第15話 小林、魂を奪われる
「落としたか?」
無くしたダジャレ手帳はどこへ行った?
あんなゴミが世の中に公表されてしまったら……
妻の「ご飯よ!」の声を無視して私は家を飛び出し、背広を脱いだシャツのまま、駅から家までの道を探し回った。夜がちょっと寒くて、風邪をひきそうな気がするけど、そんな事はどうでもいい。
私の魂を失ったら、それは死を意味するのだから。社会的に。
しかし、帰り道を二往復くらいしたけど、手帳はどこにも見当たらなかった。もしかしたら交番に届いているかも? と交番のお巡りさんに聞いてみたが「手帳の落し物なんてない」と言っていた。
何処に行ってしまったんだ?
「まさか……マンションに忘れて来たか?」
リビングの椅子に座る前、桜木さんの完璧な指示に従ってソファの背もたれに背広をかけた。
その時、逢坂が寝ているソファに手帳が落下した。
帰る時はずっと気持ちがフワフワしていたので気付かなかった。くそ。不肖、小林光太郎、何たる失態!
初恋の子と三十年の時を超えて、初めておしゃべりした喜びで胸ポケットの手帳が無いことに気付かないなんて。
武士が脇差が無いのに気付かずに家へ帰ってしまったようなものだ。
翌日。
あの手帳が何処にあるのか? それが気になって、全く寝れなかった。もし、誰かに中を見られていたら……私はもう生きていけない。この街を出て行って、遠く誰も私を知らない場所に引っ越さないといけない。
しかし、妻に理由を聞かれたら、どうする?
「実は、ダジャレを書いてた手帳が他人に見られて、この街で生きていけなくなったんだ」と言って、「じゃあ仕方ないわね」ってマイホームを売り払って、引っ越してくれるだろうか?
駅前のいつもの顔ぶれが、全員、私を見て笑っているような気がする。この中の誰かが手帳を拾っていたら……ああああああああああ!
「おはようございます、小林さん」
「ブヒーっ!」
駅のホームのいつもの場所で電車を待ちながら、心の中で雄叫びをあげていたら、聞き覚えのある声が突然、耳元から聞こえた。
振り返ると、そこに立っていたのは逢坂だった。
「お、逢坂……何で、ここに?」
「いえ。今日は直接、おたくの会社に伺う予定なので、折角ですから一緒に行こうかと思いまして」
と、昨日の飲んだくれとは打って変わって、なんか嬉しそうなスマイルを浮かべている。
あれ? なんで、うちの会社に来るんだ? 人生を賭けた企画が頓挫したのはどうなったんだ?
ヤケを起こしてウチで暴れ回る気か?
いつもの通勤電車のいつもの場所、しかし、隣には逢坂がいる。
あの手帳がない以上、今日もオヤジギャグを考える事はできないからいいが……コイツの存在、凄い違和感だわ。
いつもの朝の風景に入ってくるなよ、エリート野郎。なんでいるんだよ。
逢坂は通勤の間、ずっと無言で私の隣に立っているだけであった。それが物凄い不気味で、私は素知らぬ顔をしていたが、ずっと警戒をしていた。
なんか、凄い怖い。
「あの?」
「はい」
私は緊張感に耐え切れず、ついに逢坂に話しかけてしまった。
「今日、ウチの会社に何をしにくるんですか?」
私が尋ねると逢坂は、釣り針に獲物が引っ掛かった様な不敵な笑みを浮かべた。なんだ、今の笑みは?
「ご存じありませんか? 今日は午前中から御社で打ち合わせの予定なんですが?」
「打ち合わせ?」
「先週、顔合わせをした時から尾形さんという方が凄い乗り気でして、大まかな企画説明を終えてから、毎日のようにアイデアを送って来て戴いでまして。今日はそれを打ち合わせする為に」
え? 尾形が?
あれ? 企画は中止になったんじゃないのか?
「あの、企画は中止になったんじゃないんですか?」
私がそう言うと、逢坂は再びあの腹が立つ笑みを浮かべた。ムカつく顔だ。
「小林さん。そんな事、誰から聞いたんですか?」
「昨日、居酒屋の店主が言ってましたが」
そう言うと逢坂はフッと完全にバカにした表情で……笑いやがった。
「小林さん。大事な仕事ですよ。居酒屋の店主さんなんかの情報を鵜呑みにするなんて、どうかと思いますよ」
は? どう言うこと?
「どう言うことですか?」
と、私が尋ねたところで、電車は会社の最寄駅に到着した。
「じゃあ、会社に行く前に少し二人でお話ししますか?」
逢坂は私を招待する様に、先に電車を降りた。
私の駅だぞ。なんで、お前がエスコートしてるんだ。
「私はもう企画からは離れた人間です。話があるなら尾形と朝宮にでもして下さい」
私は精一杯の意地を張って、逢坂に強がった。本当は、メチャクチャ仕事がどうなっているのかを聞きたかった。
しかし、私は『着いて行ったら負け』と自分に言い聞かし、「では」と逢坂の横を通り過ぎようとした。
今の私は鋼鉄の心。たとえ「お菓子を買ってあげる」と言われても、気持ちは揺るがない!
「もっと欄干的に行きましょうよ、小林さん」
逢坂が言ったオヤジギャグに、私の足は鋼鉄の石のように固まってしまった。
そのダジャレは、そのダジャレは……それにしても客観的に聞くと今のダジャレ、マジでつまらないな。しかし良いダジャレだ。
何故なら作者が天才だからな!
「はぁ!!!!」
逢坂の方を振り返りながら、思わず大声が出た。私達の横を通り過ぎて行くサラリーマンさん達がビクッと一斉に私の方を見た。
「なんで、お前がその作品を知っているんだぁ!」
逢坂の右手には見覚えのある手帳が握られていた。
「昨日、家に忘れて行きましたよ。これ」
「読んでんじゃねぇよ!」
通勤中の他のサラリーマンが我々をチラチラ見ている中、逢坂が手帳を見てクスクスと笑っている。
ヤバい、こんな所で、あの手帳のおもちゃ箱をぶち撒けられてみろ。
四十半ばで転職だぁぁぁ!
「あなた、凄いですね。こんなたくさんのダジャレばかりを手帳に書いてるなんて。しかも全部、つまらない。昨日、妻と見て笑いましたよ」
桜木さんとだとぉぉぉぉ!
「桜木さんとだとぉぉぉぉ!」
心と声で大声がハモった。地下鉄で声が響く響く。
「人のものを勝手に見るなんて、失礼じゃありませんか!」
「アナタだって、私の鞄を開けて見たじゃないですか。離婚届」
コイツ、ベロンベロンだったクセに何で知ってる?
「安心してください。妻には見せていませんから。なんか、アナタと妻の会話……初恋の人と話しているようで初々しかったですね」
「アナタ、イビキかいて寝てただろ!」
私はハッとした。
コイツ、酔っ払ったふりして、実は全部見てやがったのか?
「私も営業マンですよ。どれくらいお酒を飲めば、どれくらい酔うとかはしっかり把握してますよ」
「あんた、お酒飲めないんじゃ? 豪快に吐いてたじゃないですか!」
「トイレに行って飲んだ分を吐く技術は接待には大事なテクニックですよ」
逢坂は自分の指を喉の奥に入れるフリをした。
「て言うか、小林さん。私の妻の事、好きだったんですか? 物凄い緊張していらしたみたいですけど」
「お、お前……まさか、昨日は……」
全部、芝居だったのか……。
「では、少しお話ししましょうか、小林さん?」
逢坂は私の肩を叩いて、先に進み出した。
やられた。
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