第5話 小林、仮出世する
あれはまだ私が二十代だった頃で、営業部に所属していた時の話だ。
「近所のイベント会場で瑛王商事が新人研修をおこなっている」と言う情報が入ってきた。
当時の私は「大会社は、あんな大きな会場で研修をするのか」と鼻をほじりながら、他人事で聞いていたのを覚えている。
そんな時、突然、当時の課長から呼び出された。
「近所で瑛王商事さんが新人研修をやっているそうで、早急に鉛筆を届けて欲しいそうなんだ」
まだパソコンもそんなに普及していなかった時代。どうも、瑛王商事にも、うちの尾形みたいなバカな社員がいるらしく、研修で使う鉛筆を発注し忘れたらしい。
で、たまたま近くにあった文房具会社のウチにまとまった鉛筆の発注が来たという流れらしい。
「そんなミスある?」と内心と笑っていたが、「こういう恩は売っとくもんだ」と言う課長と二人で急遽、大量の鉛筆が入った段ボールを営業車に積みこんで、私一人で会場まで向かう事になった。
一緒に着いてくるもんだと思っていた課長は、呑気に手を振って私を見送っている姿が車のバックミラーに映っていた。
今でも思う「なんでお前も着いてこないんだよ」と。「チャンス!」って浮かれてた奴が見送りに回ってどうする。
こう言うハングリー精神の無いところが、うちの会社のいい所でもある。
エアコンで車内が冷える間も無く会場に着いた私は、倉庫の作業から休憩なしの作業であった為、汗だくになっていた。
しかも車から外に出す時は課長もいないので、私一人で全てのタンボールを出さないといけない。
今でも思う「なんでマジで着いて来なかったの?」と。
背広を脱いで、シャツを捲り、後ろの段ボールを持って車を降りた。その日は四月なのに初夏の日差しで、私の額の汗がポタポタと鉛筆の段ボールの上に落ちてしまっていた。
とりあえず、鉛筆の入った箱を車の外に出し、瑛王商事の担当スタッフを待っていると、
「おせぇよ!」
後ろから駐車場に響き渡る大声がして、私は頭が少しクラっとなった。
振り返ると、瑛王商事の研修スタッフらしい……私と同い年くらいなのに、高そうなスーツを着た目つきの悪い男がこっちに歩いて来た。
「あ、初めまして藤原文具の……」
「いいから、鉛筆、早く持って来い!」
腰を低く名刺を取り出した私の自己紹介など聞きもしないどころか、ダンボールを運ぶのを手伝う事すらせず、私は小走りで結構重い鉛筆の入った段ボールを運ぶ事になった。
運び終わった頃には私の額から汗が玉のように噴き出し、公的な場所という事を忘れ、床に倒れ込んでしまった。
「おい、寝てないで要が済んだら帰れよ!」
私はコイツの奴隷か何かか?
ここまで突き抜けて横柄なやつには、不思議とイラっとすらしない。
最後に挨拶だけはして帰ろうと、さっきの横柄なヤツに渡しそびれた名刺を差し出そうと挨拶をした。
「私、藤原商事の営業の……」
すると、私の額の汗が頭を下げた瞬間に落下し、下の名刺にドッと落ちてしまったのだ。
「汚ねぇな」
今でも思う。
この一点だけは明らかな私のミスだ。ここはすいません。
私はスグに別の名刺と取り替えようとしたが、
「いいよ。どうせ、連絡なんかしないからよ」
と、その男は「ほらよ」と自分の名刺を投げ捨てるように私に向けて差し出した。と、言うよりも、その男が投げた名刺を私が空中でキャッチした形だ。フリスビーを投げられた犬のように条件反射で受け取った自分が今でも恥ずかしい。
そして、その男は部下に鉛筆を運ばせ、自分は手ぶらで中に消えて行った。
一人、ポツンと残された私は、自分のような平凡な人間と選ばれた高学歴エリートの住む世界の違いを見せつけられた……と言うワケではなく「運んでやったのに、なんでアイツはあんなにも失礼なんだ!」と言う怒りが込み上げ、名刺をくしゃくしゃにして駐車場の床に投げ捨てた。
で、帰ろうと思ったが、やっぱり名刺だけは記念に貰っておこうと、地面から拾い、シワを手のひらで伸ばしてポケットにしまって会社に戻った。
どこまでも惨めな凡人であった。
しかし、あの男の事は今でも思い出しても腹が立つ。敵陣に乗り込んだマフィアのボスですら、もう少し礼儀正しくするもんだろ。
自分達のミス……しかも我々ですらやらないような馬鹿なミスをした癖に、さらにそのミスをこっちが尻拭いしてやったと言うのに、終始あの偉そうな態度である。
「急にこんな無理難題をお願いして申し訳ありません」と労いの言葉もないどころか「おせぇよ!」と言う怒鳴り声。
遅いかどうかの文句は法定速度という法律を道路に設けた、日本の道路交通法に言えって話だ! それか、助手席に乗らずにバックミラーの中で手を振っていた馬鹿課長に言え!
