第14話 小林、ドッキドキ、二人きり
中学生だった私が当時、『桜木美咲』という名前を見た瞬間、「なんて愛に溢れた名前なんだ」と思った。
学生時代、私は彼女と話した事は一度もない。
しかし、彼女の誕生日は四月四日である事を私は知っている。この数字は今でも私の頭に焼き付いて離れない。だからと言って、彼女の誕生日に何かしたかといえば、別に何もプレゼントもしなければ、告白する勇気もなかった。
ただ、もし家の近所に教会があったならば、この日に彼女を産んでくれた事を神と桜木美咲の両親に感謝した事だろう。
四月四日に彼女は産声を上げた。きっと、彼女の両親は彼女の誕生を心から喜んだに違いない。
そして感動が冷めぬまま、偶然、病院の窓の外から見えた美しい満開の桜並木を見てこう思ったのだ。
「嗚呼、人生でこんなに幸せな日があっていいのか? 窓の外の桜並木も私の娘の誕生を祝ってくれているように満開ではないか」
そして、彼女の両親は決めた。
「そうだ、娘の名前は美咲にしよう。桜木美咲だ。この美しい桜並木を忘れない様に美咲と名付けようではないか」
彼女が生まれた日を忘れないように、彼女の両親は娘に美咲と名付ける事で、彼女の誕生日が来る度に、きっとその日の事を毎年思い出しているのだろう。
『初心忘れるべからず』
桜木美咲の両親は、きっと己の力に慢心しない努力家な人たちなのだろう。その日から桜木家のクリスマスは十二月二十五日から四月四日になった。
と、中学時代の私は勝手に彼女の名前を見て、そんな事を妄想し、勝手に名前の由来はそう言う結論に至り、想像上の彼女の両親の温かさに心が震えたのだ。
ちなみに彼女の名前の由来について、確認をとったことは一度もない。
まさか自分の人生でこんな瞬間が訪れるなんて、夢にも思っていなかった。私は今、あの桜木美咲が住んでいる、プライベートを過ごしている自宅にいるのだ。
「今、お茶淹れるから、主人はそこのソファに寝かせて。それと小林君の鞄とスーツも……そこのソファにかけといて」
桜木美咲、現在、逢坂美咲は私にそう言った。なんて的確な指示なのだ、と私は感心した。
あの桜木美咲が、私が飲む為のお茶を淹れるのに、ヤカンに水道代がかかる水を入れて、ガス代が掛かるコンロの火でお湯を沸かしてくれている。
明日にはこんなダメな人間のオシッコになって、下水へと流れて行くと知っているにも関わらず、こんな私のために桜木美咲はお茶を淹れてくれているのだ。
なんて献身的な女性なんだ。マザー・テレサやん。
そもそも、『小林光太郎』などと言う、地味でロクに取り柄もなく、深夜ラジオにハガキを送ることを生業にしていた印象の薄いワゴン売りセール級の同級生の事を覚えていて、それから三十年近く経った現代でも、その一円の得にもならない記憶をしっかりと脳内で保存、管理して、私の事を覚えていてくれたのだ。
あの桜木美咲がだ。
私は優秀な記憶力を彼女に与えてくれた、彼女の両親に感謝をした。きっとDHAとかバランスの良い食生活を心掛けてくれたのだろう。
しかし、そんな両親、桜木美咲一同は人生で一つだけ大きなミスを犯した。
今、私が上着をかけたソファにぶっ倒れて、イビキをかいて眠り、情けない姿を晒している、人の神経を逆撫でする為に生まれた逢坂明と結婚してしまった事だ。
嗚呼、桜木さん。アナタほどの方が、なんでこんな男と結婚してしまったんだ!
だが、まぁいい。
さっき、逢坂のカバンの中には離婚届が入っていた。きっと、近い内にこの二人は別れると言うことだ。四十七だが、彼女はまだ美人で魅力的だ。今からでも素晴らしいパートナーを見つける事ができるだろう。
桜木さん、アナタの第二の人生はこれからですよ。ファイト!
「小林君。お茶、入りましたよ」
「あ、はい!」
と、桜木美咲の将来を勝手に案じていたら、テーブルの上に桜木美咲が淹れてくれた紅茶が湯気を立てて佇んでいた。
なんて、気高い、ペガサスの様な紅茶なんだ。
「い、いただきます」
私は桜木美咲の向かいの席に腰掛け、彼女が淹れてくれた紅茶を手にとった。カップの湯気が神が支配する世界、天国に向かって昇っていく。
この湯気は天国に行って、きっと天使になるんだろうな。私は天井の電灯を見上げながらそう思った。
そして、紅茶を口の中に入れた。……美味い。しかし、そんな事は分かっている。おそらく、泥水を煮た汁を飲まされたとしても、私の脳は桜木美咲が淹れたという先入観から、美味いという判断を下すだろう。
だが、この紅茶を口に入れた瞬間、私の寿命が三年伸びたのが分かった。なんて凄い紅茶を淹れるんだ、彼女は。
「お、美味しいです」
「お粗末さまです」
彼女がニコッと笑った。私の臭い息が原料のたった七文字の言葉で、彼女の表情筋が反応したのだ。
しかし、桜木美咲。中学を卒業してから早三十年が経ち、我々も、もはやアラフィフだというのに相変わらずの美人であった。
「でも、驚いた。主人が「素晴らしい方と一緒に仕事をしている」って言ってたけど、その人がまさか小林君だったなんて」
素晴らしい方?
