第5話 虎
「いやぁ~はは、ありがとうございました…意外に森が深くて…もうお腹がペコペコで…」女は頭を掻きながら照れ臭そうに笑う。
あの後、倒れていた女をマタイが馬車に拾い上げた。
彼女はひどく衰弱していた様子だったが、水と少しの食料を与えるとすぐに元気になった。
「お前さん、名前は?」マタイが訊ねる。
「はぁ、僕はタイガと申します……商人の…手伝いを少々…」タイガと名乗った女はパンを口いっぱいに頬張りながら答える。
「今は違うの?」そう言ってハンナは酒瓶を傾ける。
「…この森を南の方へ抜けて、ずぅっと行った街で暮らしていたんですが…まぁ色々とありまして…仕事を辞めてしまいまして…」
その言葉を聞いて、スズは肩を少し震わせる。
スズはマルコに叱られてから、胡坐をかいてうなだれている。中途半端に伸びた髪で表情は見えない。
「はぁん。職が嫌になって、ここまで逃げてきた…ってわけか」マタイが顎を触る。
「逃げると言いますか…新しい人生を始めようと…」
「!そりゃーいい!アタシも同じ!アタシはもっと南から来たけど…」ハンナがグイッとタイガの方に身を寄せる。
「?そうなんですか…!」のけぞりながらもタイガは顔をほころばせる。
「まっ俺ら皆、お前と似たようなもんだ!いいことあるぜ、きっと!」そう笑って、マタイは彼女の背中をバンバンと叩く。
「あ、はい!ありがとうございまっ!ゴホッ!ケホ」
少し力が強かったのか、彼女はむせてしまった。
前方での騒ぎには何ら興味がないルカは、静かに本を読んでいる。
「コホッ…それで、馬車はどちらに?」
「北の都だよ。明日の昼には着く」マルコが荷台をちらと振り返って答える。
「おお!芸術の都!一度行ってみたいなぁ…」
「そりゃ丁度いい、一緒に行こうぜ」悪いと思ったのか、今度は軽く肩を叩く。
「おお!いいんですか!助けてもらった上に、街まで連れて行っていただいて!」
「構わないよ。こっちはただ家に帰る途中だから」
馬車が少し速度を上げる。
「ところで、そちらの方々は…?」
タイガは、自分が来てから一度も声を発さないスズとルカを横目で見ながら、小さな声で隣のハンナに訊ねた。
「ルカは気にしなくていいよ。他人に興味ないんだ。そっちは…あー…今悩み中。そっとしといてあげて」
「そ、そうですか…」タイガは少し不安げにスズを見つめる。そして、「あの~、男の方が、スズさん…でしたっけ?」
「そうだよ」
「なんだか、僕に似てるかも」
「え?全然違うよ?タイガは髪も赤いし。女だし」
「そういうこっちゃねぇよ…」。
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太陽が西に傾くころ、僕たちは街に着いた。
マルコが宿を手配し、マタイは馬宿に馬を繋ぎに行っている。
ハンナとルカは商店に行くと言って街に消えた。
僕とタイガさんは少し待っていてくれと言われたので、近くにあった広場の辺りに並んで佇んでいた。
東の都市ほどではないが、この街も結構な人が行きかっていた。
僕らの目の前では露天商が見たこともない野菜を大きな声で宣伝している。しかし、誰もかれも彼の前を素通りしている。
初対面の女性と二人きりにされて気まずくなった僕は、首を前に固定させて、売れない露天商を見ていた。
ルカの時みたいに刺激的な出会いだったら、こんな気まずいことは無かったのかもしれない。
頭の中で独りオタオタしていると、いきなりタイガが話しかけてきた。
「…スズさん。ちょっとお酒でも飲みません?」
女性からの誘いなんて、生きてて初めてだった。
脳が汗をかいているみたいだ。どうすればいい?断る?無理だ。理由がないし、気まずい。
「あ、いいですね…は…」
僕は答えに困って誘いに乗った。
ああ、やっぱり、マルコが怒ってたのはこういう態度なんだよな。
そう簡単に変われたら苦労しないよ。
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僕たちは広場を挟んで宿屋の向いにある酒場に入った。
酒場では、日の暮れる前から大勢の人が酒を飲みながら騒ぎあっていた。
喧噪が室内を覆いつくしている感じは日本の居酒屋とさほど変わりはない。
隅の方の席に座ると、タイガがウェイトレスに声をかける。
僕はここまで来て、ようやく自分にお金がないことを思い出したが、タイガは「自分から誘ったし、それにお金なら少しはある」と言った。