「コイツの名前は絶対に覚えておかねばならない。いつか、いつか絶対に復讐してやる」
と言う戦に負けた戦国武将が持つ邪念のようなドス黒い気持ちを私は今日の今日まで、ソイツから貰ったクシャクシャの名刺と共に会社のデスクの中にしまっていたのだ。
その茶色く変色している名刺の名前は『瑛王商事 総務課 逢坂明』
その後、『デスノート』と言う漫画が大ブームになった時は「いつか私も逢坂明の名前をこのノートに書いて、めちゃくちゃ苦しませて殺してやる」と思いながらニヤニヤと読んだ記憶がある。
そして、時は流れ、その逢坂明が直々に、何故かは知らないが「私と仕事がしたい」とカモがネギを背負ってやって来たと言うではないか。
今までお前のせいで犠牲になった藁人形に詫びる時が来たようだな逢坂。飛んで火に入る夏の虫めが。
「小林くん、小林くん! きいとるのか!」
「へっ?」
専務の声がして、私は夢から覚めたようにハッとした。濃度の濃い妄想に夢中になりすぎて、つい我を忘れてしまっていた。
「ここはどこだ?」とあたりをキョロキョロしたら、まだ専務の部屋にいた。
「なぜ、名刺を見て涎を垂らしとるんだ、君は?」
気付いたら私は口からドーベルマンのような涎を垂らして、獲物の逢坂の名刺を目を血走らせて、見下ろしていた。
逢坂明の名刺を聞いた途端、私は一気に妄想の世界に入り込んでしまい、専務の話を右から左にしてしまっていた。
「それで、この仕事、やってくれるのかい?」
「ええ、ああ、いやぁ……そのぉ……」
どうする?
あの逢坂に復讐をする絶好のチャンス! ではあるが、復讐に走るあまり、この逢坂が持ち込んで来たらしい企画を潰したら、逆に私が大目玉を喰らう事になるぞ。
私の目的は逢坂一人を苦しめる事であり、逢坂と刺し違える覚悟はない。
「果たして復讐と企画の成功は共存できるのか?」
そもそも、そんな器用なスペック、私は持ち合わしているのか?
逢坂と再び出会った瞬間にまた「おせぇよ!」と言われたら、私は奴の首を絞める恐れすらあるぞ。
「君、逢坂さんとは知り合いなのか?」
「いえ、面識もございません」
そういうと専務は腕を抱えて、苦い顔をした。
「不思議だなぁ。逢坂さんは、どこで君の噂を耳にしたんだ?」
「私にも分かりかねます」
そもそも、外の世界どころか、この会社の中でさえ噂が流れるほどの成果など私は出した事はないぞ。
しかしこのように「是が非!」と向こうが言って来ているという事は、やはり、逢坂はあの時の私の何かを見て「コイツできる」と思ったのか?
確かに、あのヒラヒラと木の葉の様に落ちる名刺を瞬時に空中でキャッチするのは並大抵の事ではない。
だが、その能力と仕事は、確実に別問題だ。あそこしか接点は無いけど、絶対に違うと思う。
それとも、逢坂に死期が近付いており、今まで迷惑をかけた人々にお礼参りをしている最中、ふと『私への懺悔』が含まれていたのだろうか?
分からん。
私には何一つ心当たりがない。
ん? 待てよ?
