第3話 小林、ダメな自分を許す

 逃げた。

 

 しかし、世界というのは皮肉なものだ。

 朝、我が家にあんな事があったと言うのに、そんな事など知らぬ存ぜぬと言わんばかりの突き抜けるほどの良い天気。

 こう言う雲一つない青空の朝は「何かいい事がありそうだ」と言う感じの生命保険のパンフレット見たいな笑顔で駅へ向かいたいところだ。

 そんな庶民の浅はかな夢は、目が覚めて二秒で泡沫へと消えてしまったがな。朝起きて二秒で息子の部屋が壊滅。おまけのその日の星占いの私の運勢は一位と来たものだ。腹が立って、明日から別の番組にしてやろうかと思ったぞ。


 しかし、今日はなんて日だ。


 タクヤの部屋に何が起きたのか?


 駅への道中、その事を考えた。

 タクヤの部屋はどこも鍵が掛かっていたらしいし、泥棒って言ってもなんでこんな朝っぱらの目撃者が多い時間帯をわざわざ狙うのか?


 意味が分からない。


 そして極め付けが、部屋が荒らされたと言うのにタクヤのあのホッとしたような顔……あの顔はいったい、なんだったんだろう?


 よかったぁ〜部屋を荒らされて安心した〜? 


 意味が分からない。息子は馬鹿なのか?

 否。

 タクヤの学校は、父親の私が言うのもなんだが、私の頭ではどれだけ勉強しても入れない程に学力が高い。

 この父のスペックを受け継いで、よくぞあんな良い学校に合格したものだと思う。これは将来、タクヤの結婚式の時のスピーチで話しても良いくらいの自慢だ。


 よっぽど、あの学校でサッカーがしたかったんだと思う。


 なら、なぜ朝練を休んだ?

 いや、休むのは仕様が無いとして、なぜ文句の一つも垂れないんだ。「ああ、これじゃ練習いけないよ!」と荒らされた部屋を見て言いそうなものだ。


 私はその時、ある結論に達し、思わず立ち止まってしまった。


「もしかして……学校で何かあったのか?」


 もしや……イジメか?

 と、思ったが、私ですら怯むくらい恰幅のいいタクヤに限って、イジメなど受けるはずが無い。


「……友達と喧嘩でもしたのかな?」


 同じサッカー部の友達と喧嘩をして気まずいから、今日は朝練に行きたくない。そんな所だろうか?


 突然、集中して考え事をしている私に浴びせられていた朝の日差しが遮られ、私の顔に大きな影が落ちた。

 顔を上げると去年、駅前に完成したアレが視界に入った。

 金持ちである事を我々に自慢する為に目立つ様に高く建設された、忌まわしき建物。通称、タワマン。

 コイツのせいで、毎朝、気持ちの良い日光が遮られ、私の顔に不快な影を落とす様になった。

 よりによって、なんでこんな庶民が集まっている平和な街に、あんな我々を見下すような建物を建てるのだ? 我々が何をしたと言うのだ?

 一日だけ巨人になれたら、あのタワマンに全力疾走してポキっと折ってやりたい。あの建物を見ながら毎日そう思っている。


 夢中で気付かなかったが、もう駅前のロータリーまで来ていたのか。

 都心の会社へ向かう社会人に混じって、学生たちの姿、タクヤと同じ学校の制服の子もチラホラと見受けられる。

 昨日までなんとも思っていなかったが、もしかしたらタクヤと同じクラスの子だったり、友達の子もいるのかも知れない。


 自分の知らない息子の人間関係を想像したら、「最近、タクヤと全然話していないな」と改めて思った。

 それにしても、父親の方が息子を避けるなど、あって良いのだろうか? 

 正直、今のタクヤに何を話せば良いのか、さっぱり分からない。顔を見ても何も言葉が出てこないのだ。

 中学の途中くらいまでは普通に会話をする親子だったはずなのに……いつからこんなに距離ができてしまったのだろう?


 同期や友人の子供との付き合いを聞くと「話せば喧嘩ばかりだ」とよく愚痴っているが、私の場合、話をするまでにも至っていない。だって、なんか怖いんだもん。


 あれ? 

 もしかして、私、やばくないか?


 駅のホームで自分の父親としてのヤバさに気付いた時、ちょうど電車がホームに入ってきた。

 いつものドアから、いつもの車両に乗り込み、いつもの座席の前に立ち、いつもの吊り革を掴むと、窓の向こうに階段を上がってきた我が子の姿が見えた。

 一瞬、チラッとこっちを見た時、目があった気がして、私は思わずスマホを見るフリをしてしまった。


 まるで野生の動物が生き残る為に肉食獣から逃げる様な自分の条件反射に「流石にこれはマズイのではないか?」と危機感を覚えた。

 顔を上げると、タクヤの姿はもうなく、電車のドアが閉まり、ホームを出て行った。


 改めて、今、気付いたけど……末期じゃないか、これ?

 

 私自身が学生だった頃も、父親と仲良くしていたわけでは無いが……父がこんなに私にビクビクしていた記憶もない。

 もう認めよう。

 私はあらゆる面で自分のスペックを超えてしまっている、息子の事が怖いのだ。

 しかし、それの何を恥ずかしがることがある?