逢坂のやつ、私の事をそんな風に紹介してくれていたのか。やるじゃねぇか。
「い、いえ。その、とんでもありません。私なんて、まだまだ若輩者でございます」
年甲斐もなく緊張した私は、馬から降りてフレンドリーにお話しして下さっている彼女を差し置いて、なぜかド敬語で返事をしてしまった。というか、彼女を目の前にしてから、私の心の声は自分の事を卑下しすぎだと思う。
ただ問題は、嬉しそうに話す彼女を見ていたら、『その話は一週間前にすでに断りました』と言うタイミングを逸してしまった事だ。
マズイな。
逢坂と仕事はしないで、たまにこの家にお邪魔する方法は無いものか。できれば、逢坂抜きで。
「でも良かったわ。私達、最近、このマンションに引っ越して来たばかりで、知り合いも少なかったから」
「そ、そうなんですか?」
そんな美人なら、駅前で適当な人間をラリアットすれば、すぐに仲良くできると思うが。謙虚なんだろうな。
「特に主人はずっと東京育ちだったでしょ? 私は地元が近くなったけど、あの人は郊外には知り合いもいなくて。でも小林君なら良いお付き合いをしてくれそうだし」
それは御免被りたい。
「引っ越して来たの、最近なんですか?」
私は露骨に話題を変えた。
「半年くらい前かな。それまでは会社近くのマンションに住んでたんだけど……色々あってね」
ボソッと呟くように言い、桜木美咲は少し暗い表情で寝ている逢坂の方を見た。
色々あったのか。
中学を卒業してから、何回か同窓会が開かれた事があった。しかし、そこに桜木美咲は一度も顔を見せていない。
確かに都心から地元までだと少し離れてはいるが、別に同窓会を断る距離ではない。
私の脳裏にさっきの離婚届がチラついた。
逢坂との離婚は英断だ。
しかし、たとえ離婚する相手が逢坂だったとしても、女性がバツイチになると言うのは良い気持ちがする事ではない。
「あの、何かあったんですか?」
私は思わず、彼女に聞いてしまった。しかし、質問が下手過ぎて、ふわふわした質問になってしまった。
「あの人ね。二年前に倒れたの、病気で」
桜木美咲はそう言って、ソファでイビキをかいている逢坂を再び見た。ただ、私のその瞬間の彼女の表情に違和感を感じた。
まるで寝ている逢坂を見守るような表情、とても離婚をする相手に向ける顔には見えなかったのだ。
「病気、と言いますと?」
「まぁ、早い話がストレスとか、働き過ぎかな。二年前に会社に行こうとして、朝に倒れて、そのまま救急車で運ばれて。本当、あの時は死んじゃったんじゃ無いかって思ったわ」
「病気で倒れた……」
自分が思っていた以上に大きな出来事だった。
あの、飲んだくれの嫌味な男にそんな過去があったとは。
「それで、治療して、復帰する為のリハビリとかなんとかで、一年も会社を休む事になってね。それまではお正月でも仕事をしてたような人が一年も休んだからね」
一年もリハビリ……この前の公園での機敏な動きからは想像もできない。
それから一年で復帰したと言う事は、相当な鍛錬を積んだとしか思えない。
「でもね。一年前に仕事には戻れたんだけどね。元いた部署には居られなくなって、今の部署に異動させられてね」
桜木美咲は意味深なほど深いため息をついた。
「せっかく仕事に復帰したのに今度は実質の左遷。もう、あの人がダメになったと思ったわ。やりたかった仕事、全部、他の人に取られて、新しい部署では浮いた存在になってそれから半年くらいは辛かったわよ。
ずっと仕事しかして来なかった人が、急にエリートコースを外されて、死んだ目をして会社に出かけて行くのを見てるのは。
家にいても元気なくテレビを見てるだけだし、お酒を飲む友達もあまりいないし」
そう言えば、逢坂の名刺は営業四課になっていた。
確か瑛王商事は国際事業に関わる営業一課がエリートコースだと、昔、聞いた事がある。
やっと仕事に復帰できると思ったら、仕事はすでに無くなっていた。何の為に必死でリハビリしたんだ? ってそれはショックも一入だったろう。仕事一筋で生きていたなら尚更だ。
「それで、どうしたんですか?」
気付いたら、私は逢坂なんかの過去を夢中で聞き入っていた。
「それで、私ね、主人に言ったの。『そんなに辛いなら辞めても良いわよ』って」
