自由な世界
世界は竜。そして竜は世界。
巨大な龍玉を核として竜の体は生き物を支える大陸となり、世界を覆う翼は空となり、涙は池となり、鱗は山となる。
世界は竜であり、竜が世界そのものである。それはこの世界に生きる生き物たちにとっての常識であり人間も例外ではない。彼らは高度な機能と伝え知らせる多用な言葉を持っていた。親から子へ、子から孫へ。人間たちは世界の姿を、竜の姿を伝えた。
竜は龍玉を抱え、いつでも微笑んでいた。知られなくても良いと思っていた自分の存在が愛しい子供たちに語られていることが嬉しかった。愛しい子供たちが幸せに暮らすだけでも良い。
いつだったのか覚えている人間は居ない、そんな神話にもなりつつあるはるか昔の時代。竜は嬉しさ極まって翼を震わせたことがあった。星が落ち、光は隠れ、作物は死に絶え飢えが広まった。竜は泣いた。愛しい子供たちが自分のせいで死んでしまった。流れ落ちる涙は池を越え、山から崩れ落ち全てを流した。
竜は悲しみ目を閉じ体を固めた。もう二度と子供たちを苦しめない。喜ばない悲しまない怒らない。心すらも封じよう。
自然災害のほとんど起こらない平和な世界が数千年続いた。
竜の伝説が廃れつつある中で、一人の少女が生まれた。深い森の樹々が持つ深緑の髪に海のように淀み持つ濁藍の瞳。彼女は祖母の語る竜の物語を寝物語として聞いて育った。毎日毎日飽きることなく、寝る前には祖母の部屋へと忍び込み竜の物語を強請った。
龍玉を抱え、世界となった竜は今も世界のために全ての生き物たちと共に居る。人間が忘れても樹々が覚え敬っている。今でも竜は世界を想い、眠っているのだよ。
少女の髪の毛を撫でてそう言い聞かせた祖母は死んだ。いや、彼女の言葉を借りるなら還っていった。竜が抱える龍玉の中へと還りいつの日かまた新たな命として芽吹く。
だから少女は泣かなかった。泣かない代わりに地面へと手を当てて笑った。
「おばあちゃんが世界にかえったから、やさしくしてあげてね」
優しい世界は笑った。少女が触れた地面に可憐な白い花が咲いた。ありがとう、少女は白い花を撫でて帰路に着いた。
それから何年が経ったか。少女は自分の住む村の近くにある泉に身体を沈めていた。仰向けに浮かび青空へ手を伸ばす。池は涙、ならば彼の顔はこの近くにあるのだろうか。
「世界は竜、竜は世界。私たちは幸せ、でも動くことすら出来ない貴方は幸せなの?」
長い深緑の髪を浮かべ、空へ伸ばした手を池の中に沈める。
祖母から話を聞いた時から考えていた。世界は竜、竜はこの世界に生きる人たちのために静かに時を過ごす。動くことも話すことも出来ず、一人きり。それが悲しくて少女は時折こうして竜を感じられる場所へやってきては竜へ語りかけ、涙を流す。
竜は知っていた。
毎日のように自分へ語りかける小さな子供。一度応えた事がある。少女の大事な人が自分の中へと還ってきた時、少女は自分へと語りかけてきた。祖母の魂を頼む、と。それに応えてしまった。自分は愛しい子供たちに関わってはいけないのに。
少女は語りかけてくる。最初は嬉しかった少女の声。続けて聞く内に彼女に触れたくなった、彼女の姿を見たくなった。震えそうになる体を抑えていた。
「貴方と話したいなあ」
少女が世界に語りかけ始めてからまた数年が経った。世界には地震が多くなり、人間たちは不安に陥っていた。ただ、池の縁に足をかけて水で遊ぶ彼女だけは嬉しそうに笑っている。
ようやく反応してくれた。
世界の震えは竜の感情。少女だった女性は草地に寝転がる。もう少しで竜と話せそうだ。何年もかかったけれどこれからが楽しみ。
女性が話し終えるといっそう強く、世界が揺れた。
揺れる世界に包まれ、女性は目を閉じる。温かな世界、暖かな夢の中、女性は浮かんでいた。