いきなり恥ずかしいことをしてしまった。僕はなんだか、自分がどうしようもないダメ人間に思えてきた。
「…すいません。いや、こんな…皆にも声をかければよかった」
「ん…他の人たちはいいや。馬車でも言ったように、なんだか君は僕に近いものを感じてまして…聞いてましたよね?」
「…ええ、まぁ…」
「君たちの中で何があったか知りません。けど、あまり関係は良くないみたいですね」
そう言われた時、お酒が運ばれてきた。木製の杯は大ジョッキぐらいある。タイガが店員にコインを2枚渡す。「まぁでも、知らない街で…知らない酒。飲めば、少しは気が楽になるかもしれない」
「…酒は苦手なんです。頭がひどく揺さぶられる感覚がして…」
「ああ、同じです。同じです」
「はい?」
「僕も酒は苦手なんです。飲むと頭がぐあんぐあんして、意識がふらつく感じ…でも、しらふでいるには、どうしようもない時がある」
彼女は酒をグイッと傾ける。僕も、少し口をつける。ワインみたいな味。やっぱり、すごく渋くて、舌がピリピリする。
こんなものをなんで飲むのか、ずっと不思議だった。
どうしようもない時、僕にとって、この世界に来てからがずっとそうだ。
「…どうしようもない時…それって…」
「っふぅ…さっきは商人と言いましたけど、僕は
「?……詩?」
「うん。詩は好きかい?」
「いや…ちゃんと聴いたことは、ないかもしれない」
「…ん、そう」
「…あ、さっき言った、あの…なんで、逃げてきたんですか?…詩と関係が?」
「…僕はね、いや、僕の生まれた村には、たまに旅人が来てね。幼いころ、僕はよく彼らの詩を聴いていたんだ。
それで、そのうち、思うようになったんだ。ああ、彼らのように人の胸に届くような、そんな詩が、作れたらな、って」
「…いい夢じゃないですか」
僕がそう言うと、タイガは酒を飲みながら、自嘲気味に笑う。
「ああ、いい夢だ。現実は違ったが。……僕は15の時、村を出た。村で畑を手伝ってても、しょうがないと思ったから。
それで、南の国の街に行って、最初は劇場で切符を売る仕事に就いた」
スズ「15…」
15歳。その年齢の時、僕は中学生で、未来のことや、やりたいことなんて何も考えていなかった。
でも、この世界では、15というのは、もう親元を離れることを考える年齢なのか。
いや、日本も昔はそうだったんだっけ?
若いウェイトレスが、おかわりはどうですかと聞きに来る。
この人はいくつだろうか?何か、目指しているものでもあるんだろうか?
タイガが「どうする?」と聞いてきたが、まだ半分も飲んでいなかったので断った。
「ま、1年くらいで辞めちゃったけどね。劇場が潰れちゃって。その次は酒場。丁度、ここみたいな。
そのまた次は新聞屋で働いて……。僕は一生懸命働いた。根が真面目だからね。それで、どうなったと思う?」
「どうなった…?でも、さっきは商人って言ってたから、また辞めて…あれ?詩は?」
僕がそう言うと、タイガは眉間にしわを寄せ、じっと酒を見つめる。
「そ、結局、どうにもならなかったんだよ。詩人になりたかったのに、働いて、食べていくだけで精一杯。
なんとか街頭に立って歌っても、人は見向きもしない。そりゃそうだ、鬱屈とした詩なんて流行らない。
言葉は、その人の心を表すんだ。疲れた心には、枯れた葉しか生らない。
そんな言葉、誰も求めていないのに」
彼女はそう捲し立てると、一呼吸おいて、酒を一気に飲み干した。
「やがて、家にいる時間が多くなった。独り家にいる時は…酒に溺れて、現実からずらかった。
楽になるんだ、何を考えずに、意識をふらつかせていると。
色々と分かってきたんだ。こんなことしている場合じゃないって。
詩で生きていくためには、詩を書くしかない。詩を歌うしかない。
でも…あぁ…詩が重荷になっていった。ただ生きるだけだったら、詩なんていらない。
………聴いたことあるかい?虎になった詩人の話。遠い昔話だ」
「?…うん」
タイガの言う昔話は、きっと、僕の知っている話とは違う。
でも、きっと話のあらすじは、似ているんだろうな。
「僕も彼と同じ。昔話の主人公とは理由は違うけど…。
僕の場合は、夢をぶら下げたまま、現実を生きるのが辛かった。だから逃げ出した。
幸か不幸か、まだ人間だけど」
呟くようにそう言うと、彼女は再びウェイトレスに酒を頼んだ。
「はぁぁ……やっぱり、溜まっているものを吐き出すのはいいね。気持ちが幾分かラクになる」
「…でも、なんで僕にこの話を?」
「こんな恥ずかしい話が見知った人にできるか?
