第25話 夏のせい

「暑いよー、お兄ちゃん」

「我慢しろ。夏ってのは暑いもんだ」

「むぅー、お兄ちゃんの意地悪」


 唇を尖らせる凪は、ギラギラと照らす太陽から身を隠すように日陰へと避難する。その場に座り込んでしまうので、仕方なく徳人も歩みを止めた。

 梅雨も明けて、七月に入ると一気に夏の兆しが押し寄せて、いつの間にか夏なんだと実感するようになった。

 半袖のシャツは汗で身体にべっとりと張り付き、定期的に水分を取らないと熱中症になってしまいそうだ。

 徳人は家から持ち出した飲みかけのペットボトルを取り出すと、キャップを外してごくりと一口お茶を流し込んだ。


「ああー、私も飲む!」


 エイッと徳人の手からペットボトルを奪い取ると、そのままぐびぐびと半分以上の量を飲んでしまった。

 ぷはぁっとまるで風呂上がりのビールでも飲んだみたいに息を洩らす。

 そして満足したのか、ペットボトルを返す。


「はい、ありがと!」

「おう」


 残量は四分の一も残っていなかったので、徳人が全て飲み切ってしまう。空になったペットボトルは、ちょうどゴミ箱が目に入ったので、そこまで捨てに行った。

 あれほど「暑い、暑い」と呪文のように言っていた凪だったが、律儀に徳人の後ろをついていく。


「ねえ、部活も終わったんだしコンビニでアイス買って帰ろうよ」

「家に買い置きあるんだから我慢しろよ」

「でも今、食べたいの。こんなに暑いんだし、外で食べるから美味しいんじゃん!」

「昨日は風呂上がりのアイスが一番美味しいって言ってなかったか?」

「お風呂上がりも美味しいけど、今食べても美味しいの!」


 結局のところ、アイスが食べたいだけだろ……。なんて思いながらも、徳人は小さく嘆息して財布を取り出した。

 小銭入れチャックを開けて、軽く残金を確認する。

 パッと見て七百円は入っていた。


「んじゃ、適当に買ってこい」

「やったー!ってお兄ちゃんは買わないの?」

「俺はいい。ここで待っとくから行ってこいよ」

「はーい」


 財布ごと凪に渡すと、タッタッタと走って近くのコンビニに入っていった。


 もう一緒に暮らすようになってから、三ヶ月以上が経った。中学の時と比べて、ここで暮らす凪は昔よりも我儘になったと思う。

 そりゃ、父さんも母さんもいなければ羽も伸ばせるし、ガミガミ言えるのは俺くらいなものだ。

 しかし、俺までこうも凪に甘くなってしまうと、いよいよこれから先が不安になってしまう。

 身体はしっかり大人の女性になっているのに、心はまるで昔と変わっていない。我儘で、甘えん坊で、お兄ちゃん子で、それがとても愛おしいと思えてしまう。


「ああー、俺もやっぱりシスコンなのかなぁ」


 いつも第一に考えるのは凪ばかりで、結局のところ凪が笑顔で楽しく過ごせるのなら、それでいいと思えてしまう。

 迷惑もたくさん掛けてきたし、兄貴らしいことも全然やれてこなかった。

 凪はいい妹だ。自慢の妹だ。どこの誰でも胸を張って紹介できる、そんな完璧な妹だ。

 そう、凪は俺の妹だ。


 ――私、お兄ちゃんのことが好き。


 懐かしいことを思い出す。中学の制服に身を包む凪の、そのセリフが脳裏に繰り返し再生される。

 薄々だが、気づいているのかもしれない。でも、それを自覚しないように日々を過ごしていた。


 気づいてはいけない、気づきたくない。


 そんな気持ちがどこか奥底にあって、徳人の思考にブレーキをかける。

 この実家から遠い高校を選んだのも、もちろん水泳部が強い、学力偏差値が高いという理由もあるが、何より凪から距離を作ることが出来る。そんな理由も0ではなかった。


「俺はまだ、凪の気持ちから逃げているだけかもしれないんだよな……」


 またいつか、あのような日が来るのだろうか。

 あの言葉を聞く日が来るのだろうか。


「……」

「お兄ちゃーん!」


 凪がコンビニから出てくると、こちらに向かって駆けてくる。

 走ったらまた暑くなると言うのに。


「アイス買ってきた!」

「そうか」

「……はい!」


 凪は袋から取り出したアイスは、二つのアイスがくっ付いたものだった。それをパキッと割り、半分を徳人に差し出す。


「いいのか?」

「うん、だってお兄ちゃんと一緒に食べた方が一番美味しいもん!」


 おいおい、また一番美味しいってやつが増えたぞ。

 徳人は有難く、半分のアイスを受け取った。早く食べないと既に溶け始めている。


「んー、美味しい!」

「……はむっ」


 口の中に冷たい感触と甘美が広がる。

 暑い外に比べ、口内だけは真冬へと変わりながら、食べる手は止まらなかった。




 ――私、お兄ちゃんのことが好き。ねえ、私と付き合って。


 あの日の言葉を忘れようとしている。なかったことにしようとしている。

 けど、今こうして楽しそうにしている凪を見ていたら、そんなことどうでもいいように思えた。

 まだ、逃げてもいいだろうか。この楽しい時間が過ごせるのなら、もう少しだけあの言葉を、あの気持ちを後回しにしてもいいだろうか。


「お兄ちゃん、どうしたの?ぼーっとして」

「ん?あ、いや、何でもない」

「何それ。暑さでちょっとおかしくなったんじゃないの?」

「……そうかもな。ほら、もう帰るぞ」


 今じゃなくていい。

 こんなことを考えるのも、きっと夏のせいだと信じたい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る