第36話 合宿4
あれもこんな綺麗な夜空が広がっている日のことだった。
「……八城結、だったか?」
一人で膝を抱えて、丸くなる私に声を掛けてきたのが、滝川徳人という男子だった。
彼は同じ一年生だったのに、合同練習で一際目立った存在だった。バックを泳がせれば、表欄で競える人は限られているほどに彼は速かったのだ。
当時の二年生で副部長を任されていた守谷秀一先輩も、一目置くほどに彼はどこまで泳ぐに真っ直ぐで、水泳を楽しんでいた。
私は分からなかった。
「なんで練習中に笑えるの?」
気がつけば、そんなことを訊いていた。
「うーん。そりゃ、好きだからな。俺にはさ、水泳しかなかったから」
じゃあ、彼は天才なのだと思った。あまりに愚の骨頂とも言える考えだが、どうして自分よりも速くて、手の届かない存在はみんな天才だと思えてしまう。
天才だから勝てないんだと。天才だから仕方ないと。
諦めてしまう。
けど、彼は否定したのだ。
「何それ。俺は天才なんかじゃないよ」
「え?」
「俺が天才だったら、どれだけいいか。天才だったら本気で競泳の世界も目指すだろうな」
今なんて言った? 競泳の世界を目指していない? あれだけ周囲が認めるほどの実力を持っているのに?
「でも、俺は凡人だよ。人一倍練習して、練習して、練習しまくって、ようやく今に届く。俺にはさ、妹がいるんだ。凪って言うんだけど、こいつが、いわゆる天才ってやつで、俺の練習量なんか笑い飛ばすように、成長するんだ」
彼は心底悲しそうな、嬉しそうな、混ざり合った目で話した。
「でもさ、そんなどうしようもない天才の妹がいても、俺はまだ上に立たなきゃいけないんだ。あいつが、俺を目指してくれてる限り、俺はまだ速くならないといけない」
その言葉は私にとって、強い励ましになった。
強豪と呼ばれる表欄の水泳部に入ってから、厳しい練習の日々が続いた。でも、周りは自分より速くて、個人種目でも結果を残している。その中からリレーメンバーも選ばれて、必ず表彰台に上がる。
自分はこのまま何もできないままで、終わってしまうのではないかと怖かった。私は水泳に向いてないんじゃないかって悩んでいた。
「結は、泳ぐのは好きか?」
「うん、好き」
「そっか。負けて悔しいか?」
「うん、悔しい」
「そっか。じゃあ、大丈夫。悔しくても、水泳が好きだったら結は速くなれるよ。俺がそうだから」
「……うん」
それから徳人は私の自主練習に付き合ってくれた。
足りないものを教えてくれた。
「結はバサロをもっと活かした方がいい。フォームも綺麗だし、素質は悪くない。差をつけるなら、スタートと、ターン後のバサロで攻めたらどうだ?」
それが私の新しいスタイルになった。スピードも勿論あげるが、自主練習ではひたすらスタートとターン後のバサロを鍛えた。
一度に乗れば、泳ぎ始めてからの加速もより楽になって、気がつけば、タイムは次第に伸びていったのだ。
彼は師匠だ。だから先生と呼ぶ。
私に希望を与えてくれた、尊敬する選手。
「凪、もう一本だ」
「うん!」
プールでは徳人の声と、凪の泳ぐ音がする。
結はそれを影で眺めるだけ。
「いいのか? 一緒に練習しなくて」
秀一がやってきた。彼がプールを開けてくれたのだ。
「いいんです。徳人先生の妹ちゃんは天才らしいんです」
「ええ、そうらしいですね。あれは逸材ですよ」
「でも先生はまだ負けていない。だから私も負けない。妹ちゃんが速くなるなら、私もその上をいくだけです」
そう言って結は去っていく。
「随分と、彼に似て強くなりましたね。だからこそ、君はうちのエースを担う」
秀一の視線は徳人に移る。
「今年もいい練習になりそうです」
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