第4話 小林、呼び出される
それから、一週間が経った。
あの日の朝以降はおかしな出来事も特にない。タワマンが鬱陶しい以外はいつもの平和な朝が我が家にも戻っていた。
結局、あの日、タクヤの部屋が荒らされていた理由は分からずじまい。一時は警察を呼ぶかと言う話もあったが、我が家の酋長である妻が「もう一回起きたら呼びましょう」と、一般市民特有の必殺技『あれは夢だったのかもしれない症候群』を発動した為、呼ぶことはなかった。
タクヤも「取られたものは何もなかった」と言っていた。
「じゃあ、尚更、何であんな事になっていたんだ?」と言う新たな疑問が浮かび上がるが、妻が「揉み消す」と決めた以上、もうあの朝の出来事はゴミ箱にドラッグだ。
平凡な日常とは、何も起きないのではない、身の回りに起きている事件を見なかった事にする努力によって成り立つのだ。
ただ、厄介なのは先週から聞こえるようになった地下鉄での幻聴だ。
──ダジャレを言うのは、誰じゃ?──
初めて聞こえたあの日から、ほぼ毎日、同じ地下鉄の車内から聞こえてくるのだ。
しかも、やはり私以外の乗客には聴こえていないらしいく、『地下に生き埋めになったダジャレ大好きおじさんの怨霊か?』などと考え、日に日に気味が悪くなって来た。
いつも乗り込む車両を替えてみたが、やはり聞こえる。どうも、この悪霊は私をピンポイントで狙い撃ちしているご様子である。
幻聴が聞こえている可能性が高いと、病院に行こうかとも思ったが、仮に病院に行ってしまうと
「実は、私は趣味でつまらないオヤジギャグを考えるのが好きなんです」
と言う部分を説明することは避けられないだろう。
仮に幻聴は気のせいだったとしても、こっちの方面で入院を勧められる恐れがある為に病院へ行くことは憚られる。
さらに誰かに相談したくても、
「実は、私は趣味でつまらないオヤジギャグを考えるのが好きなんです」
なんて打ち明けた日には、妻は離婚、友人は絶交、上司は解雇、そして『クソつまらない駄洒落が書いたノートを五十冊も見せられ、精神的苦痛を味わった』と裁判、『つまらないオヤジギャグなんかを考えて仕事と家庭を蔑ろにした』などと弁護士に罵倒される。
さまざまな社会的な制裁が待ち受けているかもしれない。だから相談するわけにもいかない。
隠れキリシタンとは、日々、世間の目との戦いなのだ。密教に手を染めた者の悲しき末路よ。
匿名でAMラジオの相談コーナーにメールでも送ってみようかと思ったが、
『実は、私は趣味でつまらないオヤジギャグを考えるのが好きなんです』
なんてメールの冒頭に書いた時点で、『あ、コイツ、笑いを取りに来たな』と勘違いされ、作家笑いの標的にされ、まともに取り合ってもらえないかもしれない。
さらに運悪くパーソナリティがラジオネームを見落とし、『小林光太郎』と本名で読まれてしまった場合、クソ恥ずかしい私の趣味が日本中に電波で届けられ、生き恥をかいた私は死期を悟った象のように誰にも見られない場所で、寂しく人生の最後を迎えなければならないだろう。
そんなこんなの一週間であった。
謎の幻聴が怖くて、私の電車の中で考えるオヤジギャグの量は日に日に減っていた。
今日に限っては、駅から会社まで一つもいい駄洒落が浮かばないと言う、不甲斐ない姿を神様に見せてしまった。
『謎のダジャレの幽霊に取り憑かれてしまった』と言うのは確かに恐ろしいことではある。しかし、その程度で心を乱していたら、ダジャレの神様に会わせる顔がない。
『自分はまだまだだ』と己を戒めた。
果たして、定年までに私は名人と呼ばれる領域、無我の境地に辿り着く事ができるのだろうか?
なぜ心を乱す、小林光太郎?
会社の自分のデスクに座っても、動揺が隠しきれない。自分という人間がこれほどまでに脆い人間だったとは思わなかった。
親が死んでも、明日世界が滅んだとしても、私はつまらないオヤジギャグを作り続ける芸術家だろうと自分を驕っていたのだ。
いざ、たかだか幽霊の声が聞こえるだけでどうだ? この、へなちょこ野郎!
私は仕事場のデスクで唇を噛み締めた。もう、仕事なんかやってられるか。こんなホカっといてもそこそこ売れる文房具を売る仕事なんか、クソ喰らえだ。
悔しい。
もう一度、朝の電車を待つホームからやり直したい。
仕事なんかどうでもいいから、地元の駅に戻って、もう一回通勤してこようかな?
こんな中小企業と大企業の間に挟まってるような微妙な会社。
日本を動かしてるわけでも、明日が会社の存亡の危機でもない。
たった一日、たった一人のストイックな社員がサボったところで、世界がどうとなるワケでも無いんだ……よし! 今日は思いっきり仕事をサボって、もう一回、朝の電車からやり直して、ダジャレを考えよ……
「小林係長、専務からお電話です」
「はえ?」
突然、女性社員の声に虚をつかれ、私は情けない声を出してしまった。その気の抜けた声に数名の若い社員が顔を押さえて「ぷっ」と笑うのが見えた。
お前ら……顔は覚えたからな。
専務からなんだろう?