その時、私の脳裏に一筋の光明が見えた。それは、逢坂の接点や仕事の事とは全く関係がない。ただの個人的な都合のものであった。
この企画の責任者になると言うことは……
「専務!」
私はハッとし、身を乗り出して専務に尋ねた。
「ど、どうした! 急に大声を出して!」
「あの、新しい課の責任者に私がなると言う事は、私は課長に出世すると言う事ですか!」
そう、大事なことに気付いた。
課の責任者と言う事は課長……それだけじゃなくても、会社を挙げてのプロジェクトの責任者を任されるわけだ。
当然、これは課長に出世するべきフラグが立っているという事だ。いや、むしろ課長を超えるスーパー課長、ゼネラル課長の座も見えている。
しかも、ウチの会社は残業代は課長までは出るパターンだ。
昔、何かの本で『出世は課長までにしておけ』みたいな教えを見たことがある。そっから先は管理職になって残業代が貰えなかったり、責任が多すぎて地獄だから、課長まで出世するのが人生で一番の出世なのだ、という向上心の無い本だ。
逢坂は腹立たしいが、その課長になれるなら、我慢してやってやるか。
「専務! 私は課長になるんですか!」
「いや、小林君。そこはちょっと待ってくれ、一緒に様子を見よう」
「むむっ!」
しかし、私の期待とは裏腹に専務からは、聞き慣れない返事が返ってきた。
『一緒に様子を見よう』
どういう事だ?
聞いた事のないフレーズだ。
虫の観察でもするんですか、専務は?
『一緒に』はともかく『様子を見る』の意味が分からない。健康診断で結果が悪かった時にたまに聞く言葉だが、出世問題で聞いたのは初めてだ。
誰が誰の様子を一緒に見るんだよ。一緒にってなんだよ。友達かよ。
不思議な日本語だ。
これから天下の瑛王商事とがっぷりタッグを組んで、会社をあげて行う極秘プロジェクト、そのプロジェクトの責任者に抜擢された小林光太郎。
これから瑛王商事からやってくる、バリバリのエリートとバチバチにやりあう為に大抜擢された藤原文具のリーサルウエポン小林光太郎。
その為に発足された新しい課の長を任される事にもなった小林光太郎。
これだけのカードが並べば、課長になるのは水が下に向かって流れるのと同じくらいに当然の摂理のはずだ。
しかも、出世したら降りかかって来るであろう煩わしい責任とか、面倒臭い会議とか、そういう物も一切大目に見てやって、こっちから出世してやると言っているんだぞ?
なのに専務から帰って来た返事は……一緒に様子を見よう?
面白い日本語を使うなぁ、専務は。
専務は、アラフィフの年頃の男の子に恥をかかせる気かしら?
「私に恥をかかせる気ですか、専務!」
思わず声に出して言ってしまった。流石に怒りが少し込み上げた。
「とにかく、いずれ社長の方から連絡が来るだろうから、一旦はちょっと保留だ。まぁ、あれだ! 今の所は「仮出世」という事で納得してくれ。なっ、おめでとう小林君!」
そう言って、専務はニコニコと立ち上がり、拍手をして早々とこの話を終わらせてしまい、『出口はあちらです』と、すがる私に「出ていけ」と促した。
なんだ、仮出世って?
仮出所みたいなの。私は服役でもしてたのか?
何だか煮え切らないまま、私は首を傾げながら専務の部屋を後にした。
とにかく、急遽だが仮出世という事で、私は異動する羽目になった。
いつもの仕事場に戻り、突然、移動の準備を始めた私の背中を見て、左遷されたと勘違いした周りの人らが私に労いの言葉をかけてきた。
「違うよ! 仮出世だよ!」と言いたくても、「絶対に君の異動の理由は、まだ他の社員には言っちゃダメだぞ」と専務に釘を刺されていたので、私は不覚ながらも『コイツ、左遷されます』の風に乗って、昨日までの職場を後にし、指定された三階の部屋へ、段ボールに詰め込んだ荷物と向かった。
ていうか、指定された部屋は確か、昨日まで「倉庫」と呼ばれていたはずの部屋だ。
「もしかして、これは巧妙に仕組まれた、本当に左遷なのではないか?」
私は階段を登りながら「嵌められたのか?」と心臓がドキドキし、脳裏にドナドナのイントロが流れ始めた。
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