第20話 小林、母性本能の化け物
家に帰ると、妻がまたしても玄関で私のことを出迎えてくれた。しかも、頭まで下げている。
「お帰りなさいませ」
そう言って、妻は私の履くためのスリッパを床に用意してくれた。秀吉か。
妻よ、わかっているぞ。
これは無言の怒りだ。
「お前、まさか逃げる気ではなかろうな?」という脅しなのだ。
「タクヤは?」
私の一言に妻は二階に目をやった。速い。
言わなければ、私は殺られていたかもしれない。
「先ほど帰宅しました。しかし、練習着の方は汚れておりませんでした。さらに『明日は練習が休みになった』と嘘も申され……手に負えぬ状態です」
学生時代から、この女はこう言うところが抜け目ない。
開口一番に下手に出る事によって、私の方が親分の立場みたいになる。で、脅迫して、面倒な事を私に押し付けるのだ。
要するに、これから私に全部やれって事だ。
まぁ、その心算だったから問題はないが、少しは協力してくれる姿勢くらいは見せてもらいたかった。
「わかった。私がタクヤと話してくるよ」
「あら、そう? じゃあ、お願いできるかしら?」
はや。まさかのシンキングタイム0秒だと。
玄関で出迎えられた瞬間に勝負は決まっていた。
嫌なことがある時だけ発揮される、この公事慣れが怖い。
2階に上がり、ついに本丸、タクヤの部屋の前に立つ。
流石にドアの前くらいまでは着いて来てくれると思っていたが、妻はあっさりと階段すら登らず、一階のリビングに消えて行った。
「アイツ、政治家になればいいのに」と思いながら、私は部屋をノックした。
「タクヤ、少し話があるんだ」
中からの返事はないが、ドアの鍵は掛けていないようだ。
昨日、学校を勝手に早退し、今日は部活に行ったと嘘を吐き出かける。そろそろ家族を誤魔化すのも限界だし、さてどうする……と、言った精神状態だろうか。
まぁ、こう言う時に男がとる行動は一つしかない。不貞寝だ。
「入るぞ」
ドアノブを回し、「何を話せばいいんだ?」と考えが纏まらないまま、息子の部屋には突入して行った。
夕方なのに電気が点いておらず、部屋は薄暗かった。案の定、ベッドの黒い影が膨らんでいる。
ドアの横のスイッチで灯りをつけると、それに反応するように、ベッドの上の大きな影がモゾモゾと動き出した。
「なに?」
布団から起き上がったタクヤがこっちを見て言った。
「少し、父さんと、話そうか」
緊張で言葉が途切れ途切れになってしまった。タクヤとこう言う話し合いをするのは初めてなのだ。
タクヤはゆっくりと体を起き上がらせて、ベッドに腰掛けた。
対する私の方もベッドの向かいのタクヤの勉強机の椅子に座る事で応戦した。どうする? 少しサッカーの話でもするか? それとも、すぐに本題に突入するか? それとも、このまま無言を貫くか?
なんで私が部屋に来たのかは、もう分かっているだろう。だったら、早く本題に突入してしまおう。
「昨日、学校を無断で早退したそうだな」
タクヤは無言だった。
「学校で、何かあったのか?」
「……べつに。何もないって」
タクヤはそれだけ話して、無言になった。
「実は、さっきまでハヤトに会っていた」
「え?」
タクヤが驚いて顔を上げた。よく見ると顔が少し痩せているし、クマもある。
「そうしたら、お前がサッカー部で孤立してるみたいだって心配してたぞ」
そう言うと息子はまた俯いてしまった。
「母さんも「最近、タクヤは部活に顔を出してないんじゃないか?」って心配しているんだ。お前の練習着があまり汚れてないって。あと、父さんも……父さんも……」
考えたけど、私だけ息子の異変に気付けていなかったのだから、あるはずが無い。勢いに乗って自分の株を上げようと「父さんも」なんて言ってしまったけど、どうしようか?
