第34話 合宿2

 兄の徳人は、目の前で謎の美少女に抱きつかれた。

 勢いあまって、徳人は後ろに倒れ、少女が上に覆いかぶさる形になる。


「いてて……」

「徳人センセー!」

「重いから、退いてくれないか? 結」

「重いって酷い! これでも去年よりも痩せたんだよ?」


 など言って全く徳人の上から退く気がない少女に、凪は一歩踏み出した。


「あの! お兄ちゃんが苦しそうです! そこを退いてください!」

「お兄ちゃん……? あ、君が徳人センセーの妹の凪ちゃんだ!」

「そうですけど……あなたは誰なんですか!」


 すると少女は、スッと立ち上がる。目線はやや彼女の方が高い。だが凪の目は少女を睨むように捉える。


「私は八城結」


 改めて名前を聞いて、凪は思い出す。早苗が言っていた、最近注目されている表欄高校水泳部の選手の名も八城結だったことを。


「先生ってどういうことですか!」

「えっと、徳人センセーは私のセンセーなの。徳人センセーのおかげで、今の私がいる。実質、彼女みたいなものかな!」

「おい」


 と、タイミングよく徳人のチョップが結の脳天を捉えた。


「いつ誰が俺の彼女になったんだよ……」

「ええ~、もうセンセーと私はラブラブじゃん! あの日の夜のこと、もう忘れちゃったの?」


 上目遣いで甘えるように言っても、徳人には効かない。


「俺がお前の悩みを聞いてあげたんだろ」

「その夜は二人っきりで朝を迎えたでしょ」

「俺がひたすらに練習を見てやったんだろ」

「シャワー浴びてる時、裸だって見たでしょ!」

「見ていない! デマをここで広げるな」


 むぅーっと頬を膨らませる結の後ろから、先ほどの守谷秀一の姿が現れた。


「八城、そのくらいにしなさい。それ以上迷惑をかけたら、合同練習に参加させませんよ?」

「……はーい」


 大人しく秀一の言葉を聞き、結は手を振ってストレッチをしている集団の場所に戻っていった。


「すみませんね、滝川くん」

「いえ、結の扱いも分かってるんで」

「ですが、本当にあなたのお陰で八城は成長しました。今では、うちのエースを担う程です。今回もお互いにいい刺激を与えられるようにしましょう」

「そうですね。きっと今回もいい合同練習になると思いますよ」


 徳人の含みを持たせた言葉に秀一は一瞬だけ目を細めるが、彼の隣に立つ少女と目を合わせると、その意味が分かったような気がした。


 彼女もまた彼と同じ目をしている。彼女が徳人くんの妹さんですか……。


「では、浦笠のみなさんも準備をしてください。十時から練習を始めますので」


 そうして一同は準備に入ろうとするが、徳人の行く先を凪が邪魔をする。不機嫌オーラ全開で、隠す気もない。


「お兄ちゃん、説明して。あの八城結って誰なの?」

「はぁー」


 小さく溜息を洩らすと、チラリと結の方を見る。


「あいつは八城結。俺と同じ高二で、去年のこの合同練習で初めて会った。んで、あいつも俺と同じバック専門だったから、ちょっとだけアドバイスして、練習を見てやったってだけだ」

「それであんなに親しくなるわけ?」

「あいつがやたらに馴れ馴れしくしてるだけだ。あいつも言ってただろ? 先生って。まぁ、去年の合同練習から一気にタイムを伸ばしてきたのは確かだが、俺も大したアドバイスをした覚えはない」

「……あっそ」


 せっかく説明した徳人に対して、凪は素っ気ない返事をする。そして何も言わずに女子更衣室の方へと行ってしまった。

 やれやれと首を振りながらも徳人たち男子も準備を始めた。

 この合同練習では、お互いに練習メニューを考えて行われるが、目的はライバル視からの相乗効果だ。

 現に目立った成長を果たしたのは八城結だが、他のみんなもこの合同練習をきっかけに着実にタイムを上げていた。

 そして今年は凪がいる。

 結のこともあってか、既に凪は真剣な面持ちで練習に励んでいた。視界に結衣が入り込むたびに、練習でも滅多に出さないタイムで泳ぐ。

 その度に表欄の部員たちが関心の声を洩らしていた。

 あれはライバル視というより、完全に敵視しているな。


「よし、今日はここまでにしましょう。ダウンを済ませて、着替えちゃってください。浦笠のみなさんも今日の宿にご案内致します」


 秀一が言うと、一斉にダウンに入った。

 初日からなかなかハードな練習になったが、その分心地いい疲労感が身体に残っていた。

 その疲れを流すように徳人がゆっくりとダウンをしていると、先に上がろうとしている結を凪が捕まえた。


「あの!」

「あ、どうしたの? センセーの妹ちゃん」

「私と勝負してください」


 なんてこと言い出した。

 もちろん周囲の反応で徳人も気付き、慌てて止めに入る。


「おい、凪! 勝手なことは――」

「いいよ」


 徳人の言葉を遮って結は許諾の一言を吐いた。

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