03 タツミくん、のこのこ出勤する
まあ仕事は明日から。
金塊をタツミの懐へ突っ込みながら新たなタツミの雇い主はそう言った。
そんなわけで、翌朝タツミはのこのこと出勤してきた。
一階のパン屋の前はそそくさと通り抜け、それにしても今日も良い匂いだ。
横の階段を上がり、昨日と同じように不用心に開け放たれた扉から中をそっと覗き見た。
「おはよう、ございますー」
昨日とは違って一人掛けに家政夫ライドウの姿はない。
かわりにカウンター向こうで雇い主のクヅキがなにかをしていた。
クヅキはタツミの挨拶に顔を上げ、半分覗いたその顔を見て目を瞠り、穴があくほど凝視した。
「……あ、あの。お、はよーござい、ます」
もしや昨日の今日で採用したことを忘れられたのではないか。
そう思いたくなるような視線だ。
「あ。あー。はよ」
ようやく雇い主から挨拶の返事をもらい、タツミはおどおどしつつも中へ入った。
その挙動をいちいち目で追いながら、クヅキが微かな息をつく。
「……お前。十中八九、金塊を持ち逃げするだろうと思ってたのに。まさか馬鹿正直に来るとはなー」
忘れられていたわけではないようだ。どちらかというと、驚かれたというか、呆れられたというか。
「え、いえ、だって、そんな。逃げるなんて」
「うん。そりゃ契約から逃げたりした日には、地の果てまででも追いかけてって死んだ方がマシって目に遭わせるけども。それでもアホは逃げるだろうと思ってた」
「……死んだ方がマシな目って……」
「タツミはアホなのかアホじゃないのかアホすぎるのか、分からんなぁ」
来てよかったのか来なければよかったのか、タツミにはそっちが分からない。
「というか、俺。昨日からすっごいアホアホ言われてるような気が、するんですけど……」
タツミにだって心外だと思う心がないわけではない。
精一杯の抗議を試みると、クヅキは不可解そうに首をかしげた。
「昨日から? 生まれたときから言われてただろ? 昨日になって気付いたのか? やっと? 遅すぎだぞ?」
「……」
思い返してみれば、確かに昨日どころか昔からよくバカにされてきた人生ではあるが。それとこれとはちょっっっっっと違う。
「ともかく。ちゃんと来て偉いじゃないか、タツミ。ようこそ
クヅキがふわりと微笑んだから、やはり来たこと自体は間違っていなかったとタツミは思う。
でもそういうとこだぞタツミ。
「仕事の説明するな。安心しろ、アホでもできる仕事だから」
「え、あ、はい」
「作業場はだいたい
ついてこいとクヅキは先に奥への戸口をくぐる。
タツミはきょろきょろとあたりを窺いながらその小柄な背を追った。
二階には他にもなにか部屋があるようで、中廊下にはいくつか扉が見受けられる。いずれも開け放たれていて、やたら風通しのいい職場のようだ。
それらの説明は特にせず、クヅキはまっすぐ奥の階段へ向かう。
「朝来たらとりあえず三階へ上がれ。誰かしらいると思うから」
気を散らしているタツミはあまり聞いていないが、クヅキも頓着せずにさっさと話を進める。
「上がると右手が大部屋だ。ここがお前の仕事場な。左に俺とかブロッサの仕事部屋がある。用があったらそっちに聞きに来い。
あっちこっちを指さしていたクヅキが、ようやくタツミを振り返る。
この建物は何階建てだっただろうとか、ここも扉は開いてるなとか、あっちの部屋から賑やかな声がするなとか、タツミの視線はせわしない。
それをクヅキは見てとった。
「……この通り別に複雑な間取りでもなんでもない。いくら
「……」
「な!」
「えっ、あっ、はい。はい!」
「よし。じゃあ。便所もさっき説明したし、大丈夫だな」
「え? あ、えっと、……はい。大丈夫、です」
「うん、まぁいいけども」
もちろんトイレの場所なんてまだ教えていない。
こういうやつはちょっと痛い目を見たほうが物を覚えるだろう、とクヅキは思う。
まぁそうだろうな。
「作業部屋はそっちだけど、仕事の指示はこっちにある。来い」
大部屋とは反対側の戸口をくぐる。
そこは比較的小さい部屋だった。
