下へ捨てさせただろ!」


「はあ?」


 面倒くさそうにライドウが顔を上げる。


「それが? どうした?」


「どうしたもこうしたも! 大家に嫌がらせするなよ! こっちに腹いせが来るんだぞ!」


「ふうん。あの薬術の魔女、怒ってたんか」


 全く意に介した風もない。

 クヅキは徒労を感じて手を離した。


「……まぁいいや。それはともかく、タツミになんか飯やって」


 ライドウが億劫そうにタツミへ視線をやり、ついで時計へ落とす。


「昼飯どきにはずいぶん早いが?」


「いいから今すぐ!」


「わーかったよ」


 ようやくライドウは立ち上がった。

 大きく伸びをして、わしゃわしゃと髪を掻き回す。


「俺は部屋で仕事してるから、ライドウにしっかり食べさせてもらえよ、タツミ」


「え、あ、はぁ、はい」


 ライドウと二人っきりにされることに若干の不安を感じて、タツミは先に部屋を出ていこうとするクヅキを心細げに見送った。


 昨日今日とタツミがここで過ごした時間はまだそれほど多くはない。

 そしてその僅かな間に雇い主クヅキが真っ当な人間ではなさそうなところを見せられている。


 だが、それでも。それでいてなお、タツミはクヅキが昨日言った「悪いようにはしない」という言葉は本当だろうと、特に根拠もなく思っていた。

 クヅキはタツミを悪いようにはしない、とタツミの本能が言っている。


 一方のライドウは、タツミがここへ来て最初に出会った男なのだが。どうも掴みどころがないというか得体が知れないというか、容赦なく悪いようにしてくる気配がある。

 タツミの本能が、ライドウを警戒している。


 果たしてライドウはちゃんとタツミにご飯を食べさせてくれるのだろうか。


 タツミが戸口に消えたクヅキを目で追いかけ続けている様をライドウは興味深げに観察している。

 それに気づいたタツミがライドウを見つめ返し、無言で見つめあう謎の時間が流れる。


「タツミ、」


 一度は消えたクヅキの顔が戸口に現れ、タツミを呼んだ。


「は、はい?」


 驚いて振り向く。

 クヅキが目つきの悪い目を細め、にっと笑う。


「ライドウの飯、めっちゃうまいぞ」


【朗報】タツミの不安は消失しました。

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