行きずりの人間に、酒の勢いで話すくらいがちょうどいい。…それに、さっきも言ったろ。君と僕はどこか似てる」
彼女は酒を飲んだ。出会った時から随分と口調が変わっている。これも、酒のせいか。
「だから、少しは、分かってくれると思ったんだ。僕の気持ちが」
僕は酒を飲む。僕は変わっただろうか。自覚はない。
「うぅん…少しは、分かる…かもしれない。でも、僕と君は違うよ。僕には夢なんてなかったから」
「なかった?変な言い方をするね。まるで、もう夢を見る資格がないみたいだ」
彼女の言う通り、変な言葉だ。夢なんて、言ってしまえば毎晩見るようなものなのに。
「ああ、でも、そうだ……僕はずっと、周りに流されて生きてきたんだ。
親や先生から言われたことを、とりあえず守って。
なりたい姿なんて何も考えないまま、体だけ大きくなった」
酒が入っている所為か、自分の思っていることが、口からこぼれてしまう。
僕はずっと、ラクな方へ、ラクな方へと生きてきた。
とりあえず進学して、適当に頑張って、親が言うから就職して…
それはいわゆる、平凡な人々たちによる一種の流れで、それに乗っていれば、「とりあえず」生きていけると思っていた。
それからどうした? あれ、なんで僕は死んだんだっけ? 死ぬ前は、僕は何をしていたっけ?
独り、暗いアパートで…。
思い出せない。頭にノイズが掛かっているみたいだ。
「それで…そうだ。僕も結局、どうにもならなかったんだ。
人に流されて生きていたら、僕が流れ着いたのはどん詰まりの底だった」
「へぇ…それで、君も逃げたのかい?」
「…分からない。さっきから思い出せないんだ。社会に自分の居場所がなくなって、それからのこと」
「?…じゃあ、彼らとはどこで会ったんだ?」
「ずっと東の方。行き場もなく草原を歩いていたら、まずルカに出会って…それから、他の人たちにも」
「なんで草原なんかに?」
「そこから前が分からないんだ」
僕は、自分がこの世界の外から来たことをぼかした。
なんでか、彼女にはまだ言わない方がいいような気がしたからだ。神様のことも、この体のことも。
「じゃあ…うん、君はもしかしたら、虎だったんだ」
「虎…?」
「そ、元々は人間で。逃げて逃げて、狂気に囚われて虎になった。
そこから、また人間に戻ったの。何故かは分からないけど…やりたいことが見つかったとか?」
やりたいこと?神から受けた預言のことか?そういえば、何故、神は僕を選んだ?
普通だったら信者だったり、正義漢だったり、そういった人たちを選ぶんじゃないか?
どんな理由かは見当もつかないし、彼女の言っていることはきっと的外れ。
「…それ、今考えたの?」
「あ、やっぱりバレてる?」
はは、とお互い笑った。笑えない時に笑うのは何故だろう。
少しでも、傷を浅くしようとする心理なんだろうか。
「まあ、彼らと出会ってからも変わらずだ…何をしていいか分からないから、
とりあえず、彼らの旅に同行させてもらってる」
「へぇ…もしかしたら、馬車が微妙な雰囲気だったのも、スズのこと?」
「ああ、こんな性格だから…ニコに怒られて…」
「ははは、僕もよくおやっさんに叱られたよ。『客には愛想よくしろ』!って。
ま、君らの内容は知らないけどね」
そういうと、タイガが笑いながら杯を差し出した。
「僕の住んでたとこじゃ、乾杯すれば友人だ!なんて言ってね」
「へぇ。おもしろいね」僕も杯を掲げて、そして、一緒に酒を飲み干した。
ああ、苦い。美味しくない。一杯ですっかり酔ってしまった。
けれど、友人と飲むのは、やっぱり、嫌いじゃない。
「旅…そうだ!旅にでよう!」
僕が似合わない感傷に浸ろうとしているところに、彼女がいきなり叫んだから、
口の中に残っていた酒を吹き出してしまった。
「!?…ケホッ……何…旅?」
彼女は太陽みたいな顔で、笑いながら僕の両肩を掴んだ。
「そう!ああ、僕はずっと狭い世界で生きてきたんだ!村でも、街でも、家の中でも!