暗いここは水の中、口から泡が溢れて弾ける。息は出来る。ここは夢の中だから。涙が池ならば海はなんだろうか。
――私に語りかけるのは止めてくれないか。
ゆっくりと、女性の目の前に提灯のような仄かな明かりが灯る。手を伸ばせば届く距離に現れた光に彼女は笑いかけた。
「やだ、ようやく会えたのに」
光は風船のように柔らかな弾力を持っていて引き寄せれば胸の中に抱くことが出来た。暖かい。
「ねえ、竜さん。もっと話そう? ずっとずっと暇だったでしょ?」
光を優しく抱く彼女にかける言葉が見つからない。光は、竜は、しばらく考えた。そしてゆっくり語りかける。
――私は、世界だ。私が揺らげば世界が揺れ、愛し子たちが死んでしまう。
つんつん。体から少しだけ光を離して人差し指でつつく。光は正円から少しだけ歪んで泡を吐き出す。面白い。女性は笑っている。
「いいんじゃない?」
きゅっと強く光を握ってみる。
「貴方はずっと我慢をしてきたんだよ? 誰よりも」
光は少しだけ歪んだけれど直ぐに元の正円へと戻った。
「何でワガママを言わないの? 動かなくて平気なわけない。死にそうなくらいつらいはずだよ」
光を両手で掬いあげて口元へ。軽く口付けても一切反応しない光に少しだけ苛ついた。女性は額に光を当てた。
「私は世界が好き。全てをくれた世界が好き。貴方が大好き」
――愛し子は皆愛している。だから私は愛し子を守りたい。
「世界が壊れて、人が死んで生き物が居なくなったら貴方は動けるの? だったらそれを私の目標にする」
――理解できない。私はただ愛し子たちを守りたいのだと言っている。
ふっ、と思わず笑うと吐き出された吐息で光が少しだけ女性から離れた。
水の中のような不思議な場所で彼女は大きく両手を広げた。全てを受け入れるような格好だと思った。
「理解しようとしていないのは貴方よ。人を長く見たことは無いの? 私は貴方が好き、大好きな貴方のためならなんだってして見せるわ」
片手を胸元に寄せて彼女は人差し指を立てた。
「何で貴方は私と話をしてくれたの? 何で私の声に応えて世界を揺らしたの? 何でこうして話してくれたの?」
光は少し体を縮めた。
竜には分からない。愛し子の命は短い。無視をして命が尽きる時を待っていても良かった。けれど自分はこうして『直接』少女だった愛し子と話す機会を持ってしまった。持たなくても良いと分かる知恵はある。
気付いたらそうしていた。気付いたら、彼女に触れていた。
「求めたからでしょ。……嬉しかった。でも私は、私が幸せな分貴女に幸せになって欲しい。貴方にもこの世界で生きて欲しいの」
ねえ。
語りかけた先で光が力を増した。
――私が、私の世界で生きる。
女性は頷く。それでいい。
「私は一度還ってもいいよ。もう一度ここに来たいなんて贅沢も言わないから、一度自由に生きて欲しいの。大好きな貴女に」
光が一際強く輝き夢が終わる。
目覚めてすぐ彼女は異変に気づいた。世界が揺れ、山が叫び、空が割れている。
彼の産声に女性は笑いかける。これでやっと、自由だね?
世界は彼女を飲み込んだ。真っ暗に閉ざされた場所にはわずかな暖かみ。変わらない世界の優しさに気付いた彼女は目を閉じ、夢に身を任せた。
髪を触られ、少女はゆっくりと目を開く。
いつか見た泉の縁に、いつか共に暮らしていた祖母と座っている。
「おはよう」
声をかけてきたのは黒い髪の優しい目をした見覚えのない青年。
彼は手を差し出している。何気なく掴んだ腕から伝わる暖かさには覚えがある。
「今日はなにする?」
笑いかけると青年はほんの少しだが、笑い返した。
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