 喧嘩をしたら負けそうだし、説教をしたら言い負かされそうだし、妻から評価を戴けば、息子の方がシッカリしてそうなだけだ。


 世の中、いろんな人間がいて、色々な考えがあっていい。

 自分の息子の事が怖い父親がいたって良いじゃないか。


 恐怖とは人間が地球で生き残るために身につけた生存本能である。

 「生きたい」と思っているからこそ、あえて息子を避ける事に何を恥ずかしがる事があるのか? むしろ生物として見事な生存戦略だ。


 以上。


 その辺まで考えて、私は「まぁ、細かいことはいいか」と思考を停止させる事にし、背広の胸ポケットに入れていた手帳をを取り出した。

 これ以上、考えるとマジで凹みそうだ。

 私は、自分の子供くらいの年齢の実の息子に劣等感を感じるという現実を振り払い、手帳を広げて、窓の外を眺めた。


 さっきまで私が住んでいた街が、もうあんなに遠くへ離れている。

 朝日に照らされて綺麗な景色だ。松尾芭蕉なら、もう一句できてるだろうな。


 電車が鉄橋を通過する。隣の橋の歩道に欄干に寄りかかって下の川を眺めている老人の姿が見えた。きっと、そろそろ渡るであろう三途の川のイメトレをしているんだろうな。


「欄干……もっと、らんかん的に……もっとらんかん的に行こうよ!」


 早速、なかなかいい感じのオヤジギャグができた。楽観的じゃなくて、『らんかん的に行こうよ』か……なるほど。クソ寒いな。


 私は早速、その思いついたつまらないダジャレを手帳に書き込んだ。もっと欄干的に行こうよ。なんだこれ? 寒いにも程があるだろ。

 私は思わず、手帳を見てニヤニヤしてしまった。なかなか美しいダジャレだ。楽しくなって来て、もう息子の事など、どうでも良くなっていた。


 私が朝の電車の中でずっとやっている趣味、それはオヤジギャグ作りだ。

 元々学生時代、深夜ラジオにネタを投稿するハガキ職人であった私は、就職後、投稿生活を引退してからも、何かネタを考える事をしようと思い、「何がいいか?」と考えていた時、


「究極にクソつまんないダジャレって、どんなんだろうか?」


 それまで面白いことばかりを考えてハガキを書いていた私は、これも良い機会だと思い、あえて逆ベクトルへ舵を切る事にしたのだ。まだ誰も足を踏みいていない、雑草だらけの領域。

 それが「つまらない事を追求しよう」である。


 しかし、これが中々どうして、やってみると奥が深い。

 寒いダジャレと言うのは、思い付こうと思っても、なかなか思いつくものでは無く、ある程度の努力と忍耐が必要である事がわかった。

 何も浮かばない日もあれば、スラッと浮かんだが、後で見直すとちょっと面白かったりして思う様に行かない。

 毎日、暇つぶしに電車の中で試行錯誤していると、次第にそのつまらないダジャレの深淵に足を踏み入れ、美学を見出すようになった。


 オヤジギャグを「つまらない」「寒い」の一言で片付ける世間の浅い人間には足を踏み入れることのできない禁断の領域に、私は朝の通勤電車の中でたどり着いてしまったのだ。

 そこで、私は毎朝、オヤジギャグの深淵で一人、オヤジギャグの神様と二人きりでダンスを踊る。


 オヤジギャグがつまらないのは、悪い事ではない。

 オヤジギャグとは、つまらなければ、つまらない程に……美しいのだ。


 ただ、こんな暗い趣味を持っている事は、友人どころか妻にすら話していない。

 しかし、長年ずっとやっていたら、寒いダジャレだけを書いた手帳がこの間、五十冊になってしまった。もちろん、誰にも見せずに墓場まで持っていくつもりだ。


 電車に乗り、窓の外、電車の中、乗客、あらゆるところに目を光らせて、ダジャレの材料を探す。

 そして、思いついたダジャレをひたすら手帳に書いて行く。


 最初の電車を降り、乗り換えのホームまで歩く間も、次の電車を待っている間も、その電車の中でも、私はこの作業をひたすら繰り返す。

 さぁ、神よ、今日も深淵で二人、ダンスを踊ろう……自分の息子が苦手な父親がいたって良いじゃないか。


 神はきっと私にそう微笑みかけてくれる事だろう。


──ダジャレをいうのは、誰じゃ──


「ん?」


 満員電車の中で突然聞こえた声に、私は手帳から顔を上げ、我に帰った。

 「自分の趣味が見られたか?」と、あたりをキョロキョロしたが、こちらを見ている人物が見当たらない。

 それどころか、私以外の人らは今の声が聞こえなかったらしく、何事も無かったかのようにしている。いくら他人に関心のない都会の人々と言えど、この無関心はあり得ない。


 気のせいか。


 電車はちょうど私の会社がある駅に着いた。

 私はダジャレ作りをやめて、サラリーマンモードに気分を切り替える為、ポケットに手帳を仕舞い、ネクタイを締め直した。

 電車のドアが開き、降りる人の波に体を任せ、電車の外へと流れていく。


──ダジャレを言うのは、誰じゃ──


「ん?」


 やはり、聞こえる。

 私は再び辺りをキョロキョロした。

 やはり、他の人には声が聞こえていない様子だ。

 

 幻聴か?


「いたっ!」


 その時、私の右手に激痛が走った。いつの間にか私は挙手をしていたらしく、地下鉄のドアの壁にぶつけていたのだ。


 しかし、いつの間に私は手を上げたんだ?


 不思議に思ったが、中年のオッサンが手をぶつけて立ち止まっているせいで、電車を降りられない後ろの人の視線があった為、私は急いで電車を降りた。


 あの声は一体何だったのだろう?


 ダジャレをいうのは誰じゃ?


 ダジャレだ。

 

 とにかく、今日は朝から変な事が続く。












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