「それでも、辞めなかったんですか?」
「ただ、泣いてたわね。私にそんな事を言わせた事を」
「どう言う意味ですか?」
桜木美咲は私の方を見て、ニコッと笑って言った。
「だって、あの人。私の事を愛してるから。世界中で一番」
「え?」
その時、彼女の微笑んだ表情は、さっきまでの私への愛想を振りまく為の笑みではなかった。何か、心の底から込み上げてくる感情に全身の細胞が動いたような、そんな幸せそうな笑顔。
愛してる。
世界で一番。
彼女の表情を見れば、すぐに分かった。
この二人が離婚をする気なんて、無い事は。
「じゃあ……」
『なんで、離婚を?』と聞こうとしたが、声が止まってしまった。
「じゃあ……それからどうしたんですか?」
出前味噌な質問で私は誤魔化した。
ただ、あの離婚届がずっと私の心臓の鼓動になっていた。
「半年くらい前かな。ある日ね、あの人が朝起きて来て。急に病気になる前みたいなイキイキした顔に戻っててね。子供みたいに飛び跳ねて、こう言ったのよ。『やりたい事がやっと見つかった』って」
「やりたい事?」
もしかして、それが、うちの会社に持って来たって言う、謎の仕事の事なのか?
「あの。その、逢坂さんがやりたい仕事って、具体的に桜木さんは伺ってますか?」
「仕事の事は、私には分からないけど。でも、それから急にジムに行き出したり、こっちのマンションに引っ越したり……なんだろう? 昔の主人とは違う感じにイキイキして来たなぁって」
「昔と違うって言うのは……」
「なんて言うかな。昔は仕事をとりあえず結果を出す事に全力を尽くしてたけど。今は子供っぽくなったって言うのか、自分のやりたい事を本気で見つけたんだなぁって。その日以来、あの人、なんか毎日楽しそうよ」
楽しそう……そんな仕事を私は小さい昔の因縁で壊してしまったのか?
私は今、初めて逢坂に罪悪感を感じた。
「あの、失礼を承知でお尋ねしたいんですけど。桜木さん、逢坂さんと離婚されるんですか?」
「え?」
微笑んでいた桜木美咲の表情が一瞬で曇った。
「実は、その住所を調べようとしたら、さっき……逢坂さんの鞄の中を見てしまって、そこに……アレが入ってて」
桜木美咲は「そう」と呟いた。
「あの離婚届はね。その『やりたい事が見つかった』って言ってた日の夜に書いたの」
「え? どうして?」
桜木さんは、フッと笑った。
「わかんない。仕事から帰って来たら、いきなり主人がテーブルの上にあの紙を出してね。『これを書いて欲しい』って。
私、もうビックリして、頭がグラングランして倒れそうになったのよ。今までずっと妻として、あの人を支えて来たつもりだったのに」
桜木美咲の目からうっすらと涙が滲んでいた。
私からしたら、意味が全くわからなかった。どうして人生が好転した日に、彼女と離婚するんだ?
「でもね。あの人、私が泣き出したら、こう言ったのよ。『これからの仕事にどうしても必要なものなんだ』って」
「離婚届がですか?」
「意味分からないでしょ? 昔から、確かにちょっと変な人だったけど。なんで書かなきゃいけないの?って理由を聞いたらこう言ったのよ。『君を世界で一番愛しているからだ』って」
「それで、書いたんですか?」
「そう言われたら、書かざるえないでしょ?」
離婚届が必要な仕事?
文房具?
逢坂のやりたい事って一体、何なんだ?
あと、お前は世界で二番目だ。
「本当、何をやるのか、私にも全くわかんないけど。小林君がいるなら大丈夫よね?」
「え?」
しまった。
逢坂の過去に聞き入っていて、油断していた。
「じゃあ、小林君。これから公私ともども、主人の事をよろしくお願いします」
桜木美咲はそう言って、私に頭を下げて来た。
もう、ここから「やらないです」って言い返す、技量も勇気も私には存在せず。誤解を解く事はなく「こちらこそ」と情けなく頭を下げて、その日、私は逢坂家を後にした。
逢坂家から帰宅し、背広を自宅のハンガーにかけようとした瞬間、胸ポケットの違和感に気付いた。
「ない!」
背広の胸ポケット、そこにいつもしまっている、私の命より大切なあのオヤジギャグが書かれたメモ帳が消えていたのだ。
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