街から逃げ出して、3日もしない内に全てが変わった!友人もできた!
自分の話をして、分かったんだ。僕はただ詩に憧れたんじゃない、旅人の詩に憧れていたんだ!」
「旅人の詩?」
「そう!帝国を、いや、世界を巡って、見たもの、聞いたもの、食べたもの、嗅いだもの、触れたもの、
それを僕の言葉にするんだ!洞穴で眠る虎なんかじゃない、世界を歩く旅人だ!」
とんだ夢物語だ。と思ってしまった。僕はすぐにその無粋な考えを振り払った。
「ああ、それは、いいと思う」
しかし、彼女も酔っているんだろう。明日になれば、今言ったことを忘れているかもしれない。
「あ!君、いま僕の計画を絵空事だと思っただろう!
ああそうだ!父さん母さんと同じ目をしてる!でも僕は決めた!もう一度、夢を見直すんだ!」
『僕は決めた』彼女がそう言った時、僕はマルコの言葉が頭をよぎった。
――――君は決めなくちゃいけない
タイガが決めたように、僕も、これからを決めなきゃならない。
何でもいいとマタイやマルコは言っていたじゃないか。多分だけど。
「ねぇ、タイガ。僕も君の、これからの旅に、付いていってもいいかな」
正直、酒の勢いもあるし、夢物語だとも思っている。
でも、彼女が『旅に出る』と言った時、羨ましいと思った。楽しいだろうと思った。
今はただ、それだけが理由。
タイガは目を見開いて、固まった。
酔った勢いで言った言葉にこう返されたら、誰でもそうなるだろう。
「僕もずっと、今まで、どうにもならない時が続いていたんだ。でも、君のその夢みたいな話を聞いて、
「え?あぁ…はは!大歓迎だよ!」戸惑いながらそう言った、彼女の顔がほころぶ。
知らない酒場で、僕らはすっかり赤くなって。もう怖いものなんてない。
これまでもこれからも知るもんか。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
店の入り口から聞き覚えのある声。
「あー!やっぱりここにいたぁ!」それはハンナだった。他の仲間も一緒だ。
ハンナは僕たちを見つけると、テーブルの前まで走って来た。「自分たちばっかりお酒飲んでズルい!!」
「お前は車でずっと飲んでたろ」ハンナを追いかけてきたマタイが彼女の頭を小突く。
「あれくらいじゃ足りないよ!何歳だと思ってるの!?」
「知るかよ…。それにしても、スズ、お前ぇ、思ったよりなかなかやるじゃねぇか。ああ?
会ったばっかの女と…」マタイは僕に向かって下品に笑う。
「い、いや、これは…」「いやぁ…はは」
そんなことはとうの昔に忘れていたので、僕は言葉に詰まった。
彼女も言い淀んでいるのは、彼女も僕と同じだったからかもしれない。
「よしなよ…これだからおっさんは…」マルコが背中を突っついてたしなめる。
「んだよ、いいじゃねぇか。お前らはそういう話なさすぎんだよ」
「いらないわよ。そんな話」横にいるルカがつっけんどんに答える。
「ああ、僕も、今はそんなことしている暇はないんでね」
「クッソ、これだから真面目共は…」
「ちょっとマタイー、お金持ってるでしょー?お酒買ってよ」
「…はぁ、バカも同じだ…あ、姉ちゃん。酒、6つ」
そう言いながら、マタイはウェイトレスにコインを渡す。
その横で、マルコが何かに気づいた顔で、僕の横に腰掛ける。
「スズ。ちょっと変わったね。…何かあったでしょ?」
「…うん、ありがとう。これから、ちゃんと話すよ」
「それは良かった」マルコは優しく笑った。
その後ろでは、ルカが不貞腐れて、ジトっとした目で僕を見ていた。
僕はそれに気づいていたけど、気づかないふりをした。
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