「こ、この前……この部屋が荒らされた時に、お前がなんかホッとした顔をしてたのがずっと不思議だったんだ」
ギリギリのところで何とか父親の面目が保てる意見が出た。偉いぞ、私の脳みそ。
「何かあったんじゃ無いのか?」
息子は返事もせずに黙り込んでしまった。
こっちは何かがある事は大体把握しているが、タクヤの口から言ってくれなくては話が始まらない。
しかし、タクヤはずっと俯いたままで、何も話そうとしなかった。
あんなに大きく見えていた息子の体が、今はとても小さく見えた。
「……雑巾を」
タクヤが小さい声で口を開けた。
「雑巾?」
「机の中に雑巾が入れられて……それで頭に来て、学校を抜け出した」
「お前の机にか?」
タクヤは無言で頷いた。
「それは、昨日が初めてなのか?」
「三週間くらい、毎日」
「どうして黙ってたんだ? 先生なり、父さんか母さんに言えばいいだろ?」
そう言うとタクヤはまた黙り込んでしまった。
「サッカー部の誰かか?」
「それは、分からない」
「けど、サッカー部でも何かあったんだろ? 部活に出ないのは、おかしいじゃないか」
私が一つ聞くと、また黙る。外見は大人のようだったが、やはり中身はまだ子供だった。
「サッカー部の誰かが犯人なのか?」
タクヤは、しばらく無言だった。
「黙っていたら、分からないだろ。そんな事されて、何も言わないで俯いててどうするんだ!」
痺れを切らし、私の方が大きな声をあげてしまった。
するとタクヤは徐ろに立ち上がり、学校のカバンを持って来た。そして、中からビニール袋に入った何かを私に見せて来た。
「これが、その雑巾なんだけど」
ビニール袋に入っていたのは、昨日机の中に入れられていたと言う例の雑巾だった。いや、持ってんのかい。
「父さん。ちょっと、嗅いでくれない?」
そう言って、タクヤは私に雑巾の入ったビニール袋を渡した。
嗅がなくても分かる。臭いに決まっている。
こんな黒く汚れた布からフローラルな香りが漂ってきたら、芳香剤なんか必要ないのだ。
しかし、「是非嗅いでほしい」と悩みを抱える息子に言われてしまった手前、父である以上、嗅がざるを得ない。
私は大きく深呼吸をして、袋を開けて中を嗅いだ。
「くさっ!」
鼻を袋に入れるか入れないかのタイミングで、生暖かい強烈な悪臭が漂ってきて、私は顔を離した。
なんだ、これ。トンデモない臭さだぞ。
あまりの威力で私は気持ち悪くなり、吐きそうでえずいてしまった。
「お前、こんな物を机に入れられたのか?」
そう思ったら腹が立って来た。
「なんで、今まで黙っていたんだ! こんな事されて!」
「雑巾はもういいから、今度はこっちを嗅いで欲しいんだ」
「ん?」
私の怒りとは裏腹に、息子は怒る素振りもなく、至って冷静に言った。
そしてタクヤは、あんなにも着るのを拒んでいたはずのブレザーの制服に袖を通し始めた。
その瞬間だった。
突然、部屋中にさっきの雑巾と同じ、いやそれよりも強烈に臭い悪臭が充満し始めたのだ。ビニール袋は完全に閉めているにも関わらず、臭さが止まらない。
何だ、何処から出ているんだ?
あまりの臭さに吐き気を通り越し、頭がクラクラし始め、部屋のドアを開け、廊下に逃げ出した。だが、その強烈ななんとも形容し難い異臭は収まらない。
「なんだ、この臭さは?」
「分からない」
タクヤは制服を脱ぎ出した。
その途端、驚くほどアッサリと今まで部屋に充満していた、あの強烈な悪臭が消えてしまった。
「どうなってるんだ、これ?」
あの匂いは一瞬で何処へ消えてしまったんだ?
「なんでか分からないけど。俺が制服を着ると今の臭い匂いが突然発生するんだ」
「はぁ!」
「毎朝、体洗ったり、制服に別の匂いを振り掛けたりしてるのに、全然匂いが消えなくて、もうどうしていいのか分からないんだよ」
息子はそう言った途端、まるで決壊したように泣き始めた。
なんてこったぁ……体は私より大きいクセに、タクヤの泣いている姿は子供そのものじゃないか。
「タクヤ」
「雑巾入れられるのは腹立つけど、原因は俺の方だし、悔しいけど、何にもできないんだよ。父さん」
息子が私に助けを求めるように、抱きついて来た。
なんだ、コイツ……デカい図体してるクセに……めちゃくちゃ可愛いじゃねぇか。
私は泣きじゃくる息子を強く抱きしめた。
これが……これが息子というものなのか!
その瞬間、私の体の中に眠っていた母性本能が長きの眠りから覚め、覚醒した。
息子とは、こんなにも可愛くて、守ってあげたいと思うものだったのか! イカの塩辛の旨さに感激した、あの時みたいなカルチャーショックだ!
何処の誰だ!
『自分の息子が苦手な父親がいてもいいじゃないか』とか腑抜け極まりないセリフを吐いていたバカは! あの時の私の顔面を私はぶん殴ってやりたい気持ちだ。
息子を抱きしめた私の頭の中に忘れていた温もりが戻って来た。あの、初めて息子を抱きしめた、あの時の喜びを、思い出した。
多分、桜木美咲の両親が、生まれたばかりの桜木美咲を抱きしめた時と同じ感激だと思う。
この世界には自分よりも大事なものがあるのだと気付かされた瞬間であった。息子よ、あの時の喜びを忘れて『自分の息子が苦手な父親がいてもいいじゃないか』とか言っていた男を、もう一度父さんと呼んでくれるか?
「大丈夫だ、タクヤ。父さんがなんとかしてやる。一緒に解決しよう!」
私は泣いている息子に言った。その瞬間、タクヤの後ろに後光が刺して、極楽への道が見えたような気がした。
神様、ご安心ください。私めの死んだと思っていた母性本能は、ちゃんと生きておりました!
私は今日という日ほど、自分の胸から母乳が出ないことを悔しく思った事はない。
ママ、ありがとう。だけど、ママが憎い。
とにかく、息子をこんな目に合わせて奴を私は絶対に許さない。必ず、犯人を見つけ出し、息子の墓の前で、おでこを地面につけさせてやる!
息子よ。
父さんは、母乳が出なくても頑張るぞ。
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