「通称、会議室。だいたい今受注してるオーダーの進捗は全部ここにある」
招き入れられた部屋で、タツミは驚きと共にぐるりとそこを見回した。
中央に大きな机。窓際のトルソー。天井まで届く棚。壁一面に貼り重ねられた紙々。壁際の長机に並ぶ分厚い帳票の束。
「ちっ。誰もいないか」
部屋が無人なのを見て残念そうにクヅキが言う。
誰かいれば新人の世話を丸投げしようと思っていた。思惑が外れた。
クヅキは部屋の左にある戸口から隣のブロッサムの部屋を覗く。
「ブロッサ、いるー?」
部屋をぐるりと見て、いない。
「ん、まだ
戻ってきてタツミに向き合う。よっこいしょ、と大机に腰を預けた。
「まぁ、うちは出来高制だし。べつに出勤時間とかシフトとかはない。好きなとき好きなだけ仕事をしてくれればいい」
だから人がいたりいなかったりだ、とクヅキが言う。
「え、まじで、ですか?」
タツミはこれまでそんな自由な仕事を聞いたことがない。
夢のようだ、と思った。
「まじだ。とはいえ、基本的には朝来て、暗くなる前に帰るのを俺は推奨する」
やや面倒くさそうに、雇い主が言う。
「仕事の争奪は基本早い者勝ちだからな。早く来るに越したことはない。あとはまぁ、そんなに治安の良いとこじゃないからな、ここは。暗くなってからの通勤でなんかあっても、労災はないぞ」
確かに、タツミも昨日と比べると今朝はさほど怖い思いをせずに来ることができた。それは朝早かったからだ。
もしこれが夜だったなら、と想像するのも怖い。
というか、労災ないのか。昨日はブラックじゃないとか言っていたのに。
夢とは程遠い。
「ええと、じゃあ俺も明るいときに来ます」
「そうしろ。さて。分かってるとは思うが、うちは紋衣のオーダーメイド工房だ」
「あ、そうなんですね」
就職しておいてなんだが、タツミはここがどんなところなのか全く知らない。
目に見えてクヅキが肩を落とした。
「……いちから説明したほうが良さそうだな」
どこからどう説明すればいいのか、クヅキは考える。
なんせ相手はアホも過ぎたアホウ(主観)だ。
「紋衣。をお前タツミ、簡単に説明してみろ」
「え、ええと。紋を入れた服、のこと?」
「そうだ。魔術発動を補佐するための魔導紋を縫い込んだ衣服の総称、だな。ちなみに、魔導と魔動の違いは?」
クヅキの鋭い目つきがタツミを見ている。
「え。あー。えーと。それは、あー」
「おいこら。小学三年魔術レベルだぞ。うん、でもまぁ。それはおいおいでいいや。ともかく。本来、魔力を変換して魔術を発動するには膨大な魔導条件が必要だ。その面倒を省略するための定義づけ、それが
タツミが神妙に頷く。
クヅキはそれを見て眉間を揉んだ。
「……例えば魔術で紙を発火させたければ、まず『Thdsgntnfcmbstblmtrlsscrbn』、そして『Usngmgcthcrbndnstydsgntnnmbrschngdt5,ndthxygntsonnmbrschngdt200prcnt』と『Cnvrtsmgcpwrttmprtrndrsstgntntmprtrndcmbstnasnxdtrctn』という三段階の呪文詠唱が必要になるが、あらかじめ紋でそれぞれの呪文を『ハナ』『ミズ』『タレ』に置き換えると定義しておけば、その6語で発火させられるっつー……聞いてる?」
「はっ。え、はい。聞いてます! でも正直魔術は苦手ですみません」
「うん。別に分かってなくても指示書通り縫ってくれればそれでいいけどな」
ただし、とタツミに顔をぐっと寄せる。
射抜くような瞳がタツミの目の前にある。
タツミは目を見開いた。
「少しでも違えば魔力の暴走を招いて術者の命に関わる。手は抜くな」
顔を動かせば、でことでこがぶつかるほどの近さだ。
「お前はなんも考えなくていい。全部言われた通りにしろ」
タツミは目だけで了解と従順を訴えた。
「よし。いい子だ」
ようやくクヅキが顔を離した。
その顔は微かに笑んでいる。
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