私は咳払いして声を作ってから、自分のデスクの電話に出た。
「はい、小林です」
久しぶりに専務と電話をしたら、専務の声が変わっていた。そう言えば、役員人事が最近あったのをすっかり忘れていた。
「小林くん。すまないが、今すぐにここに来れるか?」
専務に突然呼び出されたが、全く何の要件なのか、皆目見当もつかない。
まぁ、いいか。
仕事をサボるのが、何を間違えたか専務の部屋へ行く事になった。
階段を登り、久しぶりに専務の部屋を見て「そう言えばシェンムーってゲーム、昔あったな」とどうでもいい事を思い出し、ドアをノックした。
部屋に入るや専務は「おぉ、小林君、来たか!」と大袈裟な声で私を迎えてくれたが、どう見ても初対面だった。
「部屋に入って来た人 = 小林」と言うプログラミングで動いたのだろう。たぶん、チンパンジーを部屋に入れても「おぉ、小林君!」とこの人は呼んだだろう。
と言うか、誰だ、この人?
新しい専務は、全く見覚えのない人に代わっていた。
専務は「まぁ、そこにかけなさい」と私を応接用のソファに招いた。と言う事は、私が何かやらかしたワケではなさそうだ。内心ホッとする。
「専務。それでお話と言いますと?」
「突然なんだが……君に異動してもらいたんだ」
「え、この時期にですか?」
専務に突然そう言われ、さっきまで「仕事なんてどうでもいい」と思っていた流石の私も驚いた。三月でも九月でも無いこの時期に突然の異動とは……やはり、私、何かやらかしたか?
頭を回転させて、心当たりを探るが……まぁ、そこそこ失敗はしているが、こんな突然の異動を命じられる程のものは無いはずだ。
「いや、突然、こんな事になってしまって申し訳ない」
と、専務は私にいきなり頭を下げてきた。上司の頭頂部を見ると言うのは、私も悪い気はしない。
「実はな。急遽、社内に新しいチームを作る事になってな。君にそこでやるプロジェクトを仕切って貰いたいんだ。あと、これはまだ内密に頼む。先方と社長から、そう頼まれているんだよ」
先方と社長からの極秘任務?
え? 私でいいの?
「で、早速、今から異動して色々と準備をしてもらいたんだが……」
「はやっ!」
動揺のあまり、私は思わずツッコんでしまった。いきなりのタメ口に専務がギョッとした顔を見せた。
「しかし、異動と言われましても、少々と伺いたい事があるんですが……」
私の頭は少しパニックになった。
今日は会社をサボって通勤からやり直して、オヤジギャグを考えようとしてたら、いきなり異動だ。
こんな急展開、心が追いつくわけがない。
しかも責任重大そうだから、断れるなら断りたい。
「なぜ、私なんでしょうか? 他にも優秀な方はいると思うのですが」
私は爆弾処理班のような細心の注意を払い「嫌じゃボケ」と言う旨を専務に伝えた。この思い、専務に伝われ!
「それが……私にも良く分からないんだ。なんせ急だったからな。しかも社長からの直々の指名でな」
「社長が、私を?」
いよいよ耄碌したか社長。
「この会社、危ないかもしれない」と内心に思ったが、なぜ、社長が私を指名したのかは興味はある。
今の今まで、社長と仕事をした事も、社長が目を見張るような成果も出した覚えはない。なのに、なんで私を指名するのか?
「なんでも、企画を持ち込んで来た瑛王商事の方が『小林さんと是非仕事がしたい』と社長に頭を下げたそうなんだ」
「瑛王商事?」
叡王商事と言えば、日本でも随一の名門企業ではないか。
なんで、そんな大会社がこんな文房具会社に仕事を持ち込んで来るんだ? どう見ても文房具は先細り業界だと思うが。
「君、瑛王商事に知り合いはいるか?」
「いえ、面識のある方すら一人も……」
私がそう言うと専務は深くソファにもたれ、「うーん、不思議だ」と考え込んでしまった。
「ただ、社長はその企画をかなり気に入っているらしくてな。スグにでも始めたいと乗り気でな」
「それで、私をその企画の責任者にって事ですか?」
「まぁ、そう言うことだ。企画を持ち込んで来た瑛王さんが『君と是非』と言っているんだから、無碍にはできんだろう」
なるほど。
つまり、私を責任者に抜擢した事に関して、社内の評価は何一つ反映されていないと言う事か。そして社長以下の重役たちは皆、『何故、私を指名してきたのか?』を疑問に思っていると。
中々、的を射た分析だ。やるじゃん、うちの重役。
しかし、余計に不思議である。私に瑛王商事に行くようなエリートな知り合いはいない。
過去に仕事で関わった記憶すら……
「あ」
その時、私の脳裏に一つ、心当たりになる記憶が過り、思わず声を出してしまった。
「なんだ、何か心当たりがあるのか!」
専務が身を乗り出してきたが……あまり仕事とは関係ない上に、言いたくない過去だ。しかし、私と瑛王商事の接点と言うと、その時しか無いのだが……
「あの、その方はどう言う方なんですか?」
私は話を逸らす為に、質問を返した。
「社長から名刺を預かっておるよ。君を指名して来たのは、この方だ」
専務は一枚の名刺をテーブルの上に置いた。
「逢坂……明?」
その名前を見た途端、私の頭に二十年以上前の記憶が蘇った。やはり、あの時の男と同じ名前……今でも忘れもしない。あの男の名前も『逢坂明』だった。
しかし、それは「是非、仕事をしたい」と言うような良い記憶ではなく。私が瑛王商事を嫌いになった苦い記